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今ヤフオクに鋸を出品していますが、画像掲載の手際が悪く画像が縮小されてしまい、さすがにあれでは見難いのでブログをクリップボード代わりにさせて頂きます。 本当はブログとヤフオクは分けるべきかなとは思いますが、他に打てる手が無いので今回ばかりはすみません。 |
鋸(のこぎり)
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先日掲載した尚さんからい頂いた金床ですが、面白い活用法を思いつきました。 カギになるのはこの「道具箱のフタ」です。 位置調整のため、適当な大きさのスペーサーを置きましょう。 手近だったのは常三郎の金盤。 これも鉄製ですので、重量があって丁度良いです。 これを段差の所に引っ掛けます。 そして金床も置きます。 これを道具箱のフタの段差に引っ掛けた金盤に、さらに引っ掛けます。 そしてこの金床と、道具箱のフタの反対側の段差を利用して鋸の目立て用挟み板を立てかけるのです。 このようなスタイルなら挟み板の固定がやり易く、無駄な所に気を使わずに目立てが出来ます。 何と言ってもこの重量感が良く、不動の鉄塊だからこそパタリと倒れてしまうような心配も無いわけです。 鋸の目立てをやり始めると、いかにして作業しやすい姿勢が取れるように挟み板を固定するかに苦労しますが、このやり方はこれまで試した中では結構楽だと思います。 今日も尚さんの方向に手を合わせています。( ̄人 ̄) これまで使っていた固定用の治具は、このような木製のを組んだ物でした。 これはこれで自分の作業し易い体勢に合わせた形を思い通りに作れて良かったのですが、使い続けると木組みの箇所にガタが来やすいという問題もあります。 蛇足ながら、この自作の固定用治具、Ipadを立て掛ける用途にも流用できる設計です。 下の所の切り欠きはアダプタからのコードを通せるようにした物。 しかし最近では目立ての頻度が少なかったため、もっぱらIpadの「帰宅先」になっていました。
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こんばんは〜。 今日は久々にフリマで鋸を買ってきました。 写真のがそれですが、これは「ブッキリ鑼(ガガリ)」と呼ばれる縦挽き鋸の一種です。 一般的な刃渡り方向と同じ向きに挿げられる直手(スグテ)の柄ではなく、ナカゴに対し交差する格好で柄を挿げることと、縦挽き鋸であっても板の背中が反らずに猫背に屈むのが特徴の鋸で、製材用の縦挽き鋸です。 今日はフリマ会場では友人のYさんが先に来ていて、「何も無いよ〜」などと話されていたので、軽く見回りだけして帰ろうと思って歩いている時にこの鋸を見つけました。 一見、姿だけ見て「関東鋸だな」と思いましたが、付属の鞘に鞘書きがあり、春日部と書かれていました。 天気が良く日光が強すぎたたことと、首付近が赤錆に覆われていたことにより、銘は判別が難しい状態でしたので、正体不明で見過ごされたのでしょう。 しかしよく目を凝らすと一文字だけ、「村」の文字が見えたんです。 このGIF画像なら分かるかな〜? まぁ、とにかく「村」と切られているんです。(笑) 関東系の姿に春日部の鞘書き、そして「村」の字がつく銘であれば買いです。 値段は当初3000円とのことでしたが、それで諦める素振りを見せたら2000円でいい―と。(笑) フリマではこういう駆け引きが効いたりします。(笑) さて、家に帰って錆を落としてみると、下から出てきた銘は狙い通りの「村山四朗」。 これは春日部風鈴さんが、ツイッターやブログで紹介している春日部の有名だった鋸鍛冶の銘ですが、関東の神輿職人などの間で好まれていた鋸なのだそうです。 露天商の話では彫刻家の方が大事にしていた鋸だそうで、もう一本置いてあった鋸は会津の中屋市右衛門の鋸でしたので、鋸についてそれなりにうるさい使用者によって使われていたのだろうと思います。 それにしても鞘書きを見ると昭和17年とありますので、その通りであれば時代は太平洋戦争の真っ只中の作品ということになります。 昭和17年というと、日本の戦況はミッドウェー海戦を境に暗転していた時期ですし、時代はすでに金属回収令が発令されていましたから、贅沢を敵視する社会の風潮もあったでしょう。 ということはこの鋸も、人目に触れないようひっそりと隠されていた時期があったのかもしれませんね。 そしてそんな時代性ゆえ目立てに出すことも憚られたのか、この鋸の歯の研磨はかなり下手な研磨がされており、鋸板も素人臭いヘタクソな歯槌の跡が全面に見受けられます。 たぶん使用者が自分で調整しつつ使っていたのでしょう。 この位の鋸であれば狂い取りに歯槌は不要で、縦槌・横槌、あるいは大工用の両口玄翁一つあれば十分可能なはずですが、鋸の狂い取りと言えば歯槌というイメージだったのでしょうか。 必要以上に歯槌を打たれ過ぎて板の腰が弱くなってしまっていますが、致命的な傷も見当たらないので、軽く腰入れをし歯を擦り直せば、十分使えるようになるでしょう。 ところでこの鋸、玉傷が一箇所あるので玉鋼製ですが、戦争中の時代にまだ玉鋼なんて残っていたんですね。
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お早うございます。 最近また指を切って水を使う研ぎを中断しています。 そういう最中は水を使わない鋸(のこぎり)の目立てであるとか、鉋の台打ちなどをして時間を有効に使いますが、そんなわけで1月から仕込みに掛かっていた鋸がここ数日で一気に完成しました。 元々は柄は無く、刃先も錆びて板も狂いだらけの使えない状態でしたが、ちゃんと手入れをすればまだまだ現役で活躍できます。 ところでこの鋸、木材を繊維方向に挽き割るのに用いる縦挽き鋸で、鑼(ガガリ)と言う呼ばれる物ですが、この種の鋸は鋸の方向と同じ向きの直手(手伸びとも言う)の柄を挿げることもあれば、この写真のように斜・もしくは垂直気味の斜めに撞木(しゅもく)の柄を挿げられることもあることもある、用途によって仕込み方を変えられる柔軟性のある鋸です。 しかし撞木の柄は材料の選定に難しさがあります。 一般的な直手の鋸では柄の素材は桐が良く、桐よりは堅い杉・桧などでは「手が焼ける」などと言われますが、桐材は何と言っても柔かすぎるので、撞木の柄に用いると使用に際して引っぱる力によりナカゴの収まる穴が変形し広がりやすいので、そのままでは使い物になりません。 そのようなことを回避するため、人によっては欅(ケヤキ)などの堅く変形し難い素材を用いるコトもあるのですが、やはり屋外で桜や樫(カシ)などの硬木を相手に長時間挽き割り作業をした経験から言うと、そのような堅い素材は手に対する当たりも強いため、使用者にとって長時間の使用は負担になるのではないかと思います。 木挽き鋸などを専門に扱う杣人(そまびと:木挽き職)などは、前挽き大鋸などの柄には桐材を用い、かつ柄の太さを直径4〜5cm程度の太めの設定にすることで、手への負担を可能な限り小さくするとされています。 もしこれが堅い素材の柄で、かつ近年の市販品によく見られるような細い柄にしようものなら、たちまち手は肉刺だらけになり、使用時間の長さ次第では肉刺が破けて血が出ることにもなり得るそうです。 従って、木挽用や撞木柄の鋸の柄の製作では、できるだけ柔かい素材を用い、かつ太さをより太い作りにするというのが理想的であり、まず基本的な方向性でもあると言えるかと思います。 しかし前述のとおり、柔かい素材であればあるほど木殺し効果が強くなるわけで、よって穴の変形が酷くなり柄がスポリと抜けてしまうようなコトにもなりやすくなります。 そんな傾向への対策として、私は桐材を用いる場合はコミ穴周辺のみ堅木を埋め込むという方法で対処します。 このようにまず桐材を適当に掘り込み、そこにコミ穴を空けておいた堅木を埋め込むことで、仕込みは堅く手への当りは柔かくなる構造にします。 埋め込む木はそれなりに堅ければ何でも良いと思いますが、私の場合古い鉋の台が余って棄てるほどあるので、再利用も兼ね樫材を用います。 ケヤキ、サクラ、シイなど、堅く粘りも兼ね備えた素材ならどれも良い候補でしょう。 反対側はドリルの穴がずれちゃったのでちょっとかっこ悪いですが、機能性に影響は無いでしょう。(汗) こんな感じで、樫の木に幅の狭い穴を開けてゆくのは難しいところもあるのですが、やはり機能面を考えると譲れない部分はあります。 ・・・・・というのも、以前使っていた鋸に桐材のみで作られた柄が挿げられていた物があり、これが本当に文字通り使い物にならなかった、―と言う経験があるからです。 写真の鋸がそれで、柄が桐の無垢材で挿げられていたため穴がユルユルになっており、側面に杉のコッパをクサビとして入れられていた様子からも、前の使用者もかなり苦戦した様子が伝わってきます。 柄の上下両端の角度から見ても、挿げられた当初よりは挿げ角度が大分寝ているので、穴が変形したという予想には疑いの余地は無いでしょう。 使っていると左の写真の位置→右の写真の位置へ・・・・・。 柄を後ろから覗いた図ですが、どうやら穴の広がりは角度で言って30゚は余裕でありそうですね。 側面からクサビを入れたくらいでは固定できないのも無理は無いです。 スカ〜、スカ〜・・・・・。 クサビ無しならスライドも余裕余裕。(笑) さて、こんな場合は柄を作り直した方が作業としては楽なんですが、折角イイ飴色になっている柄を捨てるのも勿体無い・・・・・。 ―というわけで、当然掘り込んで堅木を埋め込みました。(笑) 作業をしたのはもう何年も前のことなので記憶は曖昧ですが、たしか本来の挿げ角度に忠実に仕込んだ、―と記憶しています。 「作り直した方が楽」というのは、すでにある柄を改造する場合、元々の柄を見て慎重に寸法・角度などを調整しなければならないからです。 新たに作る場合は適当な大きさの堅木に適当に穴を掘り、それを丁度良い大きさに削り込み、埋め込んだら適当に削り出せばいいだけですから、どこにも難しいところはありません。 ただ、小さい穴を堅い木に掘るよりはザックリとした掘り方ができるので、その点では気楽ですね。 ちょっと側面を掘りすぎましたが、接着剤を充填して固定するので、何とかなるでしょう。 ちょっと広がりすぎた部分を何とかしようと、後から瞬間接着剤を流し込んだら見た目が汚くなりました。(泣) こういうコトになりやすいので、修正は難しくて嫌なんだよ〜!(T_T) ま・・・・・まぁ、仕込み角度が元通りになり、最終的に横から見た姿は使える雰囲気が戻ってきたので、結果としては良しかな、と。 こういう方法で仕込むのが「絶対譲れない!」って持論なので、直手の柄を仕込むのに比べると撞木の柄はかなり面倒くさい印象があるんですよね。 直手の場合の手順は、まず目の通った桐材を選別し、これを二枚に挽き割り、片面を鋸のナカゴの形状どおりに掘り込み、緩くなりすぎていないのを確認したら接着剤で張り合わせるだけですから、ハッキリ言ってかなり楽な作業です。 さて、最初の方の最近仕込んだ鋸は私が使うのではなく、実は友人のBさんへのお土産なんです。 Bさんは鋸もちゃんと使える物を持っておられたハズなので、この鋸に出番が来るかは謎なのですが、今年の年始のボロ市には来られなかったので、その時の分なのです。(笑)
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こんばんは、新年に名品ぎゃらりーを更新してからというもの、あっという間に数か月が経ってしまいました。 前回も書いたように、あれ以来忙しくしたり風邪を引いたり腰を痛めたり色々ありましたが、やっとの更新です。 今回は新年の記事で紹介した仲や久作を紹介したいと思います。 ―が、この工人は色々な伝説や研究報告による情報が錯綜しており、ブログの記事一つでまとめ上げることは難しいので、今回は数回に分けて掲載していきます。 まずは仲や久作と聞いても誰ソレ?って方も多いと思いますので、そのあたりの紹介からです。 仲や久作は明治時代前後に、東京で鋸鍛冶としては十五代、十六代と二代に渡って活躍した名工で、笹葉銘の久作として人気のあった工人でした。 笹葉銘とは単打法と呼ばれる独特の方法で切られた銘で、一枚ずつ笹の葉を置いたような銘振りであることからこのような名称で呼ばれます。 久作の書体はその笹葉銘っぷりが特に顕著であったため、久作の笹葉銘は一種のトレードマークとして見なされています。 久作が名工といわれる所以は、玉鋼の選別に特に優れた実力を発揮したことによるとされています。 玉鋼とは近代製鉄法が普及する以前の時代、原始的なタタラ製鉄法・製鋼法によって作られた伝統素材の鋼です。 これはごく一部の上質な部分を最上の技術で鍛錬した場合のみ最高の切れ味を発揮できる可能性を持つものの、あまりに品質が不均一なため、優れた刃物・道具を作るためには炭素量が多く均質な部位を選別・鍛錬することが不可欠で、そのうえ焼入れを均一に行うことも難しいため、鋭く長切れする良い刃物を作ることが大変に困難な素材でもありました。 明治の終わりごろ、長い鎖国の眠りから覚めた日本では徐々に海外から輸入された現代鋼が普及し始めます。 すると手間を掛けずとも均質な現代鋼に比べ、選別が難しいうえに均質化に手間が掛かる玉鋼はその生産性の悪さゆえ、やがて明治末期〜大正頃には駆逐されてゆくことになります。 そんな時代の東京で、玉鋼を用いて鋸を作る職人としては最後の名工として位置付けられるという点が、仲や久作について、そして東京鋸鍛冶の歴史において特筆すべき点として挙げられるのだと思います。 これは決して「玉鋼を用いる鋸鍛冶として最後の一人だった」という意味ではないのですが、当時すでに玉鋼を上手に扱える工人が久作の他におらず、また東京鋸鍛冶の黄金期が実質的に久作の時代で終焉を迎え、この業界自体もこの頃を境に緩やかに衰退していった―という時代の流れもあるために、多くの批評家から東京最後の玉鋼時代の名工鋸鍛冶と総括され、そのような評価が定着したのだと思われます。 東京の鋸製造の歴史を広く見渡す視点に立つとき、仲や久作のそのような位置付けは、玉鋼を扱いはするものの決して上手とは言えなかったその他大勢の工人達を、使用者達により語り伝えられる伝承の外へと追いやらざるを得なかった結果として、必然的に導き出された評価なのだと私は解釈しています。 それにしても、仲や久作については謎は多いものの鋸鍛冶としてはそれなりに情報が残っている方で、改めて考えてみるとこれは道具鍛冶としては少し珍しいことです。 久作以前の時代に目を向ければ、東京にも少なからぬ数の玉鋼を上手に使える名工達がいて、例えば二見屋系統の甚八を筆頭に調布で活躍した初代・二代沖五郎や、その弟の府中の常五郎、浅草・安部川町の中や平治郎などがよく知られており、さらに東京周辺の地域にも群馬県・桐生の中屋熊五郎や、埼玉県・深谷の秀五郎、栃木県・宇都宮の中屋作次郎など、関東全体で見るとそれなりの伝統や、業界の層の厚みというものがあったと言えそうです。 ただしこれらの名工達は、情報の残り難い徳川末期から久作の活躍したのと同時代の明治前後に活躍した工人であり、その系統樹のような情報や技術の多くが闇に埋もれたまま消えてしまいました。 一方の久作の場合は華々しい伝説が多かったために、同時代やそれ以前の時代の工人達と比べて死後も注目が集まり、名声も高まり続け、それがゆえに今日まで情報・伝説などの逸話の類が多く残ったのかもしれません。 例えば久作にまつわる有名な伝説の一つとして、総理大臣のお買い上げ伝説があります。 明治21〜22年頃のこと、久作の仕事場前に二頭立ての馬車が止まり身なりの良い紳士が降り立ち、縦挽き・横挽き一対の片刃鋸を注文しました。 久作が手付金として三円五十銭を求めたところ五円札を差し出したため、つり銭の一円五十銭を取ってきたところ、気の早い紳士はサッサとその場を立ち去っていたそうです。 妙な話だと思ったのでしょう、後日注文した鋸を買い上げに来た使いの者にその紳士について尋ねたところ、その人物は時の総理大臣・黒田清隆であったとのことで、久作は腰を抜かすほど驚いたのだそうです。 他の有名な話としては、名工・中屋平治郎の仕事場で技術を盗んだエピソードもあります。 久作がまだ駆け出しの職人で名工と呼ばれる以前のこと、東京では中屋平治郎が最も有名で、焼き入れ・整形ともに圧倒的な技術を誇り東京鋸界の頂点に君臨していました。 若い久作は何とかしてその道の先達である平治郎から焼入れの秘伝を聞きだそうとしたようですが、平次郎は「会津の先生に教わった」とは語ったものの、肝心の技術については教えてはくれなかったそうです。 このエピソードを紹介している書籍「千代鶴是秀」(土田昇著)によると、平治郎の語ったところの「会津の先生」なる人物は会津を代表する名工中屋助左衛門と目されているようで、助左衛門の本家筋に当たる会津の中屋重左衛門が編み出したとされる油焼入れの技術は、当時はまだ一部の工人のみしか知らない先進的な技法だったことが伺われます。 久作はなんとか最先端の秘伝を教わろうと平治郎の仕事場に足しげく通うことになりますが、ある時平次郎の仕事場を訪ねたところ、タイミングの良いことに平治郎が焼入れをしているところに遭遇します。 遭遇した―と言っても窓や扉などが塞がれ全ての明かりが遮られている最中のことでしたので、久作は平治郎に直接会ったわけではないのですが、同じ鍛冶屋ですからその様子を見れば久作も流石に「あ、焼入れ中だな」と気がつきます。 丁度その時、面白いことに平次郎の仕事場から外まで天麩羅の匂いが漂ってきます。 焼き入れ中の仕事場、天麩羅の匂い。 この二つのヒントで久作は平次郎が油で焼入れをしていることをさとったそうです。 これ以降、油焼入れの技術を身に付けた久作の鋸は品質が向上し、久作を名工の地位まで押し上げることになりますが、油による焼入れ法が確立される以前はというと、鋸は泥や砂などに入れて焼入れをするのが一般的であり、焼入れ効果が十分に出難い泥焼きの鋸は硬度が低く切れ味も冴えの無い物が一般的でしたので、当時の油焼入れ法の普及による鋸の品質の向上はやはり革命的と言っても過言ではなかったようです。 ところで十五代・十六代仲や久作は、玉鋼の選別・卓越した鍛えの技術により名工と位置づけられていますが、鋸の姿作りや板のスキなどの肉回しは名声の高さからすると「残念」としか言いようがない位にヘッタクソで、鋸の研究家・収集家達からはその姿作りの稚拙さゆえ「田舎ノコ」と言われているほどです。 そのため、播州三木の鋸鍛冶の名工・宮野鉄之助は久作の作品を見た際、 「姿作りも板のスキもそう上手とは思えない。これで切れたということは、よほど玉鋼の選別が上手だったということか。」 ―と厳しい評価を下していたそうです。 もっとも、関東を代表する一派である二見屋系なども首が短くてテーパーが強いセンスの作品ばかりで、江戸時代より鋸作りで先進地と言われていた九州、関西や、関西から技術が伝えられた会津の作品と比べると今一つ泥臭さが拭えないので、造形センスが悪く田舎臭い作風は久作のみに限定されたものではない関東の鋸に共通の特徴のようですが、とはいえやはり久作の作風は関東鋸の中でも際立って悪く、特に古い時代、十五代の初期の頃の物は鋸鍛冶として十五代も続いたとは思えないほどの物なのだそうです。 特に十五代久作の作品に稚拙さが顕著な作例が確認されており、私はその実物を見たことはありませんが、その鋸や多くの久作の作品を実際に見てこられた目立て師の土田昇氏によると、その洗練を欠く鋸は鑼(ガガリ)という大工用縦挽き鋸で見られたのだそうで、背中の輪郭がカーブを描かず直線と角だけと言ってもいいようなデザインであったとのことです。 関西の伝統ある優美な曲線ではなく、会津の洗練された姿でもないそのデザインは、上の図のように首と板の境の所でカックンと折れたような作りなのだそうです。 なるほど、この作りであれば確かに背中を凹ませた縦挽き鋸としての姿の条件は満たせるものの、やはり確かにあまりにカッコ悪いですね。(笑) なんとなくこの肉回しでは、大工用の鋸というよりも雁頭鋸(ガンドウノコギリ)のような印象を受けます。 雁頭鋸を雁頭鋸として見る分には違和感は覚えませんが、縦挽鋸であると認識して見ると「コレじゃない感」が強く感じられます。 時代が下り、代が十五代から十六代に移ってゆくにつれ背中の特徴は改善していったそうですが、横挽きの背中のカーブが強かったり、首が短く顎のエグリが大きかったりといった基本的な特徴の多くは十六代に受け継がれたそうです。 しかし一方で久作が焼入れの技術を盗んだ相手、中屋平治郎は、面白いことに久作同様関東の鍛冶屋でありつつも、例外的に造形にも優れたセンスを発揮した鍛冶屋だったようです。 上の図は書籍「鑿大全」からのトレースですが、首の長さこそ然程長くはないものの首のテーパーは優美な曲線を描いており、その先のエグリが大きく大らかな顎と完璧な連続性が保たれているのが確認できます。 一説によれば中屋平治郎は仲や久作の師であるとの説もあるようですが、このセンスのあまりのギャップを見ると、甚だ信憑性に欠ける説であると個人的には感じます。 この辺りをきっかけに、私は中や久作について伝えられてきた伝聞の一部に疑問を抱くことになりました。 次回は久作にまつわる伝説の謎の部分に、私なりにアプローチした見解を紹介していこうと思います。 つづく 参考、土田昇著「千代鶴是秀」、秋山実著「千代鶴是秀写真集1」同「千代鶴是秀写真集2」、小川雄一発行・大工道具研究会編集「鋸・墨壷大全」、鈴木俊昭著「日本の大工道具職人」、西和夫・2000年・神奈川大学日本常民文化研究所論集「日本の鋸,その歴史と現状 :「中や久作」の検討を中心に」、その他土田一郎氏、村松貞次郎氏の著書を含む。
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