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 風邪をひいてしまいました。

 毎日、ハナミズがずるずる。

 5分おきにハナをかんでいます。



 でも、ふしぎじゃありません?

 ハナミズってどこから来るんでしょう。

 
 鼻の中に、こんなにたくさんのズルズルがたまっているとは思えません。

 じゃあ、どこにいるんだ?



 体中をハナミズがかけまわって、鼻に集結するのでしょうか。

 それは、キタナイ。


 じゃあ一体、どこからくるの?

 疑問に感じませんか?




 ハナミズって、バイキンの死骸ですよね。

 それと、バイキンと戦って死んでくれた、白血球の死骸。


 でも、それがこんなにたくさんあるなんて!

 びっくりじゃありません?



 バイキンの死骸はともかく、戦ってくれた免疫細胞たち。

 その死骸だけで、毎日、どれだけのティッシュを使ったことか!


 え〜、あんなにいたの?

 と、またびっくり!




 免疫細胞の中には、キラー細胞という、やり手の殺し屋みたいな名前の細胞や、ヘルパー細胞なんて、いかにもお手伝いってカンジの名前の細胞があります。


 好中球なんて、丸っこいバイキンちゃんが大好きそうな細胞とか、ナチュラルキラー細胞なんていう、生まれついてのやくざな殺し屋細胞もいます。



 そんないろいろな免疫細胞が一致団結して、風邪のバイキンを殺してくれた。

 そのソウゼツな戦いの残骸がハナミズなんだって知っていました?



 ほかにもいっぱい、免疫にかかわる細胞がいて、みんなが協力し合って戦ってくれる。

 なんか、ありがたいと思いません?


 その免疫ちゃんがいるお陰で、インフルエンザもやっつけられる。

 自分の中にいる免疫ちゃんに感謝しましょう!




 ほんとに、ハナミズはいっぱい出たんだから!


 ほんとに、免疫ちゃんは、いっぱい死んでくれたってことだよね。




 こうやって、自分の体のこと、たまには考えてみませんか?


 子供と一緒に、免疫細胞の名前を調べてみるとか、どうしてお腹が空くんだろう(そんな歌があったっけ)とか、身体の不思議を見つけてみて!


 そうするうちに、好き嫌いをしていると、身体の調子が上手く働かなくなるとか、ダイエットしていると栄養が足りなくなって、脳にも栄養がいかなくなるとか、自分が調べた結果から結論を導きだせると思う。




 冬休みにはぜひ、子供と一緒に身体の不思議を探検してみて!


 そのことによって、子供たちは自分が生きている実感を感じられると思うから。


 自分が生きていると実感できれば、命を大切にするだろうし、生きている時間をていねいにつむぐことができるかもしれない。


 食事の大切さを説くまでもなく、自分の「命のかて」として、食事をきちんとするようになるかもしれない。



 まずは自分の身体の仕組みを知ること。


 そして、自分には、命があるということを体得することが、子供の命を守るということだと思う。




 ハナミズずるずる、けっこう。

 オナラがぶーぶーもけっこう。

 それは、みんなが生きてるしるし。


 ハナミズを5分ごとにかみながら、ちょっくら「あ〜、生きてるんだな〜」と、しみじみ感じたお話でした。

地球温暖化防止条約

 地球温暖化の会議に日本の経済界の大物が続々詰め掛けているという。

 
 日本ばかりが排出枠を多く示して、損をすることが無いようにと。



 日本ばかりが損をして、他の国が損をしないのはおかしい。


 他の国が損をしないなら、日本も損することないじゃない。


 という意見のように聞こえる。


 これってどう思います?



 確かに省エネの製品を作ることは大変だし、価格も高くなるので消費者に受け入れられるのは大変だと思う。


 利益を追求しなくてはならない企業としてはデメリットになるだろう。


 けれども、今やろうとしていることは、自分たちの地球を守ること。


 決して他人事ではないはずだ。


 というよりも、自分たちの命の問題でもあるはずだ。


 地球が壊れてしまえば、自分だって生きていかれない。


 そこがわかっていないのだろうか。



 地球が病めば、人間さえも生きてはいけない。


 必死になって守ろうとしなくてはならないと思う。


 それとも、そんな未来の話より、今の利益の方が問題なのだろうか。



 経営者たるもの、利益の追求が絶対だということはわかる。


 けれども、そんな自分たちの利益の追求と、地球を救うことを秤にかけてもいいのだろうか。


 まして、利益の追求を優先させてもいいのだろうか。


 決定に参加しないアメリカや中国の方が問題なのはわかっている。


 けれども、率先してがんばりましょうという国がなかったら、この話はすすまないと思う。


 「損な条件を飲んでは困る」と、わざわざ言いに行くなんて恥ずかしくはないのだろうか。


 こんな考え方をしていいのだろうか。




 これでは子供を叱ることができないではないか。


 悪いことを叱った時、「あの子もやっているのに、私ばかり叱られるのはおかしい。あの子が悪いことをやめれば私もやめるけれど、あの子がやるなら、私も損だから、悪いことをやめない」そう反論されても仕方ない。


 それとこれとは別だというかもしれないが、根本的な考え方は同じだと思う。



 そこには自分だけが率先して良いことを行うのは損だという思いがある。


 悪いことを辞めるなら、みんなが平等でなければ損をする。


 自分だけ良いことをしても、人が悪いことをしているなら、損をする。


 損をしてまで、良いことをする必要はない。


 そういう風に感じられるのは私だけだろうか。




 「いじめはいけません。」


 「でも、あの子もやっている。あの子が辞めないから私もやめない。」


 そういわれたとき、なんと答えたらいいのだ。



 子供に、孫に、「だっておとうさんやおじいちゃんだってそうじゃない。


 アメリカや中国が参加しないのに日本ばかりががんばるのは損だって言ってたじゃない。」と言われたら、返す言葉はあるのだろうか。



 そんな大人ばかりの国の子供がどうして、自分の利益よりも人のことを優先させて生きることができるだろうか。


 自分が率先していいことをしようなどと思えるだろうか。





 率先して行う。


 この考えがないから、核の問題もすすまないのではないだろうか。




 損をしても率先して行う。


 その考えを持たない大人に、子供の教育は行えない。


 なぜなら子供に正しい道を示せないから。


 毎日テレビでそんな大人ばかりを見ている子供をどう教育したらいいのだろう。




 たしかに環境問題は自分たちに直接関係があるようには思えない。


 オゾンホールが大きくなったといわれても実感はない。


 それよりもまず、儲かることが優先だ。


 けれどもそうやって、誰も考えないできたからこそ、ここまで深刻な問題になってしまったのではないのだろうか。


 もう手遅れかもしれない。



 漁業や農業など、直接自然と向き合って生活している人々は、とっくに温暖化の影響を実感していることだろう。


 けれども、だからといって、ごみの分別に真剣になるとか、エアコンの設定を変えるとか、努力している人がどれくらいいるだろうか。



 環境問題とは実際の所、実際の生活とは結びつかない。


 そんな中で、経済界の大物だけを責める訳には行かないかもしれない。


 でも、そんな中だからこそ、日本を引っ張っている彼らにリーダーシップを発揮してもらって、率先してやって欲しいと思う。


 そもそも環境の悪化とは、経済の進歩と対になって進んできた。


 切っても切れない関係があるはずだ。


 ならば、経済界が率先して、地球を守ることに知恵をしぼれば、これ以上の悪化を食い止めることができるかもしれないではないだろうか。


 そしてそれが経済界の義務ではないだろうか。


 そうすることによって、それは、子供たちの未来を守ることにもなる。



 
 未来のために、損することもいとわずにがんばる大人を見たとき、子供は自分たちの生き方を見出すことができるだろう。


 そして、損をしてでもいいことは率先してやるという姿勢を学ぶだろう。


 そういう大人の背中を見せることが、子供の教育には必要なのだと私は思う。




 教育は学校で教えられるものではない。


 大人たちがその生き様を見せることによって、はじめて可能になるのだ。


 経済界の大物も、家に帰って子供や孫たちに弁解しなくてすむような、そんな「潔い(いさぎよい)」姿を見せて欲しいと思う。


 ついでに、政治家もね・・・

 いじめで子供がなく亡くなりましたね。

 たしか、数ヶ月前にも似たような事件があったと思います。


 友達を死に追いやった子供たちは、暴行を加えている間、何も感じなかったのでしょうか。

 相手がだんだんぐったりしてきたとき、「あれ、だいじょうぶかな?」と不安になったりしなかったのでしょうか。

 
 こういう事件が最近多いですね。

 暴行を加え続けて死なせてしまう。

 本人は相手がまさか死んでしまうとは思っていなかったのだと思います。


 けれども、相手を殴るとかって、結構勇気が要りませんか。

 相手も人間なのですから。

 何度も何度も叩いている間、彼らはどんな気持ちだったのでしょう。


 一発目を当てる時、彼らが勇気をふりしぼったのかどうかはわかりませんが、一発目をくらって、ひるむなりよろめくなりした相手に、さらにパンチを加えるのには、それなりの勇気が必要だったのではないでしょうか。


 勇気というよりも、むしろ、気分の高揚なのかもしれませんけど。


 相手をやっつけているのは自分なのだという全能感なのか、相手が弱く見えて優越感を覚えたのか、もしくはゲームで戦っている時のような達成感があったのどうかはかりませんが、なにか気分の高揚があったのだと思います。


 けれど、その高揚感のままに暴力を続ければ、当然今回のような結果が待ち受けています。



 ここで疑問なのですが、あの子供たちの脳には、その昂り(たかまり)すぎた高揚感を沈める働きはなかったのでしょうか。


 心のどこかで感じる、冷静な判断力を、少しも持ち合わせていなかったというのでしょうか。


 たしかに、一度興奮すると、気持ちのサーモスタッドが切れない子供たちだったのかもしれません。


 サーモスタッドの役目をしているのは脳の前のほうなのですが、そこに障害があるとキレやすくなることがわかっています。




 けれども、それはあの子供たちばかりではありません。


 最近、増えてきている、年とった親子同士の虐待や、母親や父親の幼児虐待。


 それが全部、脳の機能のせいだとは言いませんが、そういう人が増えてきていることは事実です。


 脳のその部分は、自分をコントロールしたり、物事の全体像を把握したり、指令を出したりして、主に考えを統合する働きがあります。


 もしかしたら、最近はあまり心の教育に重点が置かれなくなっているので、その部分の脳の生育を促せていなかったのかもしれません。




 けれども、重い病気でない限り、脳はいつでも変化します。


 小さいときから少しずつ、教育と愛情を持って育てていけば、その脳の神経も上手く働くようになるのではないでしょうか。



 心を育てるということが、脳の発達を助け、子供の人格を豊かにすることにつながります。


 ぜひ、勉強ができる賢い脳に育てることばかり目指さないで、人間として豊かな判断力を持った脳を育てることにも心をくだいてくださし。
 
 

子育て 3

 犯罪者の生い立ちから子育てを考える最後です。

 市橋容疑者、酒井法子と続いたら、最後は押尾学と高相でしょうか。

 さて、この二人の悲劇は何だと思いますか。


 そう、この二人の両親が犯したであろう子育ての過ちは、甘やかしすぎたことでした。


 二人とも、自由に青春時代を過ごしています。

 親が裕福だったということもあるでしょう。

 うらやましいくらいなのですが、それが二人の人生に影を落とします。


 二人の親は、彼らに自由を与えましたが、それは本当の自由と呼べるものだったのでしょうか。

 彼らが与えられていたのは、好き勝手に生きていいという、暗黙の了解だけだったのではないでしょうか。

 
 別に干渉しないから、やりたいようにやりなさい。

 一見、自由を子供に与える、話のわかる親のように思えます。

 懐が広いとでもいうのでしょうか。


 けれども、その実、彼らの親は、子供に関心がなかったのではないでしょうか。

 関心がないというのが言いすぎならば、忙しくて、子供にかまっている暇はなかった。


 それでも言いすぎだと言うのなら、自分の生活にかまけて、子供のことはつい後回しにしてしまった。

 もしくは、子供を信じて、その自主性に任せていた。



 私たちも、多かれ少なかれ、忙しさにかまけて、つい子供のことを後回しにしがちです。

 自由にやっていいよ、と言うのは聞こえがいいのですが、実は、かまってやれなかっただけかもしれません。


 お金があればなおさらでしょう。

 お金を渡して、「お前を信じているから」と任せれば、責任転嫁はできるし、かまわずにいられるし、楽なのではないでしょうか。


 多分、二人の親たちも、そうだったのだと思います。

 「やりたいことをやっていいよ」


 それが親の懐の広さだと思い込んでいたのだと思います。

 そして、自由にやっていれば、締め付けるより、子供は楽に自分の人生を生きられるだろうとも思っていたはずです。



 たしかに、ふたりとも、あの年まで自由に生きてこられたかもしれません。

 けれども、その自由とは、何でもやっていい自由、モラルさえ気にしないくらいの自由だったのではないでしょうか。


 それどころか、もしかしたら、モラルなど、彼らの中には構築されてさえいなかったのかもしれません。

 なにしろ彼らは、自由に育てられ、何にも束縛されることがなかったのですから。


 多分、親が手取り、足取り、「道徳」をおしえることもなかったでしょう。

 ただ、一緒にいて、楽しみを共有してきただけの親子だったのかもしれません。

 そして彼らは、それをオープンな親子関係だと思っていたのかもしれません。



 自由でオープン。

 聞こえの良い言葉です。


 けれども、その言葉は裏返すと、放任で無関心と言うことにもつながります。

 親は親で楽しむから、子供も子供でやりなさい。


 こんな親子が最近増えてきているように思えます。

 親には親の人生があり、それを子供のために左右されることは好まない。


 その代わり、子供の人生にも、干渉することはしないでおこう。

 こんな親子が、親子の新しいあり方として、もてはやされてもいます。


 
 けれども、どういう考え方をしてとしても、親子は親子と言う絆から離れることはできないのです。

 親は子供をこの世に送り出したのだから、責任があります。


 子供は子供で、もの心が付くまで、親の庇護がなければ生きられません。

 いくら子供に自由を与えても、責任のない自由では、子供の人生を守れないのです。



 本当の自由とは子供の人生を守るためにあります。

 子供が過ちを犯さないように、道に迷いすぎて、自分を見失ってしまうことがないように、目を離さずに見守っている必要があるのです。


 一つ一つの価値観を育て、その価値観に基づいて自分の人生をコントロールできるように、正しい価値観を指し示す必要があるのです。

 そして、指し示したあとは、子供の自主性に任せ、その価値観を自分なりにアレンジしていくのを見守るのです。


 あれこれ口出ししない、けれども、間違えたときには、きっぱりと叱る。

 それが本当に自由を与えると言うことでないでしょうか。



 自由とは自己の責任の中で、自己を全うするべく、自己の力を100パーセント発揮できる環境にあることです。

 何でもやっていいとか、何者にも拘束されない生き方とか。そういうことではありません。


 彼らは勘違いの自由のせいで、犯罪者という、自由と最もかけ離れた人生を歩むことになってしまいました。

 今、彼らの親は、犯罪者となった息子を見て、何を考えているのでしょう。


 与えた自由の重みに押しつぶされそうになっているのでしょうか。

 それとも、帰ってきた息子を自由にさせてやろうと、相変わらず勘違いを続けているのでしょうか。



 罪を罪としてきちんと認識できる心を取り戻せるように力を貸すことこそ、これからの息子たちの人生には大切なのではないでしょうか。


 そして、罪と罰を自分自身の価値観として認識できるようになった時、はじめて彼らは本当の自由を手に入れられるのだと思います。


 モラルの中で安心して生きる自由を。

 

 前の記事で、市橋容疑者は親に期待されすぎてしまったのではと書きました。
 http://blogs.yahoo.co.jp/nggjb060/30628886.html
 
 「親には頼りたくないので連絡をしないで欲しい」という言葉に、親との確執がうかがえます。


 ところで、酒井法子の場合はどうだったのでしょう。

 ここに対比させてみました。


 ノリピーは2歳で母親に捨てられました。

 母親は、刑務所に入った夫に愛想を尽かし、男を作って出て行ったそうです。

 その後親戚の家に引き取られ、次に父親が再婚したので再び父と同居します。

 けれども数年でその人とも離婚した父親は、今の母親と再婚します。


 親の都合であちこち引き取られ、母親の愛情を知らずに育ったノリピー。

 彼女には規範となるべき、親の背中がなかったのではないでしょうか。


 市橋容疑者には、医者である両親の、壁のように立ちふさがる大きな背中がありました。

 それはそれで、乗り越えられずに、市橋容疑者は犯罪者になってしまいました。

 一方、ノリピーが見ていたものは、自分の感情に左右され、勝手な行動を続ける父親と、その父親に振り回される、女として生きる母親たちの姿です。


 そんなノリピーが、子供のいる部屋でクスリをやり、夜中に子供を残して夫婦で遊びに行ってしまうのは、当然の行為だったのかもしれません。 

 なにしろ、彼女には、親として見習うべきお手本がなかったのですから。


 自分が育てられた親の在りようは、とても真似できるものではありませんでした。

 彼女は気持ちではわかっていても、経験として親の姿を知らないので、ところどころ本能のままに動いてしまったのでしょう。



 動物園のサルも、母親が子育てをしたサルと、しなかったサルとでは、自分が母親になった時の態度が違います。

 母親が自分で乳を飲ませ、子育てをしたサルが大人になったとき、妊娠してからずっと自分が母親であるという自覚のもとに行動します。


 けれども、母親が子育てできず、人間に育てられたサルは、出産して自分の子供を見ても無関心で、お乳はおろか、抱こうともしません。

 親に育てられた記憶が、母親としてのDNAをよびさまし、自分のなすべきことを思い出させるということなのかもしれません。

 女性には生まれつき、母性本能が備わっていると思われていますが、そうでもないようです。



 母性本能は、子供が生まれ、少しずつ進化します。

 おっぱいを吸わせることにより、オキシトシンというホルモンが分泌され、それが女性を母親になるよう刺激します。

 子供の笑顔も、母親に保護を求めているようで、世話をしたくなるよう要求します。



 そうやって一日ごとに母親は、子供との相互作用のなかで、母親として成長していくのです。

 子供を生んだからといって、一足飛びに母親の自覚が生まれてくるのではありません。


 だから赤ちゃんは、生まれてから片時も、母親を放すまいと必死になって、泣いたり、微笑んだりして、絆を深めようとしているのではないでしょうか。

 世話をしてくれる人の名前をいち早く覚え、おぼつかない足でよちよちとその腕にたどり着こうとするのではないでしょうか。


 そのあまりのかわいらしさに、思わずほほずりをしたくなってしまうでしょう。

 そうやって、親子は少しずつ理解しあい、つながりあって、深い愛情を感じていきます。



 なんで泣いているのかわからずに、自分のほうが泣きそうになることも、何を欲しがっているのか見当が付かず、途方にくれてしまうことも、みんな、親子としてのみちすがら。

 そのさまざまなときを経て、親子は親子としての絆を結べるのではないでしょうか。


 言葉も使えない赤ん坊の要求が、親の心を育てます。

 そしてその手探りの親の世話が、子供の心に、親に対する信頼感を芽生えさせます。

 双方が係わり合いを重ねることで、親子は本当の親子になっていくのではないでしょうか。




 ノリピーは、その親子の日々の重ねあいを紡ぐことができませんでした。

 望んでも、与えてもらえうことはできませんでした。


 そんなノリピーは、母親であっても、母親としての心が育ってなかったのではないでしょうか。

 そのために、多くの母親が信じられない思いをした、「子供がいるのになぜ」という行動をしてしまったのかもしれません。



 親にまともに育ててもらえなかったであろうノリピーと、親が過剰に干渉しすぎてしまったであろう市橋容疑者。

 どちらも本当の悲劇は、親と上手くかかわりを持てずに成長してしまったことではないでしょうか。



 それほどまでに、子供を育てるということには責任があるのだと思います。


 
 親として、子供とうまくかかわって、その心を成長させるためには自覚が必要です。

 そして、その親の自覚を支えているのも、自分が育てられた親との係わり合いによるものなのです。



 子供を大切に思う心、子供を愛する心が大切なのはもちろんですが、子供の将来の生き方に、親の在りようが大きくかかわっているのだということを自覚したいと思います。

 そして、これからも緊張した子育てを続けたいと思います。

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