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日本は海賊退治法案が出来ていて、中東、アフリカ、欧州からの貿易製品を船舶移動を守る体制 ができています。もし国際諸国並みに防衛海軍を派遣していないならば、恥をかく恐れがあり ました。インド洋の給油支援事業を停止する予定ですから、日本は何もしない経済大国と定義 されるところでありました。ソマリヤ南部のキスマユで16日、国際テロ組織アルカイダに忠誠 を誓う急進イスラム組織アッシャバーブが主催したクイズ大賞の授賞式が開かれ、優勝者に賞品と して自動小銃や手投げ弾などの武器が授与された。フランス公共ラジオが伝えた。主催者が申す には「若者らに武器を授与したのはソマリヤの「聖戦」に参加を促す為だ」と述べたそうです。 科学や文化、イスラム教の聖典コーランについての問題に挑戦したそうです。自動小銃AK47を 1丁、手投げ弾2発など千ドル相当の武器と事務用品が授与された。これらの若者が、小型ボート に乗り込み、手ごろな貿易船を拉致する。貿易船乗務船員は下手するとその場で射殺となる。 中国も含めて先進国は進んでこの辺たりの平和維持の為に海軍艦艇を派遣していた。石油や自動車 の運送に頻繁に運行している日本船舶の援護派遣はどっちかと言えばおそかった。長島防衛政策 次官は海賊退治法案の適用範囲の拡大で印度洋の給油が可能で有るともうしたが、日本が指導者 として海外での行動は期待できない。従って国連常任理事国への立候補も迫力に欠ける。 然し現実はソマリヤみたいな海賊国家も多いのです。消極策は日本の世界での地位を徐々に 落としていくのではないだろうか。どちらかといえば、「日没する国より、日いずる国」でありたい。
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日本人の歴史、誇りと誉れ
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敗戦を海外で迎えた日本軍人は、主にシンガポール、ソ連、中華民国で抑留、裁判にあった。 1952年の日米講和条約以後でも比島のモンテンルパの刑務所から帰国できない捕虜が125名もいた。 中国北方、満州地域の関東軍捕虜は当然武装解除で直ぐ日本に向けて引き揚げる筈であったが、スター リンは76万の正規の日本軍人をハーブ条約を破ってシベリヤに強制送還した。極寒と食料不足と 衣服欠乏の最悪の環境におかれて日本軍人は森林伐採、木材運搬、鉄道施設の重労働に従事させられた。 7万5000人の軍人が飢えと寒さと労働に耐えられずに死亡した。労働規約を違反すると、凍りついた 樹木に縛られて、凍死という死に方を「暁に祈る」と呼んだそうだ。樹木に縛られている体は真っ直ぐ だが頭は前に垂れて居たので、ちょうど明るい夜中でお祈りをしている格好でありました。無論死体も 冷凍でありました。ウラジオストク空港のあるアルチョムの収容所に増田幸治と吉田正という捕虜がいました。 彼等は「異国の丘」という歌詞と作曲を造ったものでした。収容所内で仲間で歌いつずけて、口伝えで 日本に持ってかえりました。日本語を書いたら取り上げられて、帰国(ダモイとソ連語で申した)出来ない かもしれませんので。昭和23−25年頃この二人に佐伯隆夫が補詞として手直しをして「異国の丘」は ラジオを通して全国にながれました。こんな歌でもない限りシベリヤにまだ軍人達が抑留されている いるとは理解できない情報不足の戦後でした。ソ連政府の戦後捕虜処遇違反は徐々にわかってきました。 吉田正さんは、その後、東京ナイトクラブ、いつでも夢を、子連れ狼のヒット曲で1998年亡くなられ ました。国民栄誉賞を受賞しています。 1)今日も暮れゆく 異国の丘に
友と辛かろ切なかろ 我慢だ 待っている 嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春も来る 2)今日も更けゆく 異国の丘に 夢も寒かろ 冷たかろ 泣いて笑うて歌って 耐えりゃ 望む日が来る 朝が来る 3)今日も昨日も 異国の丘に 重い雪空 日がうすい 倒れちゃならない祖国の土に たどりつくまで その日まで 三浦ン光一さんの独唱が今でもひびきます。 最近のロシヤ国立軍事博物館から初掘された全捕虜名簿に拠ると、今まで650000人と捕虜数が 発表されていましたが、それを十分上回る750000人程度だそうで1割は死亡しています。中国 歴史認識である南京事件は比較すると小さい前線での事件であります。日ソ講和条約の折は、 是非ともこの犯罪を前面に押し出して交渉してもらいたいです。残念だが、スターリンは既に死亡 しています。敗戦時のソ連の対日行動は見え透いた騙し撃ちでありました。 |
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モンテンルパの夜は更けて、募る思いに やるせない、遠い故郷偲びつつ 涙で曇る月影に 優しい母の夢を見る。この歌を知る人はまだいるでしょう。1945年敗戦後、比島のルソン島 にあるモンテンルパ刑務所に108人の元日本軍兵士がB,C級戦犯容疑で収容されていた。14人 の容疑者が勝者が裁く無茶な裁判形式で18−25歳の純真、戦争に引張りだされた若者が 「一指し裁判」で既に絞首刑にあっていた。容疑者一行を座らせておいて、元比島義勇軍とか、 村民に見せ占めて、「こいつだ」・と指で指した兵士を直ぐ罪人と仕立て上げて、翌日早朝に 絞首刑にした。14人の内、半分が無実の罪で刑にであった。証人、証拠、通訳、弁護士もない 裁判で罪に落とした勝者の裁判記録を米国の国立公文書館で引張りだしてみたいものだ。 其処へ、直ぐどうにかしないと全員が危ないと痛感した女性歌手の渡辺はまこさんが、慰問という 形で国交の無い比島政府と掛けあい、ヴィザを取り、命がけでモンテンルパ刑務所にやってきました。 当時既に流行っていた「モンテンルパの夜は更けて」と故郷の歌をひろうした。涙をこらえて 多くの元愛国青年は歓喜したそうです。それから13回も慰問巡回に参り、親睦、救済、メッセ持参、 に奉仕してくれました。男性歌手も無数居たが、これほど勇気のある女性歌手がいたのです。 この救出作業には、復員局の1官僚、現地の加賀尾教戒師とかの協力もありました。このB.C 級裁判は比島が一番厳しく、東南アジアでは英、蘭、豪の軍事裁判官、検察が同じ手法で裁判 を進めました。東京のA級戦犯極東裁判が過酷な裁判で有ると話題にされたが、 南アジアの現地でのB,C級戦犯裁判こそ無類の勝者の罪人を作り揚げて、村人や現地での 義勇軍の気持ちを抑えるためにからくり裁判は効果があったのである。いざとなると、女性が 先頭に立ち、男性を奮起させる役柄は戦後今も同じ形態を留めています。渡辺はまこさん、 ほんとに日本の為に体を張って救済運動を起こしてくださって有難う。彼女が亡くなるまで、 モンテンルパ刑務所からの引き揚げ兵士との交友がつずいたそうです。昭和28年、全員が帰国 できましたが、戦後直ぐ戦死通知に妻が再婚していた悲劇がでました。でも再婚先のご主人が思い やりから、身を引いてくれたそうです。嬉や、帰国兵士と元妻は上手く元の鞘におさまりました。
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国会の召還に応じない総理はエゴ勝手な公人である。手前勝手な私的な釈明発言で終わらせたい らしい。小沢一郎氏も企業献金の不正で民主党の主席を棒にふった。10月初めから、検察当局は 選挙後大武落ち着いた段階で鳩山氏の会計、公設秘書や他の秘書を召還して、企業からの献金、死亡者 からの献金、あざいあらしで、詳細に捜査、検証しています。そのうちに秘書の中から起訴になる可能性 もかんがえられます。もし訴追あらば、総理は小沢一郎の如く、辞職もあるでしょう。 お金と政治の癒着は、民主党が自民党を執拗に攻撃しました。特に安部普三首相の時は頻繁に閣僚が (特に農林大臣が)辞職の連続でありました。今は逆の立場で,民主党は総理の問題で緊張しています。 不正記載という点では既に明白な違反がみえみえです。71%という人気も、日本メデアが全然報じない 精であるからでしょう。是も偏向でありますね。エゴ集団というそしりを招く民主党は透明なお金の 悶着は至急真実を発表して欲しいです。スタートで華々しい出発をした鳩山首相の今後の為にも。
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1947年2月28日台北郊外で起きた専売品のタバコの闇売り金を持つ本島人の女性も苦渋の戦後
生活で戦地から帰還を待つ主人の軍属を待つ間に起きた殴打、暴発、射殺、集団拉致、虐殺事件であった。台北出身の軍属であった安田宗治さんが何故シンガポールのチャンギー刑務所で死刑判決を受けたのか、それに対して日本政府は彼が毎月貯金した通帳の記録、居所もわからぬところから、この事件の解明が進むことになりました。インド、ビルマ方面の裁判は英軍指導で1946年5月22日遺言を残して、 原住民を殴打した廉で死刑を受けて刑場(昭南チャンギー刑務所)で散っていきました。年配の母親が 台湾にいました。軍事貯金は死後に託したといわれたが、凍結どころか、軍事貯金の番号まで明記されて 申請されたが音沙汰が全くなかった。今の年金操業と同じである。インド洋のアンダマン諸島から強制 的に住民をブロック島へ移住させて、400人も犠牲者を出した責任を海軍司政管は終身刑から減刑と 成り10年の刑となり、3年の刑となり戦後日本で余生を送ったそうだ。住民のスパイ事件にかかわった という集団現地人を殴打したとただ乗りの形で安田軍属の殴打事件を誹謗してきた。おとなしい安田さんをターゲットにした嫌い十分である。だが実際はその罪とされたスパイの殴打は実際無かった事件であったのだ。現地人と英軍の恨みを晴らすただ一人の台湾出身の低い階級の軍属でもよかったのである。当時台湾義勇兵の貯金平均額は1100円といわれていました。当時台北で邸宅一軒が1000円で購入できる価格でありました。遺族は台北州文山郡新店庄安坑項城56番地に住んでいました。安田軍属の妻は 戦後再婚して、近くに安田さんの息子も住んでいたそうで酢。彼は父の顔さえしりませんでしたと。安田さんの元妻頼黄甘さんと娘さんとお会いしたそうです。日本語がじょうずで特に黒いスーツで80歳の 年齢で戦後50年元気で生きていたのが不思議であるくらいです。毎月安田さんは妻に50円、100円と送りつずけたのである。彼は大正11年に台湾総督府立台北師範学校入学(今の国立師範大学、台北)して昭和14年、月給140円を貰う日本帝大出を越す俊才であったのです。 それにしても日本政府、日本軍には一切の非難、抗議をせずに洋々として死に赴いた安田軍属の 誇りと勇気に惚れるものです。それに反して日本政府は彼の貯金を丸々虜にして放置した怒りは 熟熟として抑えがたいものであります。英霊に捧げ銃です。 |


