●感動編●

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●涙の一万円札

※「感動する話、泣ける話」より転載

『小さなお金』

昔くだらない男にひっかかってしまった。
親の言う事も聞かずまわりも見えず、
待っていたのは暴力と執拗なストーカー行為だった。

色々あり地元を離れる事になった時に、
運転する私を 危ないからと、
母が途中まで車に乗って一緒にいてくれた。
ある駅で母を降ろし見送る時に、

小さく畳んだ一万円を私に握らせた。
父は会社が倒産をし、お金に余裕なんてなかったのに、
こんな馬鹿娘の為に大切な一万円をくれた。

引っ越し先に向かう車内、
自分が情けない事や、また親の優しさが身に染みて沢山泣いた...

今でも忘れない親の優しさ...

ありがとう、お母さん...

●お母さんへ

※「感動する話、泣ける話」より転載

『お母さんへ』 

私は19歳、会社員。
中部地方の都市に住んでます。
実家は九州の田舎で両親は健在です。

私の家はあまり裕福ではありませんでしたが私は何不自由無く育てて貰いました。
幼い頃から父は家族に内緒で借金を繰り返し、家庭はボロボロでした。
それでも母は私達のために父と別れず、昼も夜も働き精神的にも病んでいました。
そんな母がいつも言っていた言葉...「あんた達がおるけん頑張れるたい」
と言いながら借金を繰り返す父を見捨てず私達を育ててくれた母。
私は幼いながらずっと母を守って行こうと心に思っていました。

そんな私も高校卒業が近づき就職することになり、
田舎では仕事もなく、悩んだ末に中部地方に就職することに決まり、母に伝えました。

それから半年…引っ越しの準備をしている頃、
幼い頃から親しい近所のおばさんと道端で偶然会い、立ち話をしていると…
「あなたのお母さん、あなたの就職が決まったって泣きながら電話で喜んでたよ」
と聞きました。

出発の日、空港までの車中はとても静かで
ラジオからケツメイシの「さくら」が流れていました。
シンミリとした車内…母はいつもどうりの様子でした。
空港に到着し、コーヒーを飲み少し話をしていると飛行機の時間になり、
私は手荷物検査を終え出発ロビーへ行き、母はガラス越しに笑っていました。
そして、飛行機の搭乗時間になり、乗り込もうと荷物を持ち振り返ると、
私の前では泣かない母が泣きながら手を降っていました。

私はこぼれそうな涙を押え笑って手を振りました。
通路を通り、飛行機の座席に着いた途端に
押えてたものが溢れ涙が止まらず頭の中は母との幼い頃の思い出が駆け巡りました。
「お母さんごめん。いっぱい稼いで楽させてやるからな」と心に誓い、私は飛び立ちました。

それから一年…私は結婚して、一児の父になりました...

※「感動する話、泣ける話」より転載

『そんなに感謝しないで』

五年前の話です。

私は、海に投げ出された行方不明者7人を捜索している仕事に参加しました。
6人は遺体で見つかりましたが、どうしても、あと1人見つける事が出来ませんでした。
捜索も打ち切りになり、家族の方々に申し訳ない気持ちで一杯だった私ですが、
家族の方々は、「最後まで捜索ありがとうございました...」と言っていただきました。

私は涙が止まらなくなりました。
7人とも生きて見つける事もできず、1人は最後まで見つからなかった。
それなのに、家族の方々は私達に感謝して、ありがとうといってくれました。
こちらこそありがとうございました。

今でも鮮明な私の思い出です...

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※「感動する話、泣ける話」より転載

『沖縄に永久(とわ)に眠る貴方へ』 

貴方と縁あり菅野の人になったのは昭和7年の10月9日でした。
そして、お別れしたのが昭和19年6月14日の朝4時、2人の子を連れ神社までの見送りでした。
そして貴方は、背中の子の頭を撫でながら「お父さんが帰るまで大きくなっておれよ」
の言葉を最後の言葉として自転車で出征して行きました。

夕方、兄が主なき自転車を持って来てくれた時、
私にはもう生きては帰る事のないと心にピンと来ました。
それから私の務めと思い昼夜働き、家や子供の心配をしている貴方に
一日置に日記を書き送り続けました。

昭和20年1月15日
干柿を紙に包み局まで持って行きました。
3月15日に便りあり、「柿を有難う。故郷のゆかしき風味を味わう事が出来非常に嬉しい。
どうか3人の子を真面目な子に育てて欲しい。
どんなに借金をしても構わない。
自分が帰ったら働いて払うからどうか怪我や病気をしない様に育ててくれ。
宜しく頼む。 戦場の夫より 愛しき妻へ」と最後の便りとなりました。

それから戦は激しく6月14日に沖縄戦は終わりました。
戦は終わり54年の月が流れました。
今日ここに貴方の子、孫、曾孫、妹達を連れてお墓参りに参りました。

私にとってはもう最終となります。
そして最後のお願いがあります。
それは貴方の命がたゆる日に私を迎えに来て頂きたい。
何卒それだけが私の願いで今でも待って居ります。
今はもう、私の務めも終わりました。
貴方は何時も私達を見守り助けてくれて居るのを知っております。
唯、感謝しております。
子も孫も立派になりました。
見て下さい。

何かと下手な字で書きましたがこれでペンを置きます。
どうか安らかにお休み下さい。
これは31才から86才の今日まで、自分の歩んで来た思い出の一部です。
笑わないで下さい。
自分としても恥ずかしいのですが沖縄に永久に眠る主人 征夫様に贈る言葉です。

貴方に生きる
妻 貞江より 平成10年11月4日

●母のお弁当

※「感動する話、泣ける話」より転載

『母のお弁当』 

私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、
母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。

友達に見られるのが恥ずかしくて、
毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた...

ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。
私は生返事でそのまま高校へ行き、こっそり中身を確認した。
すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし彩りも悪いし、
とても食べられなかった。

家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。
私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので
「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」と
ついきつく言ってしまった。

母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。

それから半年後、母は死んだ。
私の知らない病気だった。

母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。
中を見ると弁当のことばかり書いていた。
「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」
日記はあの日で終わっていた。
「今日は〇〇の好きな海老を入れた。
相変わらず体が思うように動かなくてぐちゃぐちゃになったけど…喜んでくれると良いな...」

何で食べてあげなかったんだろう…今でも後悔と情けなさで涙が止まらない。


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