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 最近視力が落ちた。
 パソコンの画面もしんどいから、せめてもう少しマシなディスプレイにするべきかもしれない。


 ところで、「目が見える」というのは、実はたいへんなことだ。
 単にカメラみたいに、光がレンズを通って網膜に像を結ぶというだけのことではない。
 もちろんそういう光学的な仕組みも必要なのだけど、ただそれだけではモノを「見る」ということにはならな
いらしい。


 生まれたての子供はまだ目が見えない。
 詳しいことは知らないけれど、少なくとも人間においては、光学的な眼の仕組みが整っているだけでは「見る」ことはできない。

 「見る」ことは、脳が視覚を通して外界を認識することだから、その「認識」の仕組みが完成していなければ、世界を見ることはできない。
 この視覚による認識の機能は、生まれてから間もない期間の間に完成させなければ、そのあとでは二度と獲得できないものだ。*注1


 だから、器質的に障害があるなどして生まれつき眼が機能せず、あるいは生まれてからまだ間もない頃に失明して、「認識」の機能を完成できなかった人は、その後たとえ眼の器質的な機能が回復できたとしても、生涯モノを「見る」ことはできないらしい。

 だから角膜移植などで視力を回復できるのは、中途失明の人だけ。
 生まれつき目の見えない人が途中から視力を得ることはできない。*注2




 映画『マトリックス』(1999年アメリカ)とそれ以降の同シリーズでは、人間が電子頭脳によって管理され、外界からの電気刺激によってずっと仮想現実を体験させられたまま、身体はずっとカプセルの中で成長を続け、機械(=電子頭脳)がそれら人間の発するエネルギーを搾取するという恐ろしい世界が描かれていた。

イメージ 2


 どの段階からなのかよくわからないが、脳に仮想現実を体験させられたまま成長を続けるというのは、はたして可能なのか。

 このあたりのことは、もうすでにさんざん批判され尽くしたことなのかもしれないが、そもそも仮想現実の世界で生きているのと同じ顔や体型のまま、カプセルの中で成長し続けるというのは、到底ありえないように思える。
 五感の刺激だけでなく、体じゅうの筋肉などにもバーチャルな刺激を与え続ければ、仮想現実と同様に成長しうるというのだろうか。


 ではたとえば「見る」という機能はどうなのか?
 一度も実際にモノを見て認識したことのない人間が、仮想現実で視力を得ることが可能だろうか。

 現実に生きているのと同じように 脳に対して刺激を与えれば、視覚によって外界を「認識」する機能も完成させられるのだろうか。
 それはおそらく どれだけ科学技術が発達しても不可能だろうと思われる。

 一度も外界を見たことのない人間は、空想や夢においても世界を「見る」ことはできない。
 映像付きの夢を見ることができるのは、一度でも視力を得たことのある人だけだ。
 生まれつき目の見えない人は、映像のない夢をみる。




 かつてNHKでドラマ化されたこともある、岡嶋二人の『クラインの壺』という小説(1989年)は、主人公の上杉彰彦が、バーチャルリアリティー(VR)を応用した新しいゲーム機のテストプレーヤーとして 実際にVRの世界を体験するうちに、自分が今 現実世界にいるのか 仮想現実の中にいるのか わからなくなってしまうという、当時としては斬新で衝撃的なストーリーだった。


 この小説に登場するVRを応用したゲームの試作機「K2」は、
 人型の凹みのあるスポンジ・ラバーが敷き詰められたベッドの上にプレーヤーが全裸で横たわり(それはまるで大きな鯛焼きの型のよう)、顔面をマスクで覆われ、そのあと体の上半分にも同様のスポンジ・ラバーの型が覆いかぶさる仕組みだ。
 スポンジ・ラバーは最初少しむず痒いが、すぐに皮膚になじむし、マスクは口や鼻の中まで入ってくるものの、呼吸には何の支障もなく、顔が覆われているという感覚もすぐに消える。
 ゲームが始まる前、眼を開けてみると、何も見えないけれど真っ暗ではなく、ぼんやりとした光に包まれているという。

「スポンジ・ラバーは、すぐに皮膚になじんだ。感触は悪くなかった。見た目と違い、実際にその上に身体を置
いてみると、いつまででも身体をこすりつけていたくなるような感覚だ。なんだか、性感をくすぐられているような気持ちがした。

 という記述は妙にリアルであり、実際に本格的なVRの装置があれば きっとこんな感じではないかと思わせるような
描写となっている。


 ゲームが始まれば、プレイヤーは VRによって作られたゲームの世界の中で 自由に身体を動かすことができるし、驚くことに 飲み物さえ普通に飲むことができた。

 ゲームが終わればプレイヤーはスポンジ・ラバーの型から出て、マスクも外され、現実の世界へと戻るわけだが、現実の感覚を忠実に再現するこの装置を以てすれば、ゲーム機から出たと見せかけて、そのままプレーヤーを装置の中にとどめておくことも可能となる。
 かくして主人公の彰彦は、最終的に自分のいる世界が現実なのか、それともゲームの中なのかが わからなくなってしまう。

 タイトルとなった「クラインの壺」とは、「メビウスの輪」のように表と裏の区別がない曲面の一種で、内側と外側の
区別がない容器のような 架空の立体図形としてイメージされるものだ。


イメージ 1


 人間の視力というものが、単なる光学的な眼の仕組みによって得られる刺激だけで成立しているものではないという事実は、
 私たちが「現実」として認識している世界が、実際には外部の客観的な世界そのものではなく、何らかの私た
ちの「価値」あるいは「意味」を介して認識される “客観的な現実世界そのもの以外の何物か” であることを暗に物語っている。

 その意味では、近年急速に脚光を浴びつつあるVRの技術は、現実世界に対する人間の認識の脆弱性を利用した、ある意味 “危険な”技術であると同時に、人間と世界の関係についての誤った知見を社会に広めてしまう恐れのある技術であるとも言えよう。



 私は医学やVRの専門家ではないし、「見る」ことの仕組みに関する記述も正確ではないかもしれないが、とりあえず今日は自分の知識に基づいて思いついたことを脈絡もなく書いてみた。

 たいした話ではないだろうけれど、「そういう話もある」という程度のことだと思って読んでいただければ幸い
に思います。



 *注1)*注2) この部分の記述には誤りがあります。
 生まれつき目の見えない人が外科的手術等で途中から視力を得る場合もあり、視覚による認識の機能」も限定的ながら成長後に獲得できる場合があります。
 詳しくは、2017年7月7日付『訂正記事−先天的に見えない人の視力獲得について』を見てください。(2017年7月7日追記)

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