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<ドイツへの避難>

このころからメラーノに残る邦人は、ベネチアや、コルティナ ダンペッツオに分散していた外交官と話し合いつつも、「どうしようか、どうしようか」とうろたえるばかりであった。

光延武官の殺害された頃、アメリカの重爆撃機がイタリアを空襲し、連合国軍がフランスのノルマンディーに上陸する。それまで決めあぐんでいた大人たちもようやく対策を決めた。そしてベネチアの日高大使は9月12日、大使館員の今後の対策を日本に打電した。

「自分と木内参事官、他二名はガルドーネに残る。幾人かはメラーノに移りベルリン大使館と接触、邦人のドイツへの疎開の世話を行う。他の館員と家族は早急にドイツに移動する。おそらくベルリンのドイツ大使館に向かうであろう。民間の不要不急の者はウィーン南方40キロのウォーフィングに(すでにイタリアからは幾人かの邦人が避難している)避難する。」

小野満春の言葉では「もうどうなってもドイツに逃げろ」と言うことになり、ベルリン郊外のメクレンブルクが彼らの避難先となった。このころすでにベルリンでは、不要不急の邦人はベルリン郊外にグループで疎開していた。

しかし間もなく、「メクレンブルクは止めて、ドレスデン近郊のケーニッヒシュタインに行け」という指令を受け取った。先回りするとこの変更は、移動距離は少し短くなったが、イタリア在住邦人にとってとても高いものについた。その後の日本に帰るまでの苦労が、実際メクレンブルクに避難したフランスなどからの引き揚げ邦人と比べて、格段と大きいものとなったからである。

こうして9月28日、小野家、光延家はメラーノを発ってドイツに向かう。今度は800キロの北上である。列車で越えた独伊の国境ブレネル峠は、9月というのにもう銀世界であった。

ドレスデンの駅で乗り換える間、駅のそばのホテル“ドイッチャーホーフ”で朝食を済ませると、満春は旺洋らと駅の近所を見物して、習いたてのドイツ語で一、二軒の店を冷やかした。子供は言葉を覚えるのが早かった。

その後ウィーン郊外ウォーフィングに避難していた元ローマ駐在者で、民間人を主体とするメンバーがケーニッヒシュタインに合流する。牧瀬一家がその中にいた。旺洋、小野満春、牧瀬満治の仲良し三人組が再会した。
10月1日にはベルリンの阿部勝雄中将が、嶋田元海相宛に光延一家の無事な避難を伝えた。光延一家に関してはベルリンの海軍武官室も常に気を配っていたようだ。翌日には5月にメラーノを訪れた鮫島通訳をケーニッヒシュタインに派遣した。

ベルリンからは大使館の人間も来て、今後についていろいろ相談して帰って行ったという。元ローマの大使館勤務者の内、家族持ちはすでにベルリンに転勤となっていたが、官民の優先か民間人はここケーニッヒシュタインに留まるようにということになった。

ドイツの敗戦を考慮しなくてはいけなくなってきた。ドイツの日本大使館の基本的考えは、外交官パスポートを持つものは、交戦国アメリカの保護に入る、一方多くの民間人は田舎に疎開し、そこでいまだ日本とは中立のソ連軍に保護され、日本に送り帰してもらうというものであった。よって西からは米英軍、東からはソ連軍が攻め込んでくる中、慎重にソ連が占領する地域を予測し、その中に避難地を探した。ケーニッヒシュタインもソ連軍の占領下にはいると予想したのであろう。

そしてこのグループには外務省の関係者が同行しないので、岩崎栄三菱イタリア支店長が臨時外務省職員として一行の代表を務めることになった。他にここに滞在することになるのは、以下のメンバーであった。

光延家族 (妻 子供4名)
小野七郎(妻 子供4名 七郎は翌年2月より合流) 女中 井上幸子
藤井歳男 (三菱)
渡辺俊夫 (三菱 妻 子供4名)
野上素一 大使館嘱託 (ハンガリー人妻マルキット、子供1名)
井上正 海軍書記生(三菱という記録もある) (妻 子供2名)
一色義寛 三井支店長 (妻)
内本實 テノール歌手
牧瀬せつ子 (子供3名) 女中 利田(かがた)千代
田村清生 (貿易斡旋所)
村田豊文 ウィーン大学客員教授 (妻 ローマ組ではない)
小西今太郎 (料理人、ローマ日本人会)

子供の多い避難グループであった。筆者が計算したところ18名になる。ちなみに1945年1月20日「在留邦人保護、避難及び引き揚げ関係 在独邦人名簿1945年1月20日」というドイツ大使館の作成した名簿には、井上正を除いてケーニッヒシュタインのイタリア組も含まれている。それによればドイツには欧州各国からの避難者を含め総勢542名の邦人が滞在し、内女性が97名、子供は男女合わせて78名であった。

ケーニッヒシュタインで子供達は地元ドイツの小学校に入った。このよう状況でも子供の教育が大事と親は考えたのであろう。旺洋らは五年生であったが、言葉の関係で二年生のクラスに入った。満春はメラーノでドイツ語を習っていたからそう困らなかった。しかし「(光延)旺洋ちゃんはまるっきり分からないから、僕と牧瀬君はその世話をするのに大変骨が折れた。」と日記に出ている。さらに

「町の東はずれに、この町に似合わぬ堂々たる墓地がある。そこに光延さんのおじさんと、牧瀬さんのおじさんと、もう一人ウィーンでジフテリアで死んだ守(マモル)ちゃんのお墓が出来た。三人のために石碑は一つだけど、立派なお墓だった。
(もう一人の犠牲者である)朝香さんの遺骨は未亡人と共に、(ベルリンの邦人避難場所)ノイルッピンに行った。」

これからの苦労が予想される避難行動を考えると、遺骨はいったん埋葬した方がよいと考えたのであろう。そして同地は戦後東ドイツに入り、入国すら困難となったが、ドイツが統一されて間もなくの1994年、ほぼ50年を経て、長女光延孝子さんが母トヨを連れて、その遺骨を引き取りに行った。

イメージ 1
1994年 孝子さんのケーニッヒシュタイン再訪時 このモルダル川の支流のほとりの丘にお墓はあった。

1945年の2月、一行はケーニッヒシュタインから8キロ離れたバード.シャンダウに移るよう勧められた。良いホテルが開いているからとのことであった。

日々情勢が悪くなってきた。3月12日にはドレスデンへの大空襲があった。そこでようやく3月15日、引っ越した。この避難生活はこれから少し続くのだが、少年満春の観察眼はなかなか鋭い。日記には

「大人たちは(バード.シャンダウ引っ越しに関し)小田原評定を繰り返し、ぐずぐずしていた」とか、後には
「けちん坊の団長(岩崎のこと)さんに隠れて、お父さんたちがこっそり渡した酒とたばこで反ドイツのチェコの国境を突破した。」などである。

そしてバード.シャンダウにも空襲警報が発令されては、地下室に逃げ込む生活になった。

第六部以上

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