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こんばんは、ご無沙汰です。 新年に掲載した道具の内数点については記事を書きましたが、忙しさと内容の複雑さによる情報収集の難しさにかまけていくつかの道具については触れずじまいでした。 しかしそろそろいい加減に記事を書かないと本当に年を越してしまいそうなので、急ごしらえな内容ではありますが、またブログを再開していきたいと思います。 今回は道具史の名工と題し紹介した中から、永弘と初弘に特に焦点を当てていきたいと思います。 いきなりですが、私が毎年新年に掲載する道具類は、通例では比較的希少な打刃物を掲載しています。 実際には希少な作品を掲載しようという意図ではないのですが、名工と呼ばれた工人たちの作品となるとよく切れるため使い減らされ、ついには消滅してゆくことが半ば宿命ともいえる道具の最後であるため、必然的に名工の道具ほど残り難く希少にならざるを得ず、名工の作品を載せるということはそれ自体が希少な作品を掲載することとなりやすい、―という理由があります。 では一体どういう基準で掲載するかどうかを判断しているかというと、ただ単に名工と言われたというだけでなく「日本の道具史に関与するほどの功績を残した工人かどうか」という点を基準に考えているのです。 しかしその基準で掲載するかどうかを判断してゆくと、時にはイレギュラーな例も出て来ます。 永弘や初弘はその典型例で、生産量が多かったことに加え何代にもわたって続いた名門であるため、その作品はさほど珍しい物ではなく、名工の作品としてはあまりに目にする頻度が多いため、ついつい名工の作品であることを忘れてしまうほどに身近な存在として感じることもあるほどです。 それでもこれらの名工は木工具の分野だけに留まらず、今日実用に供されているあらゆる刃物と関係があるのです。 なぜなら、今日この国で最も多く刃物に使われている鋼である安来鋼の青紙鋼・白紙鋼が、この二人の使っていた鋼の成分を参考に作られたと言われているからです。 ただ実のところ、詳細にこの伝説を検討してみると信憑性に乏しい部分が多く、それゆえ個人的にはむしろこの二人が多くの優秀な門人を輩出したことの方が、道具史においては重要な功績と言えるのではないかとも思えますが、そのような有力な一門のヒエラルキーにおいて頂点の存在として新潟の鍛冶業界に君臨したことや、永弘・初弘ら自身も日本の道具史において有数の名工であったことも、それらの事柄全てをずっと後の時代に生きている者として振り返れば、「この二人ほどの名工であれば、確かにこのような伝説が生まれるのもうなずける」と納得させられるほどの活躍をしたことは否定しようのない事実ですので、今回の記事ではこの伝説にまつわる検討から考察を始めていきたいと思います。 まずこの逸話のうち永弘にまつわる部分についてですが、これは新潟の岩崎航介氏により書籍「刃物の見方」でも触れられているため、ごく一部の界隈で常識的に扱われる程度には「よく知られた話」なのですが、いささか不明瞭な部分も多く含んでおり、当事者達もとうにこの世を去っているため半ば伝説的な伝聞として伝えられていると言えます。 この話題については岩崎航介氏が語った内容が前出の「刃物の見方」に掲載されているほか、外栄金物株式会社のホームページがこの岩崎航介氏の記述を抜粋、鈴木俊昭氏も外栄金物株式会社のホームページの記述に沿った内容をホームページ、および書籍「日本の大工道具職人」の中で触れています。 それらをまとめて要約すると、大体以下のような内容になります。 初代永弘:本名を永桶米太郎といい、明治15年ごろ与板より三条に移住した河内庄次に弟子入りする。 当初鑿鍛冶としての修行をし独立後永弘を名乗るが、鉋作りも始める。 刃物鋼としてはまだ玉鋼が一般的だった時代に、大砲の切削用バイトのスクラップなどの輸入鋼を使い有名になる。 後にこの鋼の成分を参考に安来青紙鋼が開発されたと言われる。 初代初弘:初代永弘の弟子で本名を星野三吉という。 初代永弘が輸入合金鋼を使って成功したのとは正反対に玉鋼を使用し大成功し、後に安来製鋼所が初弘の使っていた鋼の成分を可能な限り近代工業的に復元した物が安来白紙鋼と言われている。 さて、この内容についてはまだ不明な点が多いのですが、三軒茶屋の土田昇氏に伺った話だと、明らかに間違いと言える箇所が数点あるようです。 まず永弘が作っていた作品を初代から三代目の時代まで通して見ると、確かに最も多く使われた鋼は青紙の系統なのですが、初代から二代目の初期頃の作品には合金鋼系ではなく炭素鋼系、―つまり白紙の系統に属する鋼の作品が多く確認されており、特に土田昇氏のお爺様が昔仕入れた初代の作品は輸入炭素鋼が使われているということです。 新潟港に外国から金型のスクラップが輸入されるようになって以降、永弘が好んで使っていたこの「輸入鋼」と一括りに呼ばれる鋼材は、炭素鋼の物もあれば合金鋼の物もあるといったごちゃ混ぜの状態だったようであり、永弘は刃物鋼として優秀であれば炭素鋼・合金鋼の違いに頓着せずどちらも上手に鍛え上げたということから、少なくとも「有名になったのは合金鋼を上手に鍛え成功したから」というニュアンスの表現は誤りと言えるでしょう。 そして初代初弘について語られている伝聞も明らかに怪しい所があり、初弘が玉鋼を使って作った鉋は一般販売用の量産品ではなかったため、商業的にこれが成功を収めたという話も眉唾物と言えるようです。 どうしてこれほどはっきりとした反論ができるかというと、初代初弘が使った鋼については確かに玉鋼の作例が確認できてはいるものの、その材料の玉鋼の出所がハッキリしているからです。 この件を土田昇氏は今でも良く覚えており、まず初弘が使った玉鋼は前出の岩崎氏が用意した試作品であり、それを数名の腕利きの鍛冶屋さん達に使用してもらった上で完成した作品を研究材料とする目的で、初代初弘(鉋を製作)、碓氷健吾(鉋を製作)、千代鶴是秀(切出小刀と和剃刀を製作)らに試用を依頼したということで、土田昇氏は後年完成したこれらの刃物を研磨し性能評価する役目を引き受けたそうです。 そしてこの試作品は研磨の後は岩崎氏の許に返還されましたので、これが市場に出回った可能性はまず無く、他の玉鋼製の作品が存在した可能性についても、 「まず無い。そもそも初弘は永弘の弟子で、その永弘がもう現代鋼を使い始めていたわけだからその弟子が玉鋼なんかで商品を作っていたわけが無いし、そもそも初弘自身、材料の玉鋼を持ってもいなかったのだから。実際、市場に出回っている初弘の作品でこれは玉鋼製だ!と判定された作品は実のところ皆無でしょ?」 とかなり否定的でした。 まずここまでの証言内容を振り返って見るに、由来がハッキリしていることや物証の存在から、初代永弘のサクセスストーリーが必ずしも合金鋼と直接結び付くわけではないこと、初弘は一般商品の素材に玉鋼を用いていたとは考えられないこと、これら二点の内容自体は確実性が高いと考えて良いように思われます。 この中で物証と私が位置付けている鉋刃の存在ですが、まず永弘の鉋刃は大工道具研究会編集・誠文堂新光社発行の書籍「鉋の技と名品大全」に掲載さています。 この鉋刃は、土田昇氏の先代である土田一郎氏が新潟に赴いた際二代目永弘に見てもらった際、「間違いなく初代の作品である」と驚かれ、二代目永弘は仕事場の奥からカメラを持ち出してその鉋刃を撮影していたそうです。 このことから、初代永弘の作品としては極めて希少な折り紙付きの資料と考えて良いでしょう。 次に初弘と碓氷健吾氏の鉋刃ですが、これは削ろう会の会報vol.63に掲載されており、初弘の作品は「玉鋼141 岩崎航介 星野初成 合作」と切銘されており、碓氷氏の作品は「一竿斎藤原寿一 純玉鋼」と切銘されています。 そして千代鶴是秀が試作した作品ですが、残念ながらこれは掲載された刊行物の類を発見できませんでした。 ―が、今回の主題は永弘・初弘の使用鋼についてですので、物証としては上記の作品群で十分でしょう。 なお追加情報として、これらの玉鋼での試作品が制作されたのは昭和30年前後で、土田氏によると初弘は「玉鋼なんて初めて使った」と語っていたとの話もあるそうです。 さて、ここからは情報の検証とは別に、新たに出てきた既存の伝承・伝聞を否定する情報を再考し、「それでは永弘・初弘の二名と安来鋼に本当に関係は無かったのか?」という命題について考えてみたいと思います。 というのも、何かの誤解や伝言ゲーム式の情報の変質があったとしても、現状は「全く根も葉も無い所から伝説が生まれた」と判断するに足る根拠にもまた乏しいですから、‘火のない所に煙は立たぬ’ではないですが「もしかしたら伝説が生まれるからには、きっと何らかのきっかけと言える経緯があったのではないか?」という、もう一つの疑問についても考える必要があると思えるからです。 そのような推測・仮定の話は、いささか私的なロマンを求める志向性を含む勝手な妄想ではありますが・・・・・、なにはともあれ、以下に可能性のありそうな話をまとめてみました。 ・まず永弘と青紙鋼について考えてみます。 上記のとおり、初代永弘が有名になった頃の使用鋼は炭素鋼・合金鋼両方の作品があり、それらの混在した期間が初代永弘の時代から二代目永弘の初期頃まで続いていました。 このため、永弘の伝説については「合金鋼を鍛えたところこれが大成功し」と言う部分を少し変え、合金鋼・炭素鋼の区別を明確にしない輸入鋼という表現に変えた方が正確と言えるかと思います。 ・次に初弘と白紙鋼についても考えてみます。 白紙については参考に選ばれたサンプルが一般商品用ではなく、岩崎氏より提供の試作品だった可能性も一応は排除しきれないとは考えられますが、一般常識に照らして考えると、工業製品を開発する際に生産性が最も悪く、かつ成分再現も最も困難な玉鋼が参考にされるというのも疑問符がつきます。 そこで私が有力視している候補としては、スエーデン鋼を「洋玉鋼」などと呼んでしまう鍛冶屋さんの用語(紛らわしい悪習?)を、安来製鋼所関係者が誤解してしまったという可能性が考えられるかと思います。 洋玉鋼などという呼び方がいつごろから存在しているのかは定かではありませんが、元々安来の白紙鋼が開発される以前からスエーデンの鋼は流通していましたし、当然初弘も昔からスエーデン鋼を使っていましたので、この可能性については検証の必要があるかと思います。 とは言え、初弘と安来白紙鋼の関連性についてはこれまでの考察でも明らかになったように、そもそも玉鋼がサンプルとされた可能性が低いことから、本当に初弘の使用鋼が参考にされたかも疑問の余地があります。 ただし今回の検証では既出の伝承・伝聞がまず存在する状況で、その伝承・伝聞の詳細について誤りがあるとしても、「安来鋼の開発時に初弘の使用鋼を参考にされた」という大筋は正しいという仮定の条件の中でどのような可能性が成立し得るかという前提で考察をしましたので、初弘と安来鋼に関連が無い可能性についてはそれとはまた別に検証する必要があるでしょう。 これまでの判断材料を基に消去法的に可能性を考えると、上記の可能性なら整合性は取れそうですし、時代性なども考えるとありそうな話に思えますがいかがでしょうか? しかし何と言っても伝記や伝承の類が不足気味で、決定的な証拠には欠くので、今後も引き続き調査を続ける必要がありそうです。 さて、以上の安来鋼にまつわる話が永弘・初弘の直接的な功績に関連する伝説ですが、上で既に述べたとおり、この二人の工人は多くの優秀な弟子達を育成したこともまた有名です。 後藤新平の言葉に「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり」という意味の言葉がありますが、その意味する所は正にこんな様を指すのだろうと思わせるほどにこの一門は大きなものとなりました。 こんなに長々くどくどと、安来鋼の伝説について語っておいてから言うのもなんなんですが、やっぱり正直なところ私のような研究者ではない一介の使用者からすると、そのように多くの名工を輩出したことの方が偉大な功績ではないかと思えるのです。 事実使用者の「切れる」という評判は伝説とはまた別に確固たる評価を形成しているフシがあり、特に初代初弘の弟子であった金井芳蔵氏や、初則銘、伝寿銘などで有名な佐藤巳弥治氏の鉋は絶大な人気がありますが、これらの人気は「困った時の金井」などという言葉が示すとおり口コミで広がった様子です。 ところで、視野を永弘・初弘が活躍した三条だけでなく新潟全体に広げて見ると、与板の坪井幸道や、龍眠斎兼行より続く長岡の龍進斎悦英の系統もあり、鋸鍛冶も深沢伊之助を筆頭とする三条の大きな一門や、脇野の中屋庄兵衛の系統など、現在の規模とは比べ物にならない程に重厚な密度の鍛冶文化が明治以前から存在していました。 つまり、個々の一門という単位で見るのではなく、多くの優秀な工人たちが腕を競い合う競争原理も働いたからこそ、その中から全国的に見ても屈指の名工たちが排出されたのではないかという視点で見れば、永弘も初弘も、両名に続くこの一門全体も、新潟という鍛冶文化の豊かな土地に育てられた名工という見方もできるのではないでしょうか。 栗林信吉もそんな時代を象徴するかのような名工で、与板の出身、後三条に移り活躍し、三条鉋鍛冶の祖と呼ばれたそうです。 生い立ちや活躍した時代から見ると、永弘の師、河内庄次とよく似た経歴ですね! しかし栗林信吉については永弘や初弘のように有名ではなく、唯一私の友人の春日部風鈴さんだけがブログにてその調査記録を掲載しているのみで、流通網などは不明ですし、後継ぎもいなかったそうです。 そのことだけを見ると、鍛冶文化への貢献度合いは永弘・初弘ほど高くはないような先入観を抱いてしまいますが、それでも素晴らしい技量を発揮し当時の新潟の鍛冶文化をより一層厚みのあるものにしたことは確かでしょう。 実際に現物を見た限りとても良くできた鉋を作っていたようで、十分名工と呼ぶにふさわしいと思います。 今年は東京鍛冶ながら新潟出身者である長谷川廣貞や、龍進斎悦英などの作品を紹介しましたが、それらに加え栗林信吉、永弘・初弘、つんぼの鉞(まさかり)などをいくつも見てゆくと、改めて新潟は優れた鍛冶の地方だったのだという印象を受けました。 勝手に直リンクを貼ると怒られてしまうかもしれませんが、日部風鈴さんの栗林信吉についてのブログ記事は大変読み応えがありますので、是非一読いただきたいと思います。 二代目初弘作 問屋銘鉋 おまけ そうそう、初弘の鉋を探していると問屋銘の作品が多く見つかるのに、永弘の作品では問屋銘の作品が全く見つからないことに気が付いた方もおられるのではないでしょうか。 これは永弘は独立後自分の銘で大成功したため問屋の力を必要としなかったのに対し、弟子の初弘が独立したばかりのまだ無名だった頃は問屋の力が強い時代で、このため問屋の傘の下で安定した生産体制を確立したということが背景にあるようです。 チョット記憶があやふやなため、あまり堂々と言ってはまずいのですが、たしか初弘銘は浅草の水平屋が保持していたと聞いたような・・・・・? いずれにせよ、永弘以外は様々な問屋銘の作品を作っていたことだけは確かで、このため時々この系統の工人の作風だけど、誰の手による作品か判然としない作品が比較的多く見つかります。 金井の鉋などはたとえ問屋銘であってもヤフオクでは高価になる傾向が強いですが、一方で初弘などの問屋銘は丈の残っている作品でさえ1000円程度で買えてしまうので、切れる鉋を安く買いたい私などにはとても魅力的な鉋です。 だってそうですよね? 確かに金井の鉋は良くできていますけど、佐藤さんの鉋も初弘の鉋も、刃物としての性能はどれも大きな差は無いと言える程に良い刃味ですし、そのうえ平均的には金井の3分の1〜14分の1の値段で買えてしまうのですから。
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2017年12月25日
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