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ウォンビンの「アジョシ」を観た。
水曜日。女性サービスデーのためか、午後とはいえ、銀座の劇場は女性客で賑わっていた。
イ・ジョンボム監督の「アジョシ」は全編映画的快楽に満ちた傑作であり、ウォンビンの代表作となろう。
さまざまな人物キャラクタ設定から始まって、アクション演出の工夫、キャスティング=俳優のハマリ、決めゼリフなど、ゾクゾクする出来である。
まず、謎の過去を持つ男と孤独な少女。
「レオン」「タクシー・ドライバー」など、過去の名作を思い出す設定がうまい。ジャン・レノやデニーロを彷彿とさせる主人公の設定は、汚れた大人社会から汚れなき命を救うために男が戦うという涙ぐましき展開を予感させる。
シャブ中のダメ母、そのヒモの馬鹿さかげん。そんなどん底の生活を余儀なくされる少女毎日は悲惨だ。近隣の大叔(アジョシ)に強引に接することだけが楽しみ。子供同士でも疎まれ、万引きをし、母からもどなられる。淋しき「少女時代」である。夢は、ネイルアーチスト。健気な子供を「冬の小鳥」のキム・セロンが抜群の存在感でみせる。この子は巧すぎ。
一方、アジョシことウォンビンは、元国際諜報員。敵対組織の不意打ちに妻とお腹の子供を一瞬にして失って以来、生きる気力を失い、人の世を捨て、なぜか「質屋」を細々やっている。
しかし、ひとたび事件が動き、危機に遭遇すると抜群の瞬発力で敵をなぎ倒す。この瞬間、この変貌がこの映画が輝きを増す絶妙の一瞬である。気持ちよく、カッコいいのである。
「座頭市」的変貌と「用心棒」的俊敏。これぞアクションのお手本。「トゥルー・ライズ」のシュワちゃんも、「Mr&Mrsスミス」も結局こういう変り身の快楽である。
敵役も敵役だ。横柄な親分、そして憎々しい兄弟、いかにも俗物の兄貴と、Rolly似の感情も爬虫類的弟、この変態悪人ブラザースが抜群のいやらしさである。こういう奴はぶっ殺せ!と誰もが思う極悪非道さである。任侠映画を思い出す「よ、健さん、異議なし!」的敵への憎悪をプンプンに巻き散らかす。
だからこそ、ラストの修羅場が映画的興奮を生み出す。
また、ウォンビンの存在に、憧憬と似たもの同士のような不思議な敵対にある男も面白いし、安っぽいチンピラや、ふてぶてしい親分も憎らしい。
要所要所に登場する役でも、笑いを誘う中国語通訳の学生バイトくんや町の雑貨屋の温厚な主人、手引きのおばばの悪顔。ダメ母のバカ美。(これは、「愛のむき出し」のバカママ母を思い出す)。 追跡劇を繰り広げる刑事たちも妙に生活臭プンプン。いかにも現場の刑事という感じでドラマを走らせる。
ひとりとして無駄なキャラがないのがこの脚本の巧さでる。つまり、キャラの登場に意味があり、ドラマに効果が生まれる布陣なのだ。
アクションは、かなりハードな描写もあるが、ゴルフ練習場の網に落ちるウォンビンの天空からのスローモーションやワンショットの窓からの脱出ぶち破り。地下駐車場の対決。当然ラストの討ち入りは素晴らしい。
そして決めセリフ。「弾は一発まだある」。思い出しませんか?そう、「仁義なき戦い」のラストの広能昌三のセリフですなあ。
「お前たちは明日に生きるが、俺たちは今日を生きる」云々も何かで観たような?
全編、日本の任侠映画 の構造で作られた「アジョシ」。
こういうのを見ちゃうと、またまた、韓国映画から抜けられない。
韓国でも670万人動員の大ヒットを記録したらしいが、それもうなずける。
日本もこれくらいの作品は作れないものか。「アジョシ」に比べて、幼い精神構造作品が多いのが気になる。
その日本映画。
「僕たちは世界を変えることができない」は、深作欣二監督の息子、深作健太作品。
こういう映画は、世のため、人のために尽す内容なので、ごもっとも。
なので反論もおこがましくなるが、果たして映画の出来としてはどうだろう?
医大の学生が主人公なのだが、いくら社会人前とはいえ、こんなに精神が幼いのか?中高生なら分かるが、阿部先生には説教をくらい、人前ではおどおど、挨拶、スピーチもまともにできない。医大生はこんなにガキ?
向井理は久々登場のいい役者なのだが、どうも27、8にしか見えなくて、それでいてこんな童貞みたいな役だから、そのギャップはどうも居心地が悪い。
ぶざま、かっこ悪いが似合わないくらい。良い顔してるもの。惜しい。
まあ、現実とはいえ、カンボジアのくだりがあざとくてな。
HV感染者や、赤貧の家族など、なんのてらいもなくまんま出しちゃうのはどうなの?女性は落ちも見えちゃうし。
映画で使われるブルーハーツの「青空」は名曲だが、どうもこの映画での効果はどうよ?あんな風に入校式で歌うか?エソラ的感動盛り上げにもウンザリ。
さらに「セカンドバージン」は、ひどかった。
確かに映画というパッケージにはなっているが、そこに流れる中身という名の内容は空疎。過去の回想と看病とその周辺をぐるぐる廻るだけの他愛のない展開である。テレビドラマは一切観ていないが、映画だけも楽しめるかと思いきや、あまりの何も無さに睡魔と欠伸の連続であった。このくらい何もない映画も近年珍しい。
いくら予算を工夫してというか、やりくりして何とか作るみたいなマーレーシアロケなんて、何の効果がある?こんなに映画に金使いたくないなら、映画なんて作るなよ!ヒドイ!
また、「おっぱいバレー」の時も言ったが、こういうのってはっきり言って、客が納得するジャンルはポルノだろう。それを「おっぱい」はつまらん青春ノスタルジイコメディに終始し無害の映画に落ちぶれたように、こちらは安っぽいメロドラマに話を転換する。
舞台はマーレシアで、エキゾチックなムードなのだから、異国の「エマニュエル夫人」くらい描写が濃厚じゃないと、映画とか映画館という特別な空間に耐えられないだろう。
服を着たままもぞもぞしあうところにもはやこの映画が観客と格闘する気のない、戦意喪失映画であることを立証している。
鈴木京香はばっくり露出しなければ、女優としてもこの役にほれ込んでいる思いも伝わらず、「お仕事、お仕事」の域でしかない。
だからそんなもんに観客が付き合うはずもない。
もっと、エロく、そそらなければ、この映画は、スパイスの効いていない無味のエスニック料理と同じで、誰も食わないということだ。
ただ、たわけて、鼻につく、アラフォー女の戯言に付き合う時間は今の観客にはほとんどない。劇場の空席がそれを物語っていた。
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