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台湾の若者の留学は50−80年代は米国留学が断然多かった。卒業して修士号でも取ると、現地で2年 はtrainingを受ける資格がでて、そのまま滞在する学生が多いです。中国からの留学生は後発で80年 代から多くの米国、カナダ留学が増えてきて今では米国市民と中からノーベル賞を取る人物が でています。印度から今7万人、中国から6万人、韓国から3万人、日本からはぐっと落ちて 7000人、独からは3670人の数をみせています。印度や韓国からは中国への留学はほぼ ありませんが、日本はどうしてか中国に留学がかなりあるそうです。日本から中国へ留学すると、 教授が米国、カナダ留学から帰国した教授であったりするそうです。案外中国文化や歴史や芸術に 知識が薄い人が多くなったそうです。印度、中国、韓国が北米の専門学科を学び、この世代が緊密な 社会を作るかもしれません。今揉める日米同盟の日本政府の行方はどこなんでしょうか? 米国には少しのブレも無い様です。東アジア共同体も上べだけは賛成してくれます。だが、日本 からのODAだけが楽しみであるから賛成するはずです。鳩山氏は海外で日本を売り飛ばす会話を 平気でやっています。少し心配な日本留学生の気風であります。
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日米間の過去と将来
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真珠湾攻撃に参加した日本海軍潜水艦隊は3つのグループに分かれていました。第三潜水艦隊は途中で給油と食料補給を終えて、一路米国西海岸から出てくる米国海軍補給路の通商破壊に針路をとりました。
その一隻の艦長は戦争勃発前には石油重油の日本タンカーとして頻繁に西沿岸の美景のSanta Barbara 市より20マイルも北にあるGaviota Oil refinaryに石油を積む勤務をしていました。南のSan Diego Port 沖より北上しながら、石油タンクの集積所、Ellwood油田地帯の5マイル沖に1942年2月23日の夕方7時に 浮上した途端15発の潜水艦上の対空射撃砲でタンクめがけて艦砲射撃をしました。その時間、白亜館で ルーズベルト大統領は暖炉の前で戦況報告をしていました。住民はとっさに地震かと思ったが、余りにも 地響きの強い音響でどうも違うと疑ったそうです。腰を抜かした年寄り、山から降りてくるトラックの灯を 見てスパイが沖合いにシグナルを送信しているとかメデアも混乱の極であったそうです。ここSanta Barbara, Goleta地域には軍隊は空で多くが欧州戦線へ派遣されていました。今のSanta Barbara空港が当時は、軍部の複葉機による練習空港でありました。艦砲射撃とわかったのは射撃が終わってから30分も経て いました。40分経た後、最初の練習機がとびたちました。住民は日本軍が上陸してくると覚悟して、銃を 引っさげてビーチにはしりました。石油タンクの近くに落下した弾丸が2発あり、畑に滑り込んだのが 2発あり水が一杯の畑では爆発しなくて弾丸を収集してFBIが弾薬を抜き去り畑の主に返還してきました。11発は2マイルも奥地にある山手の側面に突っ込んだそうで、不発弾もあるので、出入り禁止となりました。5万5千人ほどの住民を恐怖に落とした伊ー16号は何も無かったかの如く北上していきました。艦長に とってはここらの地図は自分の庭と同じ様な見知りであったのです。わずか20分の攻撃は国中に通知されてそれまで多く輸送船を失ったのを悔悟して護衛艦をつけてきました。翌年1943年2月この潜水艦は 珊瑚海で5隻の米国駆逐艦の集中攻撃で撃沈されて艦長は爆死しました。5年目、10年目、20年目と 節目で鎮魂行事がありまして、50年目には最後の行事に招待されました。今は綺麗なゴルフ場と隣が 石油製油所になり、その前に歴史協会の看板がたっていました。「Japanese Attack---]とありました。 メキシコと戦争したときは銃撃戦がありましたが米国史上初めての艦砲射撃を受けた経験だそうです。 1992年に著述の念願から10回ほど当地にまいり、面接をしました。1947年東京上空に飛来した Doolittle少佐の空襲よりもずっと早めに本土射撃をはたしたのです。弾丸を見せてもらいました。弾の後ろに菊のご紋が入り、丈は90cm、重さは大変なものでした。著述は既に前に出版本がありましたので、断念しました。米人が話す雰囲気が愉快で私も笑いぱなしでありました。弾丸は日本からのギフト であると大事にされる男性のユーモアに幸多かれと別れた次第です。 |
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