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別に今に始まった訳でもありませんが、原発事故のあと、しばらく経った頃から、周りと違うことを言うと、明らかに疎外されている感覚と言うかプレッシャーを感じています。
それは、例えば、自分が心の中で思っていることや、感じていることを、あえて口に出して言えない「雰囲気」であったり、身近な人間関係の中で何気なく話題に上る事柄の「ニュアンス」であったり・・。とにかく、ハッキリとは見えない形で、でも確実に、個人が所属する集団や地域内で、多数意見に反対せず、大勢に迎合することを暗に強いるような「何か」です。 それを、あえて「同調圧力」と呼ぶとしましょう。世の中には、それを敏感に感じる人と、そうでない人がいて、その感じ方は千差万別です。「同調圧力」を感じない、もしくは感じにくい人にとっては、それを感じやすい人が発する多数意見と異なる意見は、とかく「厄介な意見」と受け取られやすいと思います。場合のよっては「大袈裟」「被害妄想」「協調性がない」といった評価が下されることもあるでしょう。 そうした評価が具体的な言葉を伴って、集団や地域の名を借りて発せられたとき、それまで見えなかった「同調圧力」は、ハッキリと目に見える形となり、個人の言動に対する「抑制」となります。その先にあるのは、言うまでもなく「言論統制」です。 仮に、集団や地域の中での見えない「同調圧力」が現にあったとしても、それが社会全体の「言論統制」にまでつながる動きはないと、多くの人は思っているのでしょう。しかし、間違いなく、そうした動きはあると、私は思っていましたし、今回の「美味しんぼ」問題の経過を見るなかで、その思いは確信に変わったのです。 さて、当面のことを言えば、恐らく、我が家のような「自主避難者」に対する風当たりは、益々強まると思っています。ただでさえ、「自主避難者の存在自体が、風評被害」と言わんばかりの見えない「同調圧力」が、かなり以前からありましたから・・。 もし、仮に、制度的、経済的、あるいは精神的に「もう、これ以上、自主避難は続けられない」となったら、止めざるを得ないと思っています。ただし、それが、即「福島県民を止める」ことになるかどうかまでは、まだ結論が出ていません。 |
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