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大震災と原発事故のあと、ネット空間で、様々な情報や、多くの人の思い、考えに触れて、自分自身も様々に思ったり、考えたりしてきましたが、これほどまでに「思わされ」、「考えさせられ」たものはない・・という、サイト記事があります。
「今日は2011年3月10日かもしれない」 http://20110310.nezihiko.com/ 東日本大震災前日のTwitterをまとめたこの記事は、実際に大変な反響があったようで、あらためて「防災」とは何か、我々にとっての「日常」とは何か、その「日常」が、どのようにして壊れるものなのかなど、深く考えさせられます。 自分自身の「2011年3月10日」は、いつものように仕事をし、いつものように家族のもとへ帰り、いつものように家族と夕べの団らんをしていました。後から考えれば、その数日前から、東北地方では、たびたび大きな地震がありました。しかし、それが、あれほどまでの大災害になり、果ては、未曾有の原発事故まで引き起こしてしまうとは、まったく想像もしていませんでした。恐らく、多くの人にとって同じ思いでしょう。 そして、あの日、誰もが、突然に、今まで体験したことのない極端な事態に遭遇して、混乱し、パニックに陥り、文字通り、とにかく生きるために必死になりました。 数日から1、2週間ほど経って、少し落ち着いた頃に、「なぜ、自分がこんな目に遭っているのだろう・・?」と、それまでの「日常」と「非日常」を冷静に見比べながら、何とも不思議な気分になりました。 数週間から数ヶ月ほど経って、突然に壊れてしまった「日常」が、どうやら、決して元の「日常」には戻らないことが、徐々に分かってきました。むしろ、突然に襲ってきた「非日常」の方が、新たな「日常」として、我々の目前に君臨しようとしていることが、次第に明確になってきて、我々は暗澹たる気持ちになりました。 それでも、人間というのは「日常」を「日常」として受け入れ、そこに「安心」を求めようとします。たとえ、喉に刺さった小骨のように、忘れかけていた現実を、時々は思い出したり、暗く悲しい気持ちになったとしても、毎日そのことばかりを考えていたのでは、辛いし、居たたまれなくなります。日々の当たり前の「日常」の中では、意識的、無意識的に、目の前の現実から目をそらし、なるべく「あの日、あの時」のことを、心の片隅に追いやろうとします。 もちろん「まだ、3年しか経っていないのに・・」という思いもあります。でも、やはり、それが人情なのだろうと思うのです。 しかし、それでも、想像し得ない、飛んでもない「非日常」が、いつ、また、自分の「日常」に襲いかかってくるか分からない、という覚悟だけは、心のどこかに留め置いておきたいと思っています。 その意味で、この「今日は2011年3月10日かもしれない」の発想は、とかく目の前の「日常」に埋没して忘れがちな「非日常」の現実を、時々は思い出したり、あるいは、「その時」のために必要な「覚悟」を、自分自身の中で探っていく重要なきっかけになるような気がします。 |

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