グッバイ! かると。

ブログ初心者。気軽に読んでくらはい。

全体表示

[ リスト ]

 
教会から離れてはや4年が経過。

かなり安定した日々。


この安定した日々は、決して教会に通っていては得られなかった。


当然。


カルトだから。  ビジネス化した教会だから。  権威主義だから。


そこには命はなく、あるのはカリスマ。


その魅力に取り付かれ、共感する人達の集まり。


当時、教会には、野心家が多かった。


というのは、ビジネスでの成功、祝福を求めている人がほとんど。

彼らは、イエスキリストの福音のため、という大義名分でもって、世で認められることを

望んでいた。


広告塔がかならずいるし、広告塔を利用する。


「あの有名人、クリスチャンなんだよ。」


POWER FOR LIVING。 流行りました。

みんな利用。

もう聖書を紹介することなく、POWER FOR LIVING。

自信がないんだよ。 自分が信じている方に。


キリストを信じるものが、地の塩となることの曲解。


霊的?   

くそっくらえです。  いりません。


イエスキリストの十字架が、自分を罪から解放し、救ってくださった。

それだけで十分です。





あの時。

霊的でもなく、とりなしの祈りでもなく、自分を助けてくれたのは、

親身になった人なんです。



「とりなしているよ。 祈ってるよ。」

偽善。 何の助けにもならない。

本当に助けになるのは、そんな報告より、聞きたくない言葉。厳しい言葉。

その時必要だけど、言うと傷つくかもしれないような言葉。その時限りではなく、

その「言葉」に責任を持ち続けてくれる「人」




誤解しないでほしい。


いや誤解してもいいか。別に。


長い期間、ずっと、とことん。

話が通じない人達と、理解し、話を聞き、厳しい言葉をかけることほど、

大変なことはない。

本当に大変なことだと思います。



本当の病、心の傷、みんな病んでいる。

癒しは、人間を通される。


誤解しないでほしい。 いや誤解してもいい。別に。


「神様は 人を通して 表される」

ということが、本当に「わかった」というか、なんというか。

「人」だと思う。

「人」が癒すのではないけれど、人は人としか関われない。

話を聞いてくれるのは、その聞いてくれる「人」

手を握ってくれるのは、その手を握ってくれる「人」

共に泣けるのも、喜べるのも、怒るのも、「人」と共に。


「最終的に神様が癒されるんだ」

という、とってつけたような言葉はいらない。

全てだから。

そのうえで言う。



自分は決して、そのような、マザーテレサのような「人」にはなれない。

とても、「他人」のためにできない。

言いたくないことを言える「人」

聞きたくないことを、ずっと聞いてくれる「人」

本音で、より人間らしく、経験を、惜しみなく、隠さず、良い所も、悪い所も言ってくれる「人」

その「人達」に自分は支えられて、今があります。

「神様がその人達を導いた。」

というような、とってつけたような言葉はいらない。


すみません、人間賛歌ではないけれど。 深く考えてます。

わからない。そこまでできることが。「愛」ですか。

教会では、決して見れなかった。触れられなかった。




自分ができるところから、やってみる。

家族から。

閉じる コメント(8)

私も「人」を通して…を物凄く実感してます。
言葉だけの「愛」なんていらない。

「愛」って、誰かの為になにかすること。。
なんだと思いました。

本当に沢山の人に支えられて今がある。
そんな「人」、大切にしたいです。

うーん、私も上手く言えない

2010/5/7(金) 午前 1:56 [ ユコンブ ]

顔アイコン

ユコンブさん、来訪ありがとうございます。

お久ですね。

ユコンブさんのブログの記事、ユコンブさん世代からの目線、とても参考になります。

新しいお仕事がんばってね。

2010/5/9(日) 午後 4:16 ni_*u*a20*7

顔アイコン

本当に愛のある言葉=優しいだけの言葉じゃなく、相手を想う厳しい言葉だと私自身も感じました。

2010/5/9(日) 午後 9:48 [ KOYO ]

顔アイコン

私も、今、こうして愛おしい我が子を眺めて、この子が今ここにいるのは、私をあのカルト教会がいかにおかしいのか、危険なのかを教えてくれた人のおかげだと、痛烈に感じます。

人からこんなに愛情をかれられた経験はありません。

2010/5/10(月) 午後 7:51 [ ron ]

顔アイコン

KOYOさん、ご来訪ありがとうございます。

自分のいた教会では、人間関係が希薄です。「本当に愛のある言葉=優しいだけの言葉じゃなない」というのは、頭では理解しており、そして実践している、とさえ思っていました。

とんでもない。

自分がとても印象的だったことがあり、「問題のある人」と思われる人(これは教会目線。本当に問題があるのは・・と今では思う)を一旦、教会の幹部系、当然牧師夫婦・副牧師夫婦が受け入れる。しかし、彼らは絶対「難儀」なことはしない、深く関わらない。

「半年も関わった」「もう時がきた」「次の成長のために」

色々な理由を付けてかならず離れていく。

2010/5/10(月) 午後 10:02 ni_*u*a20*7

顔アイコン

「言葉」の責任を取れる環境ではない。そういう思考は廃れています。

やっかいな「問題」は、コントロール(支配)しやすい人達に丸投げ。 下手をすると、その丸投げされた人も、他の人に丸投げ。

どんな人も、「難儀」なこと、「厄介な問題」はいやなことです。もう、ある意味めちゃくちゃです。 助けたいけど助けられない。自分がコントロールされているから。でもそのコントロール下では気づけない。 「あれ? あれ?」と疑問に思いながらも、精神と体が極限状態まですり減らされている。

なぜか。 それは教会の目的が、「生かさず・殺さず」権威を振りかざして「やりたい放題」、信徒が「財源」だから。

奉仕させて、金を出させる。 「福音」という大義名分が後押ししています。

「させられている人」(当然そう思っていない本人は)は、厄介な問題に対処することは無理。「深く人と関われず」、それでいて、「愛」を語ります。「霊的」なことを言います。でも人間関係は希薄。「導き」と言って「人」から逃げ出します。

自分は今でも逃げ出します。

2010/5/10(月) 午後 10:21 ni_*u*a20*7

顔アイコン

言いたいことが山ほど浮かんできた。。コメント欄ではなく、今度記事にUPします。

2010/5/10(月) 午後 10:21 ni_*u*a20*7

顔アイコン

ronさん、ご来訪ありがとうございます。

自分が、その人の「愛情」を理解できたのは、ずっと後からでした。

はじめ、彼女は「やられている人・危険な人」と思っていましたから。

本当に「危険な人」(色んな意味で)は自分でした。

2010/5/10(月) 午後 10:24 ni_*u*a20*7


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事