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こんばんは。 ちょっと時間が出来たので、新年に掲載したっきりの永弘や初弘についての記事を書きたいと思ったんですが、あまりに編集内容が多いため挫折です。orz 永弘と新潟鉋についての記事はまた別の日に書くことにして、今日は別の話題でお茶を濁します。 ってことで今日は特殊鑿の一つである向待鑿についてです。 向待鑿は建具などの精密なホゾ穴を掘るために作られた鑿で、建具屋鑿などとも呼ばれます。 建具屋鑿とは言っても大工さんも希に使うことがあるようですし、指物製作などにも使う場面はあるようですので、厳密には極端に専門性の高い道具とは違うのでしょうが、しかしやはりなんといっても建具屋の代表的な道具であるという意味なのか、そのように呼ばれるようです。 向待鑿は正確なホゾ穴を掘る用途のため、極めて高度な精密さが求められ、追入鑿、叩鑿、大突鑿などとは比べ物にならないほどの整形精度が要求されました。 しかし近年では電動工具の普及により需要は皆無となり、ほとんど「忘れ去られた道具」と言っても過言ではなくなってしまったようです。 そのため古物市で名工の作品が売られていたのに、友人の建具屋さんは「使わないから要らない」と言って買わなかったという話もありましたし、逆にそのような需要の少なさゆえ最も良品との遭遇率が高いという意見も聞かれます。 しかしどうしてでしょうか・・・・・、私の場合ツイていないのか良品を見分ける目が無いのか? あまり内容の良い品との遭遇率は高いとも思えませんし、名工の作品などと言えるような物はとは未だに巡り会えず、です。 向待鑿作りの名手といわれた工人と言えば、千代鶴・石堂はもちろん、正光、助國、國秀、正芳などがいましたが、これらの工人の作品はまだ叩鑿か底取鉋でしかお目にかかったことがありません。 現代の向待鑿に対する需要の少なさを思うと、もっと目にする機会があってもいいと思うのですが・・・・・。 写真の鑿は、無名ながら良くできていると思い買った物、実用品に良さそうだと思いとっておいている物、などです。 幅は広い方から一分七厘、一分三厘、六厘ですが、日本の伝統尺度である尺貫法よりもメートル法で5mm、4mm、1.8mmと表現する方がシックリきます。 このように寸法が一分(約3.03mm)以下の単位で作られた理由は、規格の単位が最小で一分ごとの追入鑿などよりも、微妙な寸法の違いが使用時に使い勝手としてハッキリ反映されてしまうことによるのでしょうが、この1mmずつに寸法の違う物が揃えやすいという規格は、現代では建具作りよりも鉋台の押さえ溝をさらう用途に向いているのではないかと思えます。 これは鉋台を自作するとイヤでも分かりますが、追入鑿の中でも細い部類の規格である一分鑿や二分鑿ではどうしても作業がし難いことが多々あるためです。 現代の鍛冶屋さんの鉋刃を台入れする場合は鉋身の厚みが厚いためさほど苦労は無く、二分幅の鑿があれば多くの場合問題無いのですが、作り込みの薄い昔の鉋では厚みが6mm未満の物も少なくなく、当然このような場合では二分幅の鑿は使えませんし、次善の策として一分幅の鑿を使うと、今度は鑿の幅が必要以上に狭いことによる強度不足に気を使わなくてはいけなくなります。 その点では向待鑿は幅が狭くても縦方向には厚みがあるため、案外こじるような使い方をしても穂が折れるような心配が無いのです。 ところで4mmの鑿は入手時には研ぎ崩され具合が酷く、裏も凹んだ砥石で研がれていたため「向待の外丸鑿」になっていましたので、裏スキを作り直ししています。 このような細い幅の鑿は鉋の台堀りでは便利な道具ではありますが、裏の修正となると結構大変なもので、精度を出すのに苦労しました。 このような細い鑿では裏スキを縦向きにすれば幾分か作業は簡単になりますが、やはり精度上の理想から考えて横向きにスキ直しています。 ちなみに何年も前に追入鑿の裏スキを修正した時は一切機械を使わなかったので、作業の効率を考え縦に透きました。 今は廃業した東京の鑿鍛冶左市弘さんは、確か五厘位の鑿なら普通に裏は横向きに鋤いて作っていたと思いますが、幅の狭い鑿では裏を鋤かない作者の方が多いそうで、上に掲載した六厘の向待鑿も新品未使用品なのに裏スキが無い状態でした。 さて、仮にこの六厘の鑿と戯れている時間があるとして、裏は鋤くかそのまま使うか悩むところですね、
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こんちわ。 案の定、先日右手を怪我したことにより手を存分に使えないストレスでイライラしています。(笑) 昔の名工についての情報を都内の大工道具店で聞いて来ていて、それらの情報が頭の中でパンクしそうなので、気分転換も兼ね忘れる前に記事にしておきます。 今回は一月一日に掲載の道具の中から、初代・龍進斎悦英の鉋をピックアップしてみます。 初代・龍進斎悦英は本名を堤伝作というそうで、新潟の長岡出身、刀工兼道具鍛冶の龍眠斎兼行に師事し、後に東京神田橋に出てきた名工です。 特筆すべき点としては、やはりなんと言ってもとても大きな問屋にまで上り詰め、多くの優秀な弟子達を排出したという事が挙げられるでしょう。 悦英系統の後代は東京やその近辺で活躍した工人が多く、末裔である堤朋一氏のように男盛銘の鉋で全国的に有名になった工人や、小鉋作りの名工として知られる丸山銀二氏なども含まれます。 初代悦英は大変に勤勉な職人だったようで、いつも鉋を必要分よりも余計に作っていて、販売する分以外は質屋に預けていたそうです。 そうしたところあるとき関東大震災が起き、その後の急速な復興需要に合わせ質種としていた鉋を販売したところこれが飛ぶように売れ、これにより莫大な資産を得て巨大な問屋へと急成長したとのことです。 ところで師匠筋はというと、龍眠斎兼行は幕末の刀工として有名な水心子正秀や坪井幸道に師事したとのことで、元々のルーツは刀鍛冶から始まっているようです。 この辺りはかじやさんのブログ「鍛冶屋−木工具の今と昔」に詳しく書かれており、系統樹を引用すると以下のようになります。 坪井幸道 ↓ 龍眠斎道次 ↓ 龍眠斎兼行 ↓ 初代龍進斎悦英(堤伝作) ↓ 二代目龍進斎悦英(堤政悦) そして男盛銘で有名な東京の鉋鍛冶堤朋一氏も、この堤一族の末裔に当たるそうです。 確か堤朋一氏ももう鬼籍に入られてから何年も経っていたと思いますが、男盛銘の鉋は堤氏亡き後も問屋銘として三代に渡り作り続けられています。 それに初代悦英の弟子だけでも10人以上いたそうですので、この系統についてはもはや全体像を正確に把握することすら困難なほどの規模であると言っても過言ではないと思います。 また龍進斎一門の中には優れた工人が相当数いたようで、特に佐藤松蔵・善次兄弟のように親方各であるはずの悦英自身が向う槌を振るう程の卓越した技術を持った工人の話も伝えられています。 それだけの規模があったからでしょうが、かつては悦英銘の鉋は銀杏面などの小鉋・特殊鉋類でかなり出回ったようで、今でも取り扱っている道具店はありますし、古物市でもかなり良く見かける銘でもあります。 ですので問屋銘の比較的新しい悦英は数多くあるわけですが、古い悦英は割合としては極少なく、なかなかお目にかかれません。 古い時代の目印は梅鉢の刻印で、中には上の大鉋のように「褒状」の刻印や菊の紋の刻印が打たれた物もあります。 ところで、この菊の紋については最近までずっと調べていたのですが、イマイチどういう経緯で捺されていたのか分かりません。 何か頭の中でずっと混同していた話があり、明治年間中に開催された博覧会にポンプを出展した話が関係無かったかな?と気になり調べていましたが、これは大阪の初代善作についての話で、悦英は関係なかったようです。 私が混同していた善作のエピソードは、四国の香川量平氏が削ろう会会報に寄稿したレポート「名工の鑿鍛冶『善作』の話」に記載されており、一部を引用すると「初代善作の孫にあたる小島晴惠さんの話によると、その当時、ポンプを考案して大阪で開催された第五回内国勧業博覧会に出展し、後の大正天皇よりお誉めのお言葉を戴いたという逸話が残っている。」―といったものでした。 善作の話はさておき、「菊の紋」と「褒状」の二つの刻印から、恐らく初代悦英も皇室関係者から何らかの「お褒めの言葉を頂いた」的な話があったのではないか、そしてこれらの刻印は何かそれに関連し誇る出来事があったため打たれたのではないか?と個人的には推測しています。(特にこれといった根拠もないですが) しかし当時は大らかな面もある時代であった半面、「皇国バンザーイ!\(^0^)/」という風潮の全盛期でもあり、「勝手に皇族の家紋を使のは不敬罪である」というお叱りを受けたそうで、それ以降は菊の紋は使わず「褒状」の刻印だけを使うようになったと云われています。 上記の「お叱りエピソード」が龍進斎悦英初代の時代の話で、後代は新潟の長岡ではなく東京で活躍したわけですが、そのようなやや事件的な経緯が初代の時代の出来事であったため、この鉋に関してはまだ「長岡の悦英」と呼ばれていた時代、―つまり初代の作品とハッキリ断定できるようです。 参考写真:村正銘 八分大突鑿 それにしても、この龍進斎一門近辺の職人は、会津の道具鍛冶系統や千代鶴是秀・石堂家とも共通する傾向として、鉋以外の作品も手掛けるという、やや野鍛冶っぽいというか、ナンデモ鍛冶(謎)といった風な印象もあります。 村松貞次郎著「道具曼荼羅」には龍眠斎兼行の作品として鉈が一振り掲載されていますし、同じく兼行の作品で大突鑿も見たことがあります。 そしてこの写真の大突鑿も悦英自身の作品ではありませんが、その系統の工人の作品の可能性がかなり高そうな物です。 「道具鍛冶」と分類される工人がわりと色々な種類の道具を作ることは当時は珍しいことではなかったようで、前述の千代鶴・石堂はもちろん、会津の名工達や新潟の名工達、関西では善作や梅一などが幅広いレパートリーの道具類を作っていたことが知られており、機械化・大量生産化が進む以前の時代は、レパートリーの狭いいわゆる「専門鍛冶」はまだ主流派ではなかったのかもしれません。 上の大突鑿、銘は村正ですが、これは悦英工房で作られていた大工道具でよく見かける銘です。 同様に悦英の問屋銘としては行安などもよく見かける銘で、これらは東京の茅場町にあった武藤勘助商店の屋号で、やはり悦英の一門が手掛けていた銘なのだそうです。 これらの商標銘もかなり古い作品に見られる物で、この頃の作品の鋼は明治頃に輸入されたごく上質な現代鋼が使われているようです。 一般的に悦英系統の作品は、堤朋一氏の時代前後から青紙系の合金鋼を使った作品が主流に変わってゆきますが、このように古い時代の作品には炭素鋼系の鋼が使われています。 この上質な輸入炭素鋼は千代鶴是秀が使用していた物と全く同じ物ですが、当時流通していた鋼の中ではかなり高価だったようで、是秀もこの鋼を求めるたにめなけなしの有り金を全て叩いて買えるだけ買い求めたそうです。 一方の悦英はというと流石に大問屋なだけあって、広い工場に天井まで届くほどに高くこの鋼を積み上げてストックしていたそうで、その光景を目の当たりにした是秀は「流石悦英さんだ」と驚愕したとの話が残っています。 やはり貴重な鋼だったのでしょうが、堤朋一氏の活躍する昭和の時代までこの鋼を使い続けることができたのは、このような大問屋としての在庫維持力があったからということなのでしょう。 それにしても、やっぱりこの鉋デカ〜イ・・・・・。(汗) 実際に寸八鉋と比べると、見た目だけでなく重量もかなり増えています。 台はどうやら刃を深く挿入した状態で保管されていたようで、そのため木の収縮により刃口が大きく割れていますし、小口もヒビだらけなので使い物になりません。 元々節もあるあまり質の良くない樫材だったようですが、今一枚板で実用的に使える樫材を見つけるのはまず不可能でしょうから、厚み1分から3分程度の薄い樫材を下端のベースとして、積層構造の合板台を作るしか手段が無さそうです。 恐らく金属なども用いる面倒な仕様の台になると思いますが、そのパーツを集めてくるだけでも大変なので、削り華を見れるのはまだまだ先のことになりそうです。
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今日もいつもの通り、マイペースでお仕事をば。 「ガシガシガシ、ツルッ!ザク!」 ヒョ(;@∀@)? ハイ、何年振りかのキズパワーパッド先生へまっしぐらです。(汗) ちょっと大げさな対応かな?とも思いましたが、それなりの出血量でしたので、対応を間違えたということもまぁ無さそうかな、と。 輪ゴムで指をグルグル巻きにしてから、出血が止まるまで10分位だったか・・・・・? 5分ではききませんでしたので・・・・・。 こりゃ風呂とか面倒そうだなぁ。(T_T)
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こんばんは。 今年も相場ワークスで開催された手仕事フェスタに行ってきました! 今年は尚さんが参加できず天然砥石の試し研ぎは例年より規模が縮小気味でしたが、前々から必要だったアトマエコノミーの替刃をあきらパパさんのお店で購入でき、個人的には良い買い物ができてホクホクの帰路でした。 ネットで買うより、送料分得した、って感じでしょうか。 今年はtyousanさんに誘われて三鷹のやまあさ伊藤商店へ行くことになったので、お昼下がりには相場ワークスを発ちました。 当初の予定は自転車で三鷹まで行くつもりでしたが、なんととぎやTOGITOGIさんの車に乗せて頂き、とても楽をさせてもらえました。 本当に有難うございました! おかげでその他の道程は行きも帰りも全て自転車で、輪行袋は使わずに済みました。 昨年もその前年も、あまりに厳しい暑さに一部区間は輪行し電車で移動しましたが、今年は天気も小雨で気温が低くかったのもあり、死にそうという程ではなかったです。 正直、毎年こういう天気だと有り難いのですが・・・・・。 そうそう、今年もまたうっかっり写真を撮り忘れ、画像という画像が全く無いのです。orz 仕方ないので、明日以降アトマの仕込みをブログに載せていこうと思います。 スンマセン! あきらパパさん、tyousan、とぎやTOGITOGIさん、今年もお疲れ様でした! そして有難うございました!<(_ _)>
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先日掲載した尚さんからい頂いた金床ですが、面白い活用法を思いつきました。 カギになるのはこの「道具箱のフタ」です。 位置調整のため、適当な大きさのスペーサーを置きましょう。 手近だったのは常三郎の金盤。 これも鉄製ですので、重量があって丁度良いです。 これを段差の所に引っ掛けます。 そして金床も置きます。 これを道具箱のフタの段差に引っ掛けた金盤に、さらに引っ掛けます。 そしてこの金床と、道具箱のフタの反対側の段差を利用して鋸の目立て用挟み板を立てかけるのです。 このようなスタイルなら挟み板の固定がやり易く、無駄な所に気を使わずに目立てが出来ます。 何と言ってもこの重量感が良く、不動の鉄塊だからこそパタリと倒れてしまうような心配も無いわけです。 鋸の目立てをやり始めると、いかにして作業しやすい姿勢が取れるように挟み板を固定するかに苦労しますが、このやり方はこれまで試した中では結構楽だと思います。 今日も尚さんの方向に手を合わせています。( ̄人 ̄) これまで使っていた固定用の治具は、このような木製のを組んだ物でした。 これはこれで自分の作業し易い体勢に合わせた形を思い通りに作れて良かったのですが、使い続けると木組みの箇所にガタが来やすいという問題もあります。 蛇足ながら、この自作の固定用治具、Ipadを立て掛ける用途にも流用できる設計です。 下の所の切り欠きはアダプタからのコードを通せるようにした物。 しかし最近では目立ての頻度が少なかったため、もっぱらIpadの「帰宅先」になっていました。
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