鉄の表情ぎゃらりー

今年も古物市探索頑張るぞ〜!

鉋(かんな)

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色々な鉋(かんな)を紹介。
最近やっとソコソコの収集品が集まってきました。
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キ文字の木工具

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こんばんは、年内にまだいくつかの記事を書こうと思っていましたが、とてもそんな時間が取れそうも無いので、今年の締めというか、悪あがきとして、最後に今年の正月に掲載した道具からまた一つ、キ文字の道具を紹介してみます。


正直なところ、内容の複雑な記事は一つ前の永弘・初弘ら新潟の名工についての記事が最後という感じで、あとの道具類は殆ど難しい内容はありません。

―というか、詳細な記事を書こうにも殆どの情報が不明で記録も存在しない名工が多く、長ったらしい記事を書きたくても書く内容が無い、というのがより正確なところです。

このこと自体は作文が苦手な私としてはちょっと嬉しくなってしまうところですが。(苦笑)


おっといけない!話が逸れました!

本題のキ文字ですが、これはまさに詳細不詳という言葉通りの名工です。

正確には、この「キ文字」とか「マルキ」と呼ばれる銘が、特定の作者を指していたのかどうかさえ怪しく、名工というよりはただの銘と言った方が良いかもしれません。

伝承によると、この銘では平鉋、鑿なども作られていたものの、底取鉋を作っていた工人が特に上手だったそうです。

千代鶴是秀もこの銘を源兵衛勘兵衛重房、吉房など古の名工と共に覚書に書き残し、「皆私の師匠たちです」と語っていたそうですので、恐らく昔は有名だったのでしょう。

実際、ヤフオクで明治時代以前の木工具を探していると、関西方面から東北に至るかなり広範囲から出てくる様子から、流通網を通して広く全国的に知られていたと言うことも考えられるかと思います。

言い伝えによると、関西で有名な徳川末期の名工、源兵衛、勘兵衛などと同様関西方面、恐らく大阪で活躍していたのだろう―とされています。

活躍していた時代も、製作していた工人が何代程度続いたのかなどもハッキリとは分かりませんが、古い時代の作品は確実に制作年代が明治以前に上ることは分かっています。

是秀の残した覚書はおおよそではありますが、活躍した時代順に銘を並べていたと言われていることも考えると、恐らく源兵衛、勘兵衛の少し後に活躍したのだろうと考えて良さそうです。


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そしてこれはキ文字だけの話ではなく、源兵衛や勘兵衛にも共通することですが、そもそもこれらの銘は個人所有の銘ではなく、どちらかというと今日で言うところの問屋銘のような銘であった可能性が高いと思われます。

その理由として、ほぼ同一の時代に作られたと考えられる作品であっても、明らかに別人の作風と断定できる作品群が複数発見されていることが上げられます。

さらに言えば、昔から存在する産地の鍛冶屋業界の分業体制なども併せて考えれば、鑿、鉋、底取鉋などの特殊鉋などの全てを同一の工人が作っていたとは考え難く、恐らく平鉋は平鉋鍛冶が、鑿は鑿鍛冶が、底取鉋などの特殊鉋は特殊鉋専門鍛冶がそれぞれ個別に同一の銘で作っていた可能性が高いと思います。

第一に鑿一つで見ても、コミや肩の整形から言って、明らかに別人の仕事と言える作例がかなり出てきます。


ただいずれの作品群についても共通して言えることは、國弘や義廣が出現する以前のごく原始的な製作スタイルが垣間見れる作風である、という点が挙げられます。

即ち、鑿の場合は穂の半分から3分の2程度までしか鋼が付いていない徳川時代の典型的な作りであったり、底取鉋であれば荒ヤスリのみによる整形や、面取り形式の底取がほとんど確認できないという形式で、印象としては無骨と言うか、この上なく荒々しい作風なのです。

しかし見方を変えると、仕上げ鑢による微調整を省き火造りと荒ヤスリだけで形を作りきっているということでもあり、これはこれで鍛冶技術に熟達していないと難しい仕事で、最低限の手数で済ませることにより生産性を高めるという、別な意味の名人芸とも言えるのかもしれません。


そのため外見的な作りには、無骨という域を通り越していい加減としか言いようの無い部分も多少あります。

例えば鑿の首のテーパーが強く、コミが相対的に細い作りの作品もあり、底取鉋もコミの断面図が四角形になっておらずどちらかというと平行四辺形のような形状であったりと、これは現代の木工具の常識からすると明らかに下手と斬り捨てられてしまう稚拙さであり、実際に「千代鶴さんはこれのどこを見て名工だと思ったのだろう?」と首を傾げてしまうような例がとても多いのです。

しかし意外にも、現代鋼が輸入され始める以前の、鋼といえば玉鋼しか存在しなかった頃の作品としては良く鍛えられ、ちゃんとした硬度が出ている作品もちゃんと存在することや、整形もいい加減ではあっても使えないことは無い程度にまとめ上げるという要所が抑えられていることなど、多少の欠点はあっても実用的に問題無く使えそうな点は重要なポイントとして挙げられそうです。

なぜなら、同時代の作品でどこの誰が作ったとも知れないその他の多くの作品を一つずつ見てゆくと、鋼は不均一すぎたり、クモと呼ばれる焼入れ時の硬化不良箇所が大きすぎたりする使い物にならない作品の方が多いといった有様で、おまけには刃物としての質以前に整形がいい加減すぎて使えない物も少なくないことも考えると、そもそも「ちゃんと使える刃物を作った」という、現代では当たり前なことさえ圧倒的多数の作品では達成されていないなかで、ちゃんと使い物になる道具を作ったということは他とは別格の存在として見るに足る要素だと言えるからです。

もちろん使い物になったとはいえ、刃物としての性能を見れば古い時代の刃物のご他聞にもれず、現代鋼で作られた物には到底敵いようもありません。

ただし玉鋼自体、刃物の素材としては不均一極まりない素材であり、現代道具鍛冶の祖と言われる國弘、義廣や刀工から道具鍛冶に転じた石堂寿永ですら時にはその扱いに失敗しているほどであったことを考えると、そのような素材を実用品に仕立て上げていたというだけでも、名工と呼ばれるのに十分な要素なのかもしれません。


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古物市で見つけたキ文字の鑿の中で、この2本だけは仕込み直しをして普段使いしています。

三分の鎬鑿と、五分の薄鑿です。

刃味としてはやはり現代の刃物より甘く、持久力は低いと言わざるを得ませんが、特殊鑿の類は出番が少ないためこまめに研ぎ直すことを忘れなければそれなりに使えてしまうのと、鎬鑿などは蟻溝加工などにおいては精度が良いことが重要なため、現代工の作品でこれ以上に精度が良く、かつ安い刃物を見つけるのも困難なことから、内容的に決して優秀とは言えないことに目をつぶりつつ使っています。

キ文字の作品は國弘や石堂、千代鶴の作品と比べると確かにいい加減な作りですが、しかしこれらの傑出した名工らが多く活躍した木工具の黄金期を過ぎた現代では、多くの鑿は整形精度においてキ文字にすら劣ることは指摘しないといけないでしょう。

そのような成型の技術的な退化の主な原因は、成型の基本が機械動力によって済まされることが当たり前になったことにあると考えていますが、労働の手間を省くことができるようになったことで、モノ作りの手間をも省いてしまうようなことは本末転倒とも言える体たらくですので、もう一度古い時代の作品の長所を理解し、より良い道具を作るにはどういうするべきなのかを、道具の作り手だけでなく道具の使い方を忘れてしまった現代の使用者も一緒に考えてみる時が来たのかもしれませんね。


さて、今年はどの道具について記事を書くにしても長文化は避けられないようなモノばかりで、必然的に情報収集に掛かる時間も長くなり、記事の投稿数は明らかに減少してしまいました。

これは個人的な反省点で、来年はもう少し肩に力を入れずに色々な記事を書いていくべきかな?とか、そんなコトを考えている大晦日です。

今年の新年に掲載した道具はずべて個別に紹介する記事を書くつもりでしたが、とてもノルマは達成できないまま新年を迎えることになりそうです。

そんなわけで旧い年の未消化分を抱えつつ、また来年も名工達の作品を掲載してゆきたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。

無精な一年でしたが、皆様には辛抱強くお付き合い頂き本当に有り難うございました。

どうぞ良いお年をお迎え下さい。


※実は過去にも一度、キ文字の道具は底取鉋のみ掲載したことがあります。
よろしければこちら↓もご覧下さい。
大阪の名工の鉋 キ文字
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こんばんは、ご無沙汰です。

新年に掲載した道具の内数点については記事を書きましたが、忙しさと内容の複雑さによる情報収集の難しさにかまけていくつかの道具については触れずじまいでした。

しかしそろそろいい加減に記事を書かないと本当に年を越してしまいそうなので、急ごしらえな内容ではありますが、またブログを再開していきたいと思います。


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左・初代(?)永弘作 寸六鉋(元寸八→切断の形跡あり現寸六)、中央・二代目永弘作 寸八鉋、右・三代目永弘作 寸八鉋
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左列上・初代初弘作 二寸鉋、左列下・初代(?)作 寸六鉋、中央上下および右列上下・二代目初弘作鉋

今回は道具史の名工と題し紹介した中から、永弘と初弘に特に焦点を当てていきたいと思います。

いきなりですが、私が毎年新年に掲載する道具類は、通例では比較的希少な打刃物を掲載しています。

実際には希少な作品を掲載しようという意図ではないのですが、名工と呼ばれた工人たちの作品となるとよく切れるため使い減らされ、ついには消滅してゆくことが半ば宿命ともいえる道具の最後であるため、必然的に名工の道具ほど残り難く希少にならざるを得ず、名工の作品を載せるということはそれ自体が希少な作品を掲載することとなりやすい、―という理由があります。

では一体どういう基準で掲載するかどうかを判断しているかというと、ただ単に名工と言われたというだけでなく「日本の道具史に関与するほどの功績を残した工人かどうか」という点を基準に考えているのです。


しかしその基準で掲載するかどうかを判断してゆくと、時にはイレギュラーな例も出て来ます。

永弘や初弘はその典型例で、生産量が多かったことに加え何代にもわたって続いた名門であるため、その作品はさほど珍しい物ではなく、名工の作品としてはあまりに目にする頻度が多いため、ついつい名工の作品であることを忘れてしまうほどに身近な存在として感じることもあるほどです。

それでもこれらの名工は木工具の分野だけに留まらず、今日実用に供されているあらゆる刃物と関係があるのです。

なぜなら、今日この国で最も多く刃物に使われている鋼である安来鋼の青紙鋼・白紙鋼が、この二人の使っていた鋼の成分を参考に作られたと言われているからです。

ただ実のところ、詳細にこの伝説を検討してみると信憑性に乏しい部分が多く、それゆえ個人的にはむしろこの二人が多くの優秀な門人を輩出したことの方が、道具史においては重要な功績と言えるのではないかとも思えますが、そのような有力な一門のヒエラルキーにおいて頂点の存在として新潟の鍛冶業界に君臨したことや、永弘・初弘ら自身も日本の道具史において有数の名工であったことも、それらの事柄全てをずっと後の時代に生きている者として振り返れば、「この二人ほどの名工であれば、確かにこのような伝説が生まれるのもうなずける」と納得させられるほどの活躍をしたことは否定しようのない事実ですので、今回の記事ではこの伝説にまつわる検討から考察を始めていきたいと思います。


まずこの逸話のうち永弘にまつわる部分についてですが、これは新潟の岩崎航介氏により書籍「刃物の見方」でも触れられているため、ごく一部の界隈で常識的に扱われる程度には「よく知られた話」なのですが、いささか不明瞭な部分も多く含んでおり、当事者達もとうにこの世を去っているため半ば伝説的な伝聞として伝えられていると言えます。

この話題については岩崎航介氏が語った内容が前出の「刃物の見方」に掲載されているほか、外栄金物株式会社のホームページがこの岩崎航介氏の記述を抜粋、鈴木俊昭氏も外栄金物株式会社のホームページの記述に沿った内容をホームページ、および書籍「日本の大工道具職人」の中で触れています。

それらをまとめて要約すると、大体以下のような内容になります。


初代永弘:本名を永桶米太郎といい、明治15年ごろ与板より三条に移住した河内庄次に弟子入りする。
当初鑿鍛冶としての修行をし独立後永弘を名乗るが、鉋作りも始める。
刃物鋼としてはまだ玉鋼が一般的だった時代に、大砲の切削用バイトのスクラップなどの輸入鋼を使い有名になる。
後にこの鋼の成分を参考に安来青紙鋼が開発されたと言われる。

初代初弘:初代永弘の弟子で本名を星野三吉という。
初代永弘が輸入合金鋼を使って成功したのとは正反対に玉鋼を使用し大成功し、後に安来製鋼所が初弘の使っていた鋼の成分を可能な限り近代工業的に復元した物が安来白紙鋼と言われている。


さて、この内容についてはまだ不明な点が多いのですが、三軒茶屋の土田昇氏に伺った話だと、明らかに間違いと言える箇所が数点あるようです。

まず永弘が作っていた作品を初代から三代目の時代まで通して見ると、確かに最も多く使われた鋼は青紙の系統なのですが、初代から二代目の初期頃の作品には合金鋼系ではなく炭素鋼系、―つまり白紙の系統に属する鋼の作品が多く確認されており、特に土田昇氏のお爺様が昔仕入れた初代の作品は輸入炭素鋼が使われているということです。

新潟港に外国から金型のスクラップが輸入されるようになって以降、永弘が好んで使っていたこの「輸入鋼」と一括りに呼ばれる鋼材は、炭素鋼の物もあれば合金鋼の物もあるといったごちゃ混ぜの状態だったようであり、永弘は刃物鋼として優秀であれば炭素鋼・合金鋼の違いに頓着せずどちらも上手に鍛え上げたということから、少なくとも「有名になったのは合金鋼を上手に鍛え成功したから」というニュアンスの表現は誤りと言えるでしょう。


そして初代初弘について語られている伝聞も明らかに怪しい所があり、初弘が玉鋼を使って作った鉋は一般販売用の量産品ではなかったため、商業的にこれが成功を収めたという話も眉唾物と言えるようです。

どうしてこれほどはっきりとした反論ができるかというと、初代初弘が使った鋼については確かに玉鋼の作例が確認できてはいるものの、その材料の玉鋼の出所がハッキリしているからです。

この件を土田昇氏は今でも良く覚えており、まず初弘が使った玉鋼は前出の岩崎氏が用意した試作品であり、それを数名の腕利きの鍛冶屋さん達に使用してもらった上で完成した作品を研究材料とする目的で、初代初弘(鉋を製作)、碓氷健吾(鉋を製作)、千代鶴是秀(切出小刀と和剃刀を製作)らに試用を依頼したということで、土田昇氏は後年完成したこれらの刃物を研磨し性能評価する役目を引き受けたそうです。

そしてこの試作品は研磨の後は岩崎氏の許に返還されましたので、これが市場に出回った可能性はまず無く、他の玉鋼製の作品が存在した可能性についても、

「まず無い。そもそも初弘は永弘の弟子で、その永弘がもう現代鋼を使い始めていたわけだからその弟子が玉鋼なんかで商品を作っていたわけが無いし、そもそも初弘自身、材料の玉鋼を持ってもいなかったのだから。実際、市場に出回っている初弘の作品でこれは玉鋼製だ!と判定された作品は実のところ皆無でしょ?」

とかなり否定的でした。


まずここまでの証言内容を振り返って見るに、由来がハッキリしていることや物証の存在から、初代永弘のサクセスストーリーが必ずしも合金鋼と直接結び付くわけではないこと、初弘は一般商品の素材に玉鋼を用いていたとは考えられないこと、これら二点の内容自体は確実性が高いと考えて良いように思われます。

この中で物証と私が位置付けている鉋刃の存在ですが、まず永弘の鉋刃は大工道具研究会編集・誠文堂新光社発行の書籍「鉋の技と名品大全」に掲載さています。

この鉋刃は、土田昇氏の先代である土田一郎氏が新潟に赴いた際二代目永弘に見てもらった際、「間違いなく初代の作品である」と驚かれ、二代目永弘は仕事場の奥からカメラを持ち出してその鉋刃を撮影していたそうです。

このことから、初代永弘の作品としては極めて希少な折り紙付きの資料と考えて良いでしょう。


次に初弘と碓氷健吾氏の鉋刃ですが、これは削ろう会の会報vol.63に掲載されており、初弘の作品は「玉鋼141 岩崎航介 星野初成 合作」と切銘されており、碓氷氏の作品は「一竿斎藤原寿一 純玉鋼」と切銘されています。

そして千代鶴是秀が試作した作品ですが、残念ながらこれは掲載された刊行物の類を発見できませんでした。

―が、今回の主題は永弘・初弘の使用鋼についてですので、物証としては上記の作品群で十分でしょう。

なお追加情報として、これらの玉鋼での試作品が制作されたのは昭和30年前後で、土田氏によると初弘は「玉鋼なんて初めて使った」と語っていたとの話もあるそうです。


さて、ここからは情報の検証とは別に、新たに出てきた既存の伝承・伝聞を否定する情報を再考し、「それでは永弘・初弘の二名と安来鋼に本当に関係は無かったのか?」という命題について考えてみたいと思います。

というのも、何かの誤解や伝言ゲーム式の情報の変質があったとしても、現状は「全く根も葉も無い所から伝説が生まれた」と判断するに足る根拠にもまた乏しいですから、‘火のない所に煙は立たぬ’ではないですが「もしかしたら伝説が生まれるからには、きっと何らかのきっかけと言える経緯があったのではないか?」という、もう一つの疑問についても考える必要があると思えるからです。

そのような推測・仮定の話は、いささか私的なロマンを求める志向性を含む勝手な妄想ではありますが・・・・・、なにはともあれ、以下に可能性のありそうな話をまとめてみました。


・まず永弘と青紙鋼について考えてみます。

上記のとおり、初代永弘が有名になった頃の使用鋼は炭素鋼・合金鋼両方の作品があり、それらの混在した期間が初代永弘の時代から二代目永弘の初期頃まで続いていました。
このため、永弘の伝説については「合金鋼を鍛えたところこれが大成功し」と言う部分を少し変え、合金鋼・炭素鋼の区別を明確にしない輸入鋼という表現に変えた方が正確と言えるかと思います。


・次に初弘と白紙鋼についても考えてみます。

白紙については参考に選ばれたサンプルが一般商品用ではなく、岩崎氏より提供の試作品だった可能性も一応は排除しきれないとは考えられますが、一般常識に照らして考えると、工業製品を開発する際に生産性が最も悪く、かつ成分再現も最も困難な玉鋼が参考にされるというのも疑問符がつきます。
そこで私が有力視している候補としては、スエーデン鋼を「洋玉鋼」などと呼んでしまう鍛冶屋さんの用語(紛らわしい悪習?)を、安来製鋼所関係者が誤解してしまったという可能性が考えられるかと思います。
洋玉鋼などという呼び方がいつごろから存在しているのかは定かではありませんが、元々安来の白紙鋼が開発される以前からスエーデンの鋼は流通していましたし、当然初弘も昔からスエーデン鋼を使っていましたので、この可能性については検証の必要があるかと思います。

とは言え、初弘と安来白紙鋼の関連性についてはこれまでの考察でも明らかになったように、そもそも玉鋼がサンプルとされた可能性が低いことから、本当に初弘の使用鋼が参考にされたかも疑問の余地があります。

ただし今回の検証では既出の伝承・伝聞がまず存在する状況で、その伝承・伝聞の詳細について誤りがあるとしても、「安来鋼の開発時に初弘の使用鋼を参考にされた」という大筋は正しいという仮定の条件の中でどのような可能性が成立し得るかという前提で考察をしましたので、初弘と安来鋼に関連が無い可能性についてはそれとはまた別に検証する必要があるでしょう。


これまでの判断材料を基に消去法的に可能性を考えると、上記の可能性なら整合性は取れそうですし、時代性なども考えるとありそうな話に思えますがいかがでしょうか?

しかし何と言っても伝記や伝承の類が不足気味で、決定的な証拠には欠くので、今後も引き続き調査を続ける必要がありそうです。


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金井芳蔵作 寸六鉋
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佐藤巳弥治作 恵比寿銘寸八鉋

さて、以上の安来鋼にまつわる話が永弘・初弘の直接的な功績に関連する伝説ですが、上で既に述べたとおり、この二人の工人は多くの優秀な弟子達を育成したこともまた有名です。

後藤新平の言葉に「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり」という意味の言葉がありますが、その意味する所は正にこんな様を指すのだろうと思わせるほどにこの一門は大きなものとなりました。


こんなに長々くどくどと、安来鋼の伝説について語っておいてから言うのもなんなんですが、やっぱり正直なところ私のような研究者ではない一介の使用者からすると、そのように多くの名工を輩出したことの方が偉大な功績ではないかと思えるのです。

事実使用者の「切れる」という評判は伝説とはまた別に確固たる評価を形成しているフシがあり、特に初代初弘の弟子であった金井芳蔵氏や、初則銘、伝寿銘などで有名な佐藤巳弥治氏の鉋は絶大な人気がありますが、これらの人気は「困った時の金井」などという言葉が示すとおり口コミで広がった様子です。


ところで、視野を永弘・初弘が活躍した三条だけでなく新潟全体に広げて見ると、与板の坪井幸道や、龍眠斎兼行より続く長岡の龍進斎悦英の系統もあり、鋸鍛冶も深沢伊之助を筆頭とする三条の大きな一門や、脇野の中屋庄兵衛の系統など、現在の規模とは比べ物にならない程に重厚な密度の鍛冶文化が明治以前から存在していました。

つまり、個々の一門という単位で見るのではなく、多くの優秀な工人たちが腕を競い合う競争原理も働いたからこそ、その中から全国的に見ても屈指の名工たちが排出されたのではないかという視点で見れば、永弘も初弘も、両名に続くこの一門全体も、新潟という鍛冶文化の豊かな土地に育てられた名工という見方もできるのではないでしょうか。


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栗林信吉作 寸六鉋

栗林信吉もそんな時代を象徴するかのような名工で、与板の出身、後三条に移り活躍し、三条鉋鍛冶の祖と呼ばれたそうです。

生い立ちや活躍した時代から見ると、永弘の師、河内庄次とよく似た経歴ですね!


しかし栗林信吉については永弘や初弘のように有名ではなく、唯一私の友人の春日部風鈴さんだけがブログにてその調査記録を掲載しているのみで、流通網などは不明ですし、後継ぎもいなかったそうです。

そのことだけを見ると、鍛冶文化への貢献度合いは永弘・初弘ほど高くはないような先入観を抱いてしまいますが、それでも素晴らしい技量を発揮し当時の新潟の鍛冶文化をより一層厚みのあるものにしたことは確かでしょう。

実際に現物を見た限りとても良くできた鉋を作っていたようで、十分名工と呼ぶにふさわしいと思います。

今年は東京鍛冶ながら新潟出身者である長谷川廣貞や、龍進斎悦英などの作品を紹介しましたが、それらに加え栗林信吉、永弘・初弘、つんぼの鉞(まさかり)などをいくつも見てゆくと、改めて新潟は優れた鍛冶の地方だったのだという印象を受けました。

勝手に直リンクを貼ると怒られてしまうかもしれませんが、日部風鈴さんの栗林信吉についてのブログ記事は大変読み応えがありますので、是非一読いただきたいと思います。

Yahoo!ブログ 鑿のコミ、鉋のウラ
三条鉋鍛冶の祖


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二代目初弘作 問屋銘鉋


おまけ


そうそう、初弘の鉋を探していると問屋銘の作品が多く見つかるのに、永弘の作品では問屋銘の作品が全く見つからないことに気が付いた方もおられるのではないでしょうか。

これは永弘は独立後自分の銘で大成功したため問屋の力を必要としなかったのに対し、弟子の初弘が独立したばかりのまだ無名だった頃は問屋の力が強い時代で、このため問屋の傘の下で安定した生産体制を確立したということが背景にあるようです。

チョット記憶があやふやなため、あまり堂々と言ってはまずいのですが、たしか初弘銘は浅草の水平屋が保持していたと聞いたような・・・・・?

いずれにせよ、永弘以外は様々な問屋銘の作品を作っていたことだけは確かで、このため時々この系統の工人の作風だけど、誰の手による作品か判然としない作品が比較的多く見つかります。

金井の鉋などはたとえ問屋銘であってもヤフオクでは高価になる傾向が強いですが、一方で初弘などの問屋銘は丈の残っている作品でさえ1000円程度で買えてしまうので、切れる鉋を安く買いたい私などにはとても魅力的な鉋です。

だってそうですよね?

確かに金井の鉋は良くできていますけど、佐藤さんの鉋も初弘の鉋も、刃物としての性能はどれも大きな差は無いと言える程に良い刃味ですし、そのうえ平均的には金井の3分の1〜14分の1の値段で買えてしまうのですから。

悦英シリーズの完結

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こんばんは、久々の更新です。

―が、今回は特に目新しい話題があるわけではありません。

以前掲載した記事「龍進斎悦英とその系統」の中でチラッと触れつつも、たまたま手元にサンプルが無いために掲載できなかった「行安」銘の鉋がやって来たので、その最後のパズルの1ピースが埋まったよ、というだけの内容です。

相変わらず色々な道具を性懲りも無く収集し続けていますが、そうすると自分で何か買うわけでなくても、収集の道の大先輩達に「これあげるよ」とか、「研いでごらんなさい」などという感じで古道具を頂いて来てしまうことが多々あり、この行安銘の鉋もそんな流れでやって来た一枚で、他にも悦英の弟子筋では小鉋作りの名工として知られる丸山銀二の未使用品の作品も最近頂きました。

ただ丸山銀次の鉋についてはまだ写真の撮影が上手くできていませんので、また機会を見つけて掲載したいと思います。

ところでこの行安の鉋、「行安」銘の上に何か潜水艇のような格好の刻印が捺されており、これが行安鉋のトレードマークなのですが、一体何をモチーフにした刻印か良く判りません。

詳しい方がおられたらご教授お願い致します。

龍進斎悦英とその系統

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こんちわ。

案の定、先日右手を怪我したことにより手を存分に使えないストレスでイライラしています。(笑)

昔の名工についての情報を都内の大工道具店で聞いて来ていて、それらの情報が頭の中でパンクしそうなので、気分転換も兼ね忘れる前に記事にしておきます。


今回は一月一日に掲載の道具の中から、初代・龍進斎悦英の鉋をピックアップしてみます。

初代・龍進斎悦英は本名を堤伝作というそうで、新潟の長岡出身、刀工兼道具鍛冶の龍眠斎兼行に師事し、後に東京神田橋に出てきた名工です。

特筆すべき点としては、やはりなんと言ってもとても大きな問屋にまで上り詰め、多くの優秀な弟子達を排出したという事が挙げられるでしょう。

悦英系統の後代は東京やその近辺で活躍した工人が多く、末裔である堤朋一氏のように男盛銘の鉋で全国的に有名になった工人や、小鉋作りの名工として知られる丸山銀二氏なども含まれます。



初代悦英は大変に勤勉な職人だったようで、いつも鉋を必要分よりも余計に作っていて、販売する分以外は質屋に預けていたそうです。

そうしたところあるとき関東大震災が起き、その後の急速な復興需要に合わせ質種としていた鉋を販売したところこれが飛ぶように売れ、これにより莫大な資産を得て巨大な問屋へと急成長したとのことです。


ところで師匠筋はというと、龍眠斎兼行は幕末の刀工として有名な水心子正秀や坪井幸道に師事したとのことで、元々のルーツは刀鍛冶から始まっているようです。

この辺りはかじやさんのブログ「鍛冶屋−木工具の今と昔」に詳しく書かれており、系統樹を引用すると以下のようになります。


坪井幸道

龍眠斎道次

龍眠斎兼行

初代龍進斎悦英(堤伝作)

二代目龍進斎悦英(堤政悦)


そして男盛銘で有名な東京の鉋鍛冶堤朋一氏も、この堤一族の末裔に当たるそうです。


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参考写真:堤朋一作 龍進斎悦英銘寸八鉋


確か堤朋一氏ももう鬼籍に入られてから何年も経っていたと思いますが、男盛銘の鉋は堤氏亡き後も問屋銘として三代に渡り作り続けられています。

それに初代悦英の弟子だけでも10人以上いたそうですので、この系統についてはもはや全体像を正確に把握することすら困難なほどの規模であると言っても過言ではないと思います。

また龍進斎一門の中には優れた工人が相当数いたようで、特に佐藤松蔵・善次兄弟のように親方各であるはずの悦英自身が向う槌を振るう程の卓越した技術を持った工人の話も伝えられています。

それだけの規模があったからでしょうが、かつては悦英銘の鉋は銀杏面などの小鉋・特殊鉋類でかなり出回ったようで、今でも取り扱っている道具店はありますし、古物市でもかなり良く見かける銘でもあります。

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参考写真:悦英銘鉋刃(問屋銘)


ですので問屋銘の比較的新しい悦英は数多くあるわけですが、古い悦英は割合としては極少なく、なかなかお目にかかれません。

古い時代の目印は梅鉢の刻印で、中には上の大鉋のように「褒状」の刻印や菊の紋の刻印が打たれた物もあります。


ところで、この菊の紋については最近までずっと調べていたのですが、イマイチどういう経緯で捺されていたのか分かりません。

何か頭の中でずっと混同していた話があり、明治年間中に開催された博覧会にポンプを出展した話が関係無かったかな?と気になり調べていましたが、これは大阪の初代善作についての話で、悦英は関係なかったようです。

私が混同していた善作のエピソードは、四国の香川量平氏が削ろう会会報に寄稿したレポート「名工の鑿鍛冶『善作』の話」に記載されており、一部を引用すると「初代善作の孫にあたる小島晴惠さんの話によると、その当時、ポンプを考案して大阪で開催された第五回内国勧業博覧会に出展し、後の大正天皇よりお誉めのお言葉を戴いたという逸話が残っている。」―といったものでした。


善作の話はさておき、「菊の紋」と「褒状」の二つの刻印から、恐らく初代悦英も皇室関係者から何らかの「お褒めの言葉を頂いた」的な話があったのではないか、そしてこれらの刻印は何かそれに関連し誇る出来事があったため打たれたのではないか?と個人的には推測しています。(特にこれといった根拠もないですが)

しかし当時は大らかな面もある時代であった半面、「皇国バンザーイ!\(^0^)/」という風潮の全盛期でもあり、「勝手に皇族の家紋を使のは不敬罪である」というお叱りを受けたそうで、それ以降は菊の紋は使わず「褒状」の刻印だけを使うようになったと云われています。


上記の「お叱りエピソード」が龍進斎悦英初代の時代の話で、後代は新潟の長岡ではなく東京で活躍したわけですが、そのようなやや事件的な経緯が初代の時代の出来事であったため、この鉋に関してはまだ「長岡の悦英」と呼ばれていた時代、―つまり初代の作品とハッキリ断定できるようです。


イメージ 1

イメージ 2

参考写真:村正銘 八分大突鑿


それにしても、この龍進斎一門近辺の職人は、会津の道具鍛冶系統や千代鶴是秀・石堂家とも共通する傾向として、鉋以外の作品も手掛けるという、やや野鍛冶っぽいというか、ナンデモ鍛冶(謎)といった風な印象もあります。

村松貞次郎著「道具曼荼羅」には龍眠斎兼行の作品として鉈が一振り掲載されていますし、同じく兼行の作品で大突鑿も見たことがあります。

そしてこの写真の大突鑿も悦英自身の作品ではありませんが、その系統の工人の作品の可能性がかなり高そうな物です。

「道具鍛冶」と分類される工人がわりと色々な種類の道具を作ることは当時は珍しいことではなかったようで、前述の千代鶴・石堂はもちろん、会津の名工達や新潟の名工達、関西では善作や梅一などが幅広いレパートリーの道具類を作っていたことが知られており、機械化・大量生産化が進む以前の時代は、レパートリーの狭いいわゆる「専門鍛冶」はまだ主流派ではなかったのかもしれません。


上の大突鑿、銘は村正ですが、これは悦英工房で作られていた大工道具でよく見かける銘です。

同様に悦英の問屋銘としては行安などもよく見かける銘で、これらは東京の茅場町にあった武藤勘助商店の屋号で、やはり悦英の一門が手掛けていた銘なのだそうです。


https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-91/new_alces/folder/7055/08/28987308/img_0_m?1506780036
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参考写真:武藤勘助商店の問屋銘 上・行安銘寸八鉋 下・村正銘寸八鉋


これらの商標銘もかなり古い作品に見られる物で、この頃の作品の鋼は明治頃に輸入されたごく上質な現代鋼が使われているようです。

一般的に悦英系統の作品は、堤朋一氏の時代前後から青紙系の合金鋼を使った作品が主流に変わってゆきますが、このように古い時代の作品には炭素鋼系の鋼が使われています。


この上質な輸入炭素鋼は千代鶴是秀が使用していた物と全く同じ物ですが、当時流通していた鋼の中ではかなり高価だったようで、是秀もこの鋼を求めるたにめなけなしの有り金を全て叩いて買えるだけ買い求めたそうです。

一方の悦英はというと流石に大問屋なだけあって、広い工場に天井まで届くほどに高くこの鋼を積み上げてストックしていたそうで、その光景を目の当たりにした是秀は「流石悦英さんだ」と驚愕したとの話が残っています。

やはり貴重な鋼だったのでしょうが、堤朋一氏の活躍する昭和の時代までこの鋼を使い続けることができたのは、このような大問屋としての在庫維持力があったからということなのでしょう。


イメージ 4


それにしても、やっぱりこの鉋デカ〜イ・・・・・。(汗)

実際に寸八鉋と比べると、見た目だけでなく重量もかなり増えています。


台はどうやら刃を深く挿入した状態で保管されていたようで、そのため木の収縮により刃口が大きく割れていますし、小口もヒビだらけなので使い物になりません。

元々節もあるあまり質の良くない樫材だったようですが、今一枚板で実用的に使える樫材を見つけるのはまず不可能でしょうから、厚み1分から3分程度の薄い樫材を下端のベースとして、積層構造の合板台を作るしか手段が無さそうです。

恐らく金属なども用いる面倒な仕様の台になると思いますが、そのパーツを集めてくるだけでも大変なので、削り華を見れるのはまだまだ先のことになりそうです。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-91/new_alces/folder/33863/61/28444561/img_5_m?1485528102


こんばんは、ご無沙汰です。

季節の変わり目に入ったせいでしょうか、例年通りコンスタントに体調を壊しており、今朝はまた頭痛にやられて寝込んでいました。

季節の変わり目はこういうコトが結構多く、ここ1週間で2回くらいはこんな感じになっていて、とても困ってしまいます。


ところで以前、お預り中の鉋で会津の重長の鉋を載せましたが、カイサキ近くの側面がマクレ上がっていて裏スキ修正に差し支えるような状態のがありました。

その鉋の修正がほぼ終わったので、ビフォーアフターの図だけちょっと掲載しておこうと思います。



https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-91/new_alces/folder/725186/19/28524119/img_0_m?1486987115
イメージ 1


さて、裏スキの修正自体はこのようにまぁいつも通りなのですが、側面のマクレを一切削り落とすこと無く修正してあるのが分かるでしょうか。


イメージ 2


実は側面から見るとこのような状態になっています。

私の場合、マクレた鉋の頭などもできるだけ本来の姿に近い形状に復元したいと考えるので、グラインダーなどで削り落とすようなことはせず、玄翁でマクレを叩き潰して体裁を整える方法を取っています。

鉋の頭は柔かい地金ですから、焼きが入った硬い鋼の金鎚で叩かれるとやがて変形しマクレてしまうわけですが、逆に考えればマクレ上がるということは、元通りの姿に近い形状にもう一度マクレさせることも理論上は可能と言えます。

もっとも、時間はかなり掛かりますが・・・・・。

この方法は姿が違和感無く仕上がるのはもちろん、台に入れ使用する際、手の当たりが良いというメリットや、研ぎの際などに気になる微妙な左右の重心バランスも崩れないというのがあります。

やはりね、このように仕上がると思えば、頓着せずグラインダーで削りまくるのはどうも気が乗らないんですよね。(笑)

中古の鉋で使い減らされた物には、全体をグラインダーで削られ傷だらけのボロボロになった醜い鉋がよくありますが、ああいうのを見るとなんだか「あらら可愛そうに」と思ってしまうんです。


ただし何でもかんでもこのような修正方法を取るというわけではなく、玄翁で叩くと地金が崩れてしまうような性質の脆い地金もあり、そのような場合はこういう方法は取れません。

ですので、この方法を試す際は、よくよく地金の性質を見極める必要はあるでしょう。


イメージ 3

イメージ 4


ところで、この鉋の裏面は縦にセンで透いた仕上げになっていて、ただ叩くだけでは雰囲気が浮いてしまいます。

そこで叩き潰し形状を整えた後、鍛冶屋センで化粧削りをしてからわざと錆びさせ、色合いが丁度良くなったところで黒染め液などモロモロの薬品で色付けし、見た目を周辺に合わせます。


どうです?

修正した痕跡は判っても、違和感はさほどないでしょ?(笑)


もうちょっと修正が上手く決まり、違和感が少なくなると↓のような感じになります。


https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-91/new_alces/folder/7055/27/27437827/img_41_m?1492704207
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-91/new_alces/folder/7055/27/27437827/img_42_m?1492704207


これは私物の義廣の鉋ですが、頭が多少マクレていたので当然ながら修正を施しています。

これもまだ修正の痕跡が判らない―って程には達しませんが、遠目には全く違和感は感じない程度だと思います。

特にこういう叩き戻す修正方法は、古い鉋など資料的価値もある作品などで作者の本来の作風を維持するという目的もあり、無闇に削って形状を変えてしまうことで資料製を損ねるといった問題も防いでいます。


今回は偉そうに私の修正例を晒して見ちゃいましたが、この技術に関しては私は全くまだまだ未熟で、この世にはもっともっととても上手に修正してしまわれる手練もいます。

そういう方々からすると「よくもまぁ、この程度の出来で」と思われてしまいそうですが、今回はこういう方法もあるんだよ〜って紹介の意味合いで、あえて恥を覚悟で掲載してみました。

叩き直す場合、施術箇所の錆や黒肌が殆ど剥げ落ちてしまいますので、形状の修正に加え黒染めなどの後始末もそれなりに出来た方が理想的かな〜とは思います。

そういった細々とした課題などはありますが、鉋に対して(無駄な?)愛情溢れる方であれば、こういう修正を試みてみる価値はあるかもしれません。(笑)


重長の鉋は裏はほぼ修正終わりで、残す所は鎬の研ぎ卸しです。

裏が糸裏になったからと言ってこれで作業が全て終わりかというとそうではなく、まだ黒染め処理の際に薬品が残した腐食痕が使用に致命的なことになっていないか、短く言えば裏に荒れが残っていないか、―と言う点の確認作業が残っています。

ですので最低でも裏出しだけはしなくてはならず、鎬を研ぎ上げてみてちゃんと刃先が整うことまで確認して初めて「作業終了」です。

もし刃先に荒れが残るようであれば、一裏程度研ぎ卸して荒れた部分を減退させる必要があるわけです。


それにしてもこの重長の鉋、明治末期以降の作品のようでスパークは枝分かれの少ない暗めの物でした。

恐らく使用鋼は東郷鋼系統の合金鋼ではないかと思いますが、それゆえ研ぎ卸しはなかなか捗りませんね・・・・・。

古い会津鉋によくある薄手の作り込みですので、鎬の面積は現代の一般的な鉋よりは小さく分厚い鉋よりは研ぎ減らしは楽な理屈ですが、それでもなかなかに研ぎ難い・・・・・!

逆に考えれば、耐摩耗性も高いと言う意味でもあるのでしょうね。


https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-91/new_alces/folder/7055/27/27437827/img_43_m?1492704207
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-68-91/new_alces/folder/7055/27/27437827/img_44_m?1492704207


そして今は左久作氏の鉋も修正中ですが、こちらはまだまだ荒修正中です。

乱暴な使用者なら「糸裏なら何でもいい!」って使い始めてしまいそうですが、まだまだ全体的に歪ですので、これからが本当の意味での修正作業と言えます。


さて、本当は他に書きたいことが山ほどありますが、今日はもう疲れたのでこのへんで。Zzz

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