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最近つくづく思うこと。
いつからか作品がコンテンツと呼ばれるようになってから、なぜか映画に重みが無くなった気がしてならない。音楽もCDが売れないというが、確かに人気アーチストでも一万枚ぐらいなんてザラだ。ダウンロードなんかになっちゃうとやはり便利な分妙に軽い。これはどういう心境か?
昔は創り上げられた作品をユーザーはもっと大事にしていたような気がする。その基調は本だろうか?分厚い書籍を汚さないようにぞんざいに扱わず、大事に大事に読んだり、最後は本棚に収納することでユーザーは作品をリスペクトした。同じようにレコードだってジャケットからそっと取り出し、盤を丁寧に扱いきれいに拭いて聞いたもんだ。だから逆に、本やレコードがボロボロになるまで楽しんだのもこれまた作者へのリスペクトの証であった。ましてや、ビデオすらない時代の映画なんて、いかに脳裏にとどめるか、必死になって食い入るように画面を見たもんだ。「ウエストサイド物語」や「七人の侍」や「ローマの休日」を何回見たかが鑑賞者の誇りであり、映画の感動は記憶の中で生き続けるものだったのだ。
ところが、CDやDVDの登場の頃から、汚れぐらいなら音や映像は大丈夫なんていわれると、作品は妙に軽くなり、扱いもぞんざいになったし、レンタルや多チャンネル、ネットなどで、映画や音楽が気軽に便利に見られるようになったら、映画作品の感動を記憶することの熱意は「いつでも観られる」という一言で、価値を失った。便利はいいなあ。という感動が当たり前になり、作品をコレクション、収納することの簡便。また作品との接触機会は、格段に増えたが、感動の深さ重みはその分減った。
だから、映画を観てもなんだかずっしりと重い感動を覚える機会も減ってしまたのだろうか?たとえそこが場末の雨降るスクリーンの映画であっても、貴重な時間と貴重な感動体験を味わえ、それこそ一本の作品がひとり人生をも変えてしまう衝撃が映画にはあったのだが、はもはそれも遠い過去になってしまったのか?
観客も変わった。よほどの物量か、巧みでないと宣伝に乗せられない。今の観客はもう観る前に作品の住み分けができている。これは映画館で観る。これは、DVDレンタルでいい。事前情報が蔓延するネット社会で、映画の価値を嗅ぎ取る嗅覚は観客は充分に持ち合わせているのだ。テレビ局主体の映画、アニメ、3Dにヒット作品が集中するのは自明の理。これなら金払っても満足できそうとか、面白そうとか、テレビで観てたから完結編を見なきゃという義務のような安心のような思いが映画館に観客の足を運ばせているのだ。しかし、実際観た映画が大画面で本当に面白くなくては次には繋がらない。観客動員の増加策は一億なんぼの日本において、映画館にゆくリピーターを作らなければ絶対に増えない。安いはありがたいが、面白い作品あってこそだろう。だからテレビ局は絶対に面白い映画を作らなきゃだめ。
かつて山田洋次監督は「いい観客がいい映画を育てる」と言った。けだし名言である。いい映画ファンを作るのである。成熟したファンが多くなれば多少芸術的、難解映画だってそういう作品の客足は増えるだろう。黒澤監督は「ステーキにさらにうなぎのかば焼きをのせたぐらい観客を満足させる映画を作らなきゃだめだ」と言った。これもその通り。「この面白さにお金の価値あり」ということだ。「ET」や「タイタニック」や「千と千尋の神隠し」のヒットと満足感はそういうことじゃないだろうか?
そのためには、良い作家、クリエイターを育てるべきだ。国は映画支援に本腰で仕分け対象などせず、映画界には温かい支援をしろといいたい。百億ぐらい使ってよ。或いは儲かったら返す方式の制作資金援助したっていいんじゃないの?韓国は国を挙げて映画を応援してるからこそ、世界水準の作家が生まれてる。日本にだって優秀なクリエイターはいるのだ。
ちょっと話を戻せば、映画や音楽が消耗品になってるのが辛いんだよね。作品ってもっと感情的で、胸を抉るような、もったいないようなものなのだと思うんだよね。俺はね。街の名店の洋食やがつんと旨いとんかつや味わいのあるフルコースような気がするんだ。決してファストーフードやカップラーメンじゃないんだね。
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