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こんちわ。 案の定、先日右手を怪我したことにより手を存分に使えないストレスでイライラしています。(笑) 昔の名工についての情報を都内の大工道具店で聞いて来ていて、それらの情報が頭の中でパンクしそうなので、気分転換も兼ね忘れる前に記事にしておきます。 今回は一月一日に掲載の道具の中から、初代・龍進斎悦英の鉋をピックアップしてみます。 初代・龍進斎悦英は本名を堤伝作というそうで、新潟の長岡出身、刀工兼道具鍛冶の龍眠斎兼行に師事し、後に東京神田橋に出てきた名工です。 特筆すべき点としては、やはりなんと言ってもとても大きな問屋にまで上り詰め、多くの優秀な弟子達を排出したという事が挙げられるでしょう。 悦英系統の後代は東京やその近辺で活躍した工人が多く、末裔である堤朋一氏のように男盛銘の鉋で全国的に有名になった工人や、小鉋作りの名工として知られる丸山銀二氏なども含まれます。 初代悦英は大変に勤勉な職人だったようで、いつも鉋を必要分よりも余計に作っていて、販売する分以外は質屋に預けていたそうです。 そうしたところあるとき関東大震災が起き、その後の急速な復興需要に合わせ質種としていた鉋を販売したところこれが飛ぶように売れ、これにより莫大な資産を得て巨大な問屋へと急成長したとのことです。 ところで師匠筋はというと、龍眠斎兼行は幕末の刀工として有名な水心子正秀や坪井幸道に師事したとのことで、元々のルーツは刀鍛冶から始まっているようです。 この辺りはかじやさんのブログ「鍛冶屋−木工具の今と昔」に詳しく書かれており、系統樹を引用すると以下のようになります。 坪井幸道 ↓ 龍眠斎道次 ↓ 龍眠斎兼行 ↓ 初代龍進斎悦英(堤伝作) ↓ 二代目龍進斎悦英(堤政悦) そして男盛銘で有名な東京の鉋鍛冶堤朋一氏も、この堤一族の末裔に当たるそうです。 確か堤朋一氏ももう鬼籍に入られてから何年も経っていたと思いますが、男盛銘の鉋は堤氏亡き後も問屋銘として三代に渡り作り続けられています。 それに初代悦英の弟子だけでも10人以上いたそうですので、この系統についてはもはや全体像を正確に把握することすら困難なほどの規模であると言っても過言ではないと思います。 また龍進斎一門の中には優れた工人が相当数いたようで、特に佐藤松蔵・善次兄弟のように親方各であるはずの悦英自身が向う槌を振るう程の卓越した技術を持った工人の話も伝えられています。 それだけの規模があったからでしょうが、かつては悦英銘の鉋は銀杏面などの小鉋・特殊鉋類でかなり出回ったようで、今でも取り扱っている道具店はありますし、古物市でもかなり良く見かける銘でもあります。 ですので問屋銘の比較的新しい悦英は数多くあるわけですが、古い悦英は割合としては極少なく、なかなかお目にかかれません。 古い時代の目印は梅鉢の刻印で、中には上の大鉋のように「褒状」の刻印や菊の紋の刻印が打たれた物もあります。 ところで、この菊の紋については最近までずっと調べていたのですが、イマイチどういう経緯で捺されていたのか分かりません。 何か頭の中でずっと混同していた話があり、明治年間中に開催された博覧会にポンプを出展した話が関係無かったかな?と気になり調べていましたが、これは大阪の初代善作についての話で、悦英は関係なかったようです。 私が混同していた善作のエピソードは、四国の香川量平氏が削ろう会会報に寄稿したレポート「名工の鑿鍛冶『善作』の話」に記載されており、一部を引用すると「初代善作の孫にあたる小島晴惠さんの話によると、その当時、ポンプを考案して大阪で開催された第五回内国勧業博覧会に出展し、後の大正天皇よりお誉めのお言葉を戴いたという逸話が残っている。」―といったものでした。 善作の話はさておき、「菊の紋」と「褒状」の二つの刻印から、恐らく初代悦英も皇室関係者から何らかの「お褒めの言葉を頂いた」的な話があったのではないか、そしてこれらの刻印は何かそれに関連し誇る出来事があったため打たれたのではないか?と個人的には推測しています。(特にこれといった根拠もないですが) しかし当時は大らかな面もある時代であった半面、「皇国バンザーイ!\(^0^)/」という風潮の全盛期でもあり、「勝手に皇族の家紋を使のは不敬罪である」というお叱りを受けたそうで、それ以降は菊の紋は使わず「褒状」の刻印だけを使うようになったと云われています。 上記の「お叱りエピソード」が龍進斎悦英初代の時代の話で、後代は新潟の長岡ではなく東京で活躍したわけですが、そのようなやや事件的な経緯が初代の時代の出来事であったため、この鉋に関してはまだ「長岡の悦英」と呼ばれていた時代、―つまり初代の作品とハッキリ断定できるようです。 参考写真:村正銘 八分大突鑿 それにしても、この龍進斎一門近辺の職人は、会津の道具鍛冶系統や千代鶴是秀・石堂家とも共通する傾向として、鉋以外の作品も手掛けるという、やや野鍛冶っぽいというか、ナンデモ鍛冶(謎)といった風な印象もあります。 村松貞次郎著「道具曼荼羅」には龍眠斎兼行の作品として鉈が一振り掲載されていますし、同じく兼行の作品で大突鑿も見たことがあります。 そしてこの写真の大突鑿も悦英自身の作品ではありませんが、その系統の工人の作品の可能性がかなり高そうな物です。 「道具鍛冶」と分類される工人がわりと色々な種類の道具を作ることは当時は珍しいことではなかったようで、前述の千代鶴・石堂はもちろん、会津の名工達や新潟の名工達、関西では善作や梅一などが幅広いレパートリーの道具類を作っていたことが知られており、機械化・大量生産化が進む以前の時代は、レパートリーの狭いいわゆる「専門鍛冶」はまだ主流派ではなかったのかもしれません。 上の大突鑿、銘は村正ですが、これは悦英工房で作られていた大工道具でよく見かける銘です。 同様に悦英の問屋銘としては行安などもよく見かける銘で、これらは東京の茅場町にあった武藤勘助商店の屋号で、やはり悦英の一門が手掛けていた銘なのだそうです。 これらの商標銘もかなり古い作品に見られる物で、この頃の作品の鋼は明治頃に輸入されたごく上質な現代鋼が使われているようです。 一般的に悦英系統の作品は、堤朋一氏の時代前後から青紙系の合金鋼を使った作品が主流に変わってゆきますが、このように古い時代の作品には炭素鋼系の鋼が使われています。 この上質な輸入炭素鋼は千代鶴是秀が使用していた物と全く同じ物ですが、当時流通していた鋼の中ではかなり高価だったようで、是秀もこの鋼を求めるたにめなけなしの有り金を全て叩いて買えるだけ買い求めたそうです。 一方の悦英はというと流石に大問屋なだけあって、広い工場に天井まで届くほどに高くこの鋼を積み上げてストックしていたそうで、その光景を目の当たりにした是秀は「流石悦英さんだ」と驚愕したとの話が残っています。 やはり貴重な鋼だったのでしょうが、堤朋一氏の活躍する昭和の時代までこの鋼を使い続けることができたのは、このような大問屋としての在庫維持力があったからということなのでしょう。 それにしても、やっぱりこの鉋デカ〜イ・・・・・。(汗) 実際に寸八鉋と比べると、見た目だけでなく重量もかなり増えています。 台はどうやら刃を深く挿入した状態で保管されていたようで、そのため木の収縮により刃口が大きく割れていますし、小口もヒビだらけなので使い物になりません。 元々節もあるあまり質の良くない樫材だったようですが、今一枚板で実用的に使える樫材を見つけるのはまず不可能でしょうから、厚み1分から3分程度の薄い樫材を下端のベースとして、積層構造の合板台を作るしか手段が無さそうです。 恐らく金属なども用いる面倒な仕様の台になると思いますが、そのパーツを集めてくるだけでも大変なので、削り華を見れるのはまだまだ先のことになりそうです。
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2017年08月14日
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