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昭和15年1月12日に神戸港から両親と姉と一緒に父の赴任先の台湾南部に行く為に基隆港 にむかいました。飛行機を使うと高くつくので、荷物と一緒にゆっくりと船便の楽しさを味わい ました。大阪商船の新造船「高砂丸」で大きな雄大な,綺麗な船でありました。昭和13年竣工 で速度がはやく太い身近な二本のマストが特徴でありました。一時は病院船として南洋で活躍した 野で、戦後も生き残り、引き揚げ船で活躍しましたね。同じく大阪商船の昭和9年1月に竣工した 高千穂丸も8、159トンの太くて短い煙突とクッシオンプレートの船首で華麗な客船でありました。 昭和18年3月19日に門司から高雄に航海中に基隆北東海上で米国潜水艦の魚雷を船客741名、 乗員99名が戦死しました。この他国名、都市名をつけた「あらびや丸(9,480トン)、高雄 丸(4282トン)」がありました。あらびや丸は昭和19年10月18日、マニラ港に退避中に 2発の魚雷を受けて横転しました。カンベラ丸、6、447トンが昭和19年11月14日にガナル カナル島に第二次輸送中に敵機と遭遇し、38機の攻撃を集中的に受けて沈没しました。 今では台湾航路は航空機で3時間でとんでいきます。でも空からは景色もみえません。船便は船中に いろいろな催し物もあり、娯楽施設も豊富でありました。インドアゲームは勿論、新鮮な魚介類の 外国料理を楽しみました。特に船長招待の夕食会は華麗に飾った男女が踊る気分は傍で見ても愉快な 一刻でありました。航空機という便利さに消されてゆったりした気分を味遇えないのは近代化の 悲劇でありますね。道中も観光の大きな部分であったのです。姉が昭和18年3月1日に高雄港から 日本に高千穂丸で留学にむかいました。その帰りにこの豪華船は基隆の「北東海上」で沈没しました。 どうもそのころは航路を台湾の東海岸に添って北上して機雷を避けて行く航路を取っていたのか疑問 です。私が引き揚げた船,リバテー号も高雄から南下して台湾の東海岸を北上して日本にむかいました。 台湾海峡は機雷で一杯だよと話した船員がいました。ぞっとしましたね。
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戦時中の台湾のこと
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