鉄の表情ぎゃらりー

今年も古物市探索頑張るぞ〜!

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こんばんは、新年に名品ぎゃらりーを更新してからというもの、あっという間に数か月が経ってしまいました。

前回も書いたように、あれ以来忙しくしたり風邪を引いたり腰を痛めたり色々ありましたが、やっとの更新です。


今回は新年の記事で紹介した仲や久作を紹介したいと思います。

―が、この工人は色々な伝説や研究報告による情報が錯綜しており、ブログの記事一つでまとめ上げることは難しいので、今回は数回に分けて掲載していきます。


https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-68-91/new_alces/folder/627621/31/27476631/img_4_m?1464131462
笹葉銘部分の群像  私物および「鋸・墨壷大全」(小川雄一発行)掲載図からのトレース


まずは仲や久作と聞いても誰ソレ?って方も多いと思いますので、そのあたりの紹介からです。


仲や久作は明治時代前後に、東京で鋸鍛冶としては十五代、十六代と二代に渡って活躍した名工で、笹葉銘の久作として人気のあった工人でした。

笹葉銘とは単打法と呼ばれる独特の方法で切られた銘で、一枚ずつ笹の葉を置いたような銘振りであることからこのような名称で呼ばれます。

久作の書体はその笹葉銘っぷりが特に顕著であったため、久作の笹葉銘は一種のトレードマークとして見なされています。


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久作が名工といわれる所以は、玉鋼の選別に特に優れた実力を発揮したことによるとされています。


玉鋼とは近代製鉄法が普及する以前の時代、原始的なタタラ製鉄法・製鋼法によって作られた伝統素材の鋼です。

これはごく一部の上質な部分を最上の技術で鍛錬した場合のみ最高の切れ味を発揮できる可能性を持つものの、あまりに品質が不均一なため、優れた刃物・道具を作るためには炭素量が多く均質な部位を選別・鍛錬することが不可欠で、そのうえ焼入れを均一に行うことも難しいため、鋭く長切れする良い刃物を作ることが大変に困難な素材でもありました。

明治の終わりごろ、長い鎖国の眠りから覚めた日本では徐々に海外から輸入された現代鋼が普及し始めます。

すると手間を掛けずとも均質な現代鋼に比べ、選別が難しいうえに均質化に手間が掛かる玉鋼はその生産性の悪さゆえ、やがて明治末期〜大正頃には駆逐されてゆくことになります。

そんな時代の東京で、玉鋼を用いて鋸を作る職人としては最後の名工として位置付けられるという点が、仲や久作について、そして東京鋸鍛冶の歴史において特筆すべき点として挙げられるのだと思います。

これは決して「玉鋼を用いる鋸鍛冶として最後の一人だった」という意味ではないのですが、当時すでに玉鋼を上手に扱える工人が久作の他におらず、また東京鋸鍛冶の黄金期が実質的に久作の時代で終焉を迎え、この業界自体もこの頃を境に緩やかに衰退していった―という時代の流れもあるために、多くの批評家から東京最後の玉鋼時代の名工鋸鍛冶と総括され、そのような評価が定着したのだと思われます。

東京の鋸製造の歴史を広く見渡す視点に立つとき、仲や久作のそのような位置付けは、玉鋼を扱いはするものの決して上手とは言えなかったその他大勢の工人達を、使用者達により語り伝えられる伝承の外へと追いやらざるを得なかった結果として、必然的に導き出された評価なのだと私は解釈しています。


それにしても、仲や久作については謎は多いものの鋸鍛冶としてはそれなりに情報が残っている方で、改めて考えてみるとこれは道具鍛冶としては少し珍しいことです。

久作以前の時代に目を向ければ、東京にも少なからぬ数の玉鋼を上手に使える名工達がいて、例えば二見屋系統の甚八を筆頭に調布で活躍した初代・二代沖五郎や、その弟の府中の常五郎、浅草・安部川町の中や平治郎などがよく知られており、さらに東京周辺の地域にも群馬県・桐生の中屋熊五郎や、埼玉県・深谷の秀五郎、栃木県・宇都宮の中屋作次郎など、関東全体で見るとそれなりの伝統や、業界の層の厚みというものがあったと言えそうです。

ただしこれらの名工達は、情報の残り難い徳川末期から久作の活躍したのと同時代の明治前後に活躍した工人であり、その系統樹のような情報や技術の多くが闇に埋もれたまま消えてしまいました。

一方の久作の場合は華々しい伝説が多かったために、同時代やそれ以前の時代の工人達と比べて死後も注目が集まり、名声も高まり続け、それがゆえに今日まで情報・伝説などの逸話の類が多く残ったのかもしれません。


例えば久作にまつわる有名な伝説の一つとして、総理大臣のお買い上げ伝説があります。

明治21〜22年頃のこと、久作の仕事場前に二頭立ての馬車が止まり身なりの良い紳士が降り立ち、縦挽き・横挽き一対の片刃鋸を注文しました。

久作が手付金として三円五十銭を求めたところ五円札を差し出したため、つり銭の一円五十銭を取ってきたところ、気の早い紳士はサッサとその場を立ち去っていたそうです。

妙な話だと思ったのでしょう、後日注文した鋸を買い上げに来た使いの者にその紳士について尋ねたところ、その人物は時の総理大臣・黒田清隆であったとのことで、久作は腰を抜かすほど驚いたのだそうです。


他の有名な話としては、名工・中屋平治郎の仕事場で技術を盗んだエピソードもあります。

久作がまだ駆け出しの職人で名工と呼ばれる以前のこと、東京では中屋平治郎が最も有名で、焼き入れ・整形ともに圧倒的な技術を誇り東京鋸界の頂点に君臨していました。

若い久作は何とかしてその道の先達である平治郎から焼入れの秘伝を聞きだそうとしたようですが、平次郎は「会津の先生に教わった」とは語ったものの、肝心の技術については教えてはくれなかったそうです。

このエピソードを紹介している書籍「千代鶴是秀」(土田昇著)によると、平治郎の語ったところの「会津の先生」なる人物は会津を代表する名工中屋助左衛門と目されているようで、助左衛門の本家筋に当たる会津の中屋重左衛門が編み出したとされる油焼入れの技術は、当時はまだ一部の工人のみしか知らない先進的な技法だったことが伺われます。

久作はなんとか最先端の秘伝を教わろうと平治郎の仕事場に足しげく通うことになりますが、ある時平次郎の仕事場を訪ねたところ、タイミングの良いことに平治郎が焼入れをしているところに遭遇します。

遭遇した―と言っても窓や扉などが塞がれ全ての明かりが遮られている最中のことでしたので、久作は平治郎に直接会ったわけではないのですが、同じ鍛冶屋ですからその様子を見れば久作も流石に「あ、焼入れ中だな」と気がつきます。

丁度その時、面白いことに平次郎の仕事場から外まで天麩羅の匂いが漂ってきます。

焼き入れ中の仕事場、天麩羅の匂い。

この二つのヒントで久作は平次郎が油で焼入れをしていることをさとったそうです。

これ以降、油焼入れの技術を身に付けた久作の鋸は品質が向上し、久作を名工の地位まで押し上げることになりますが、油による焼入れ法が確立される以前はというと、鋸は泥や砂などに入れて焼入れをするのが一般的であり、焼入れ効果が十分に出難い泥焼きの鋸は硬度が低く切れ味も冴えの無い物が一般的でしたので、当時の油焼入れ法の普及による鋸の品質の向上はやはり革命的と言っても過言ではなかったようです。


https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-68-91/new_alces/folder/627621/31/27476631/img_9_m?1464138180
(左:十六代久作の縦挽鋸の図 右:言い伝えを参考に自分なりに復元してみた図)


ところで十五代・十六代仲や久作は、玉鋼の選別・卓越した鍛えの技術により名工と位置づけられていますが、鋸の姿作りや板のスキなどの肉回しは名声の高さからすると「残念」としか言いようがない位にヘッタクソで、鋸の研究家・収集家達からはその姿作りの稚拙さゆえ「田舎ノコ」と言われているほどです。

そのため、播州三木の鋸鍛冶の名工・宮野鉄之助は久作の作品を見た際、

「姿作りも板のスキもそう上手とは思えない。これで切れたということは、よほど玉鋼の選別が上手だったということか。」

―と厳しい評価を下していたそうです。


もっとも、関東を代表する一派である二見屋系なども首が短くてテーパーが強いセンスの作品ばかりで、江戸時代より鋸作りで先進地と言われていた九州、関西や、関西から技術が伝えられた会津の作品と比べると今一つ泥臭さが拭えないので、造形センスが悪く田舎臭い作風は久作のみに限定されたものではない関東の鋸に共通の特徴のようですが、とはいえやはり久作の作風は関東鋸の中でも際立って悪く、特に古い時代、十五代の初期の頃の物は鋸鍛冶として十五代も続いたとは思えないほどの物なのだそうです。

特に十五代久作の作品に稚拙さが顕著な作例が確認されており、私はその実物を見たことはありませんが、その鋸や多くの久作の作品を実際に見てこられた目立て師の土田昇氏によると、その洗練を欠く鋸は鑼(ガガリ)という大工用縦挽き鋸で見られたのだそうで、背中の輪郭がカーブを描かず直線と角だけと言ってもいいようなデザインであったとのことです。

関西の伝統ある優美な曲線ではなく、会津の洗練された姿でもないそのデザインは、上の図のように首と板の境の所でカックンと折れたような作りなのだそうです。

なるほど、この作りであれば確かに背中を凹ませた縦挽き鋸としての姿の条件は満たせるものの、やはり確かにあまりにカッコ悪いですね。(笑)

なんとなくこの肉回しでは、大工用の鋸というよりも雁頭鋸(ガンドウノコギリ)のような印象を受けます。

雁頭鋸を雁頭鋸として見る分には違和感は覚えませんが、縦挽鋸であると認識して見ると「コレじゃない感」が強く感じられます。


時代が下り、代が十五代から十六代に移ってゆくにつれ背中の特徴は改善していったそうですが、横挽きの背中のカーブが強かったり、首が短く顎のエグリが大きかったりといった基本的な特徴の多くは十六代に受け継がれたそうです。


https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-68-91/new_alces/folder/627621/31/27476631/img_6_m?1464134680


しかし一方で久作が焼入れの技術を盗んだ相手、中屋平治郎は、面白いことに久作同様関東の鍛冶屋でありつつも、例外的に造形にも優れたセンスを発揮した鍛冶屋だったようです。

上の図は書籍「鑿大全」からのトレースですが、首の長さこそ然程長くはないものの首のテーパーは優美な曲線を描いており、その先のエグリが大きく大らかな顎と完璧な連続性が保たれているのが確認できます。

一説によれば中屋平治郎は仲や久作の師であるとの説もあるようですが、このセンスのあまりのギャップを見ると、甚だ信憑性に欠ける説であると個人的には感じます。

この辺りをきっかけに、私は中や久作について伝えられてきた伝聞の一部に疑問を抱くことになりました。


次回は久作にまつわる伝説の謎の部分に、私なりにアプローチした見解を紹介していこうと思います。

つづく

参考、土田昇著「千代鶴是秀」、秋山実著「千代鶴是秀写真集1」同「千代鶴是秀写真集2」、小川雄一発行・大工道具研究会編集「鋸・墨壷大全」、鈴木俊昭著「日本の大工道具職人」、西和夫・2000年・神奈川大学日本常民文化研究所論集「日本の鋸,その歴史と現状 :「中や久作」の検討を中心に」、その他土田一郎氏、村松貞次郎氏の著書を含む。

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