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原発事故のあと、福島市在住の友人の一人が、沖縄に妻子を避難させました。福島で仕事のある自分だけは残り、数ヶ月に一度は家族に会いに沖縄に行っていたようですが、昨日、その彼から電話をもらいました。家族離ればなれの生活が3年近くも続いたことで、経済的、精神的な負担が重なっていったようです。この3月末をもって避難生活を一旦切り上げ、奥さんと3人の子供たちを福島に呼び戻したとのことでした。
久しぶりに、福島での家族そろっての生活が再スタートし、気持ちの面で、だいぶ落ち着いた反面、今後どうしていくかについては、まだまだ彼自身の中でも、複雑な気持ちがあるようです。つまり、福島で子どもを育てるのに、放射線に対する不安やストレスが消えた訳ではなく、今回はあくまでも「やむを得ない一時的な判断」だったという訳です。 その彼の家庭に限らず、この春は、自分の身近でも、栃木県に母子避難していた知り合いの多くが、同様に福島に戻りました。それぞれの家庭の状況は少しずつ違うものの、やはり家族離ればなれの生活による経済的、精神的な負担には抗しきれず、悩みに悩んだ末に、福島に戻る判断をしている点は、皆、だいたい共通しているという印象があります。 福島市などの地域では、生活環境で受ける現状の外部被曝線量と健康への影響に関しては、国や県、県立医大などの示している公式見解では「健康への影響はない」もしくは「考えられない」とされています。ところが、この公式見解に対する住民の不信や疑念は、3年経ってかなり薄れた印象はあるものの、まだ一部には根強く残っています。最近でも、原発作業員の被曝線量が過小評価されていたことが報道されたりして、そのたびに「国や行政は相変わらず事実を隠蔽している」「住民の健康より福島の復興を優先させようと情報操作している」という悪印象を増幅させているような気がします。そもそも、絶対に起こらないと言われていた原発事故による放射能汚染が起きてしまって、それだけでも住民にとっては、国や行政に裏切られたという思いを強くしたので、さらに、こうした誤解を招くような情報操作に対しては、少なからぬ住民が物凄く敏感になっているのは当然なことです。 結局のところ、こうした国や行政が発する「公式見解」に対して住民が抱く強い不信と疑念を、どうしても払拭できないとなると、国や行政が何を言おうが、信じられるのは自分であり、自分たちの身を守るために、自分で情報を集め、自分の頭で考え、自分で判断し、自分で行動するしかなくなります。国による避難指示対象地域外から避難した、いわゆる自主避難者は、基本的にこの考え方に従って行動している訳です。これは、そのこと自体の是非という問題ではなく、今回の原発事故に関しては、一部とは言え、住民自身がそういう判断、行動をせざるを得ない「本来的でない状況」を生み、さらにその状況が、半ば「無為無策のまま」継続していることの方が、より本質的に問題だろうと自分は考えています。 そもそも、どこに住むか、どこで生活するかを自分で決められる権利、いわゆる「居住移転の自由」は、日本国憲法第22条で定められる基本的人権の一つです。福島市などの現状の外部被曝線量と健康影響(いわゆる「低線量被曝」の問題)について、国や県、市が提供する情報をどう解釈するか、その結果、自分が福島に住むかどうかを、自分で決められる権利を侵害されてはならないのは、この「居住移転の自由」の考えから言えば、当然です。 その意味から言えば、自主避難は住民にとって当然の権利なのですが、そのために生じる様々な経済的負担に対して、国や行政がどこまで責任を持つかという点が、自主避難に関しては、これまで主な論点になってきました。結論から言えば、国の避難指示による強制避難については、明らかに「居住移転の自由」が侵害された状態であるから、国としてその保障をしなければならないが、避難区域外からの避難についても、「原発事故によって生じた放射線への不安という外的要因によって、居住移転の自由が侵害されている状態」との解釈から、やはり保障の対象に加えられ、強制避難の場合とは明らかに金額差はあるものの、例えば実際に自主避難したか否かに関わらず支払われた「自主的避難等対象区域」住民への保障とか、避難先自治体を通じての家賃補助、あるいは高速道路料金の無料措置などの形で、直接または間接に保障の対象になりました。 ところが、その保障内容は、自主避難者に関しては、必ずしも実際の避難生活に伴う負担の全体を保障するものではなく、しかも継続性がありません。例えば、栃木県に自主避難している我が家の場合も、今のところ栃木県を通じて家賃補助は受けていますが、あくまで期限付きです。しかも光熱水費は保障されておらず、福島の家とアパートの二重負担をしています。また、福島と栃木の間を月に2回ほど往来していますが、昨年から高速道路料金などの補助は始まったものの、ガソリン代までは保障されていません。先に紹介した妻子を沖縄に避難させた友人のように、飛行機で避難先と往来する場合も、飛行機代までは保障されていません。 やはり、今回の原発事故に伴う住民の避難は、強制避難であっても自主避難であっても、避難先との距離や往来頻度、家族構成など、避難生活の形態があまりにも多種多様であるために、基本的人権としての「居住移転の自由」の侵害への保障の必要性について、どこまで解釈を広げるかの客観的基準が難しく、また解釈や基本的な考え方も人それぞれであり、議論も困難で、結論が出にくい問題ばかりだということです。結果的に、事故の翌年に制定された「子ども・被災者支援法」など、自主避難者を含めた原発事故に伴う被災者や避難者への支援の大枠だけは作られたものの、その具体的な運用をめぐる議論は、国レベルでも一向に進まず、半ば放置されてしまっているために、避難者自身の経済的負担が増大して、そのまま時間切れアウトになってしまった・・。そのような状況と言えます。 もちろん、「居住移転の自由」は憲法で保障される権利であるとは言え、そもそも無制限に拡大解釈されるものではない、という考え方もあります。結局のところ、権利は権利としてありながらも、この社会の鉄則として、「外的要因によって不本意な形で憲法で保障されている権利が侵害されても、最後の最後は自己責任にならざるを得ない」という見えない不文律が、この社会では、暗黙の了解として罷り通ってしまっているのが現実です。他ならぬ避難者自身も、そのことを良く認識していて、今後は自分たちの生活、人生を「最後の最後は、自己責任」と捉え、考え、行動していくことにならざるを得ないでしょう。 先に紹介した、悩みに悩んだ末に避難先の沖縄から妻子を呼び戻した友人と、今度は電話でなく、実際に会ってゆっくり話そうと約束しました。3年が過ぎた今、本当に必要だと思うのは、国や行政による保障よりも、そうした当事者同士の対話の中で「物事の本質、国民の権利と自由の問題の本質を、当事者自身の力で、ゆっくりと時間をかけて、共に探していく努力」だろうと考えています。 |
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