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良太です。
先日の出張の続きです。
島根と言えば出雲の国ですね!
そして日本人なら当然、真っ先に出雲大社を連想しますね。
えー行ってしまいました。当然のことながらこれは仕事ではありません。
ただこればかりは申し訳ありませんが、
本来の目的地である松江から50分圏内にあるのに
行かない手はないでしょう。。
ともあれ、
長〜い(といっても想像より短かったですが…)参道を歩き、
平成の大遷宮に伴う工事を行っている(ちょっと残念)本殿前で
出雲式の二礼・四拍手・一礼で参拝して参りました。
(どうして四拍手なのかはまだ調べていません。すみません。)
画像ではわかりづらいですが、ふと外に目をやると掲げられた日の丸の大きいこと!
どうですか?これらの圧倒的な画の数々!!
もはや愚者の戯言など必要ありませんね(笑
…といわず少しだけ。
なんでも出雲大社の在り方をみると日本の和の心がみえてくるらしいのですがどういうことでしょう。
国譲りの神話、皆さんはご存知ですね。
まだ「日本」という言葉がなく今の奈良県を中心とした一帯が
秋津洲(あきつしま)や豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国と呼ばれていた太古の昔、
その土地を支配していたオオクニヌシ(大国主)に、
高天原(たかまがはら:九州地方とも中国とも朝鮮ともいわれています。)から来たアマテラス(天照)が
「この国が気に入ったから孫(ニニギノミコト:天皇家の祖先)に譲ってくれないか」
と持ちかけたのち、多少の争いを経たものの最終的に話し合いの末に譲り受けた。
そう、「奪った」のではなく「譲り受けた」。
そして、国を譲ったオオクニヌシは出雲大社に「とこしえにお隠れになった」。
すごく簡単に言うとこんな感じですよね。
この国譲りの神話が書かれている日本書紀という歴史書は、
大化の改新で蘇我氏を滅ぼした天智天皇(中大兄皇子)の息子である
天武天皇の時代に書かれたものです。
当然これを書かせたのも天武天皇です。
これは天武天皇が自分の功績を後世に残すために、
いかに自分が立派な帝王であるかを示すために
書かれたものであるといって間違いはないそうです。
天皇家が何故日本を支配するに至ったのか、何故日本の正統な王者といえるのかが
記されているのが日本書紀なんですね。
つまり、ある程度(部分的にはかなり)の美化や脚色がなされている物語という側面があります。
その「脚色」のひとつが国譲りの神話のまさに「話し合いで国を譲り受けた」というところらしいのです。
人類の歴史を見ると、モーセの出エジプト(ユダヤ人のイスラエル移住)しかり、
白人入植者とネイティブアメリカンしかり、
インダス文明のドラヴィダ族とこれを滅ぼしたアーリア民族しかり…
ある民族が別の民族の土地に侵入したときは、現代のモノサシで測れば非常に残酷な
シーンが必ずといってあるそうです。想像を絶する惨劇が繰り返されてきたんですね。
事の大小は抜きにしてもこの「オオクニヌシvsアマテラス」でも相当な血が流れたはずです。
しかし、前述のとおり日本書紀ではあくまでも「話し合いで」国を「譲り受けた」となっていますね。
ではなぜこのような脚色が行われたのか。
それは、神話が書かれた当時の人々(聖徳太子の十七条の憲法以前の神話の人々)も
すでに「何事も話し合いで決めなければならない」という和の精神を
美徳としていたことの現われだと思いませんか。
奪ったのではなく譲り受けたのだから天皇家がこの国の正当な支配者である。
こう主張するのには大前提として和の心がないと説明がつきませんよね。
長々とすみません。自分で書いていても若干意味がわからなくなってきましたが最後に、
「雲太和二京三」(出雲太郎・大和二郎・京三郎。つまり出雲大社→東大寺大仏殿→大極殿の順に
大きい建物という意味)の言葉が示すとおり、敗れた側の支配者がその国で一番大きい建物に
祀られているというこの世界に全く類をみない出雲大社の特異性も
紐解いていけば和の心に辿り着くそうです。
そんな時代から今も受け継がれている和の心、
あっぱれとしかいいようがありませんね!!
今回出雲大社に触れ、色々と調べたことで自分の中でかなりの部分が
クリアになりました!
私のド下手な説明でますます混乱された方には申し訳ありませんが(笑
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