占星術 ★連載コラム★

『超次元占星術』の生みの親、酒井日香と『インド占星術』の玉妃 による、占星術連載コラム!!

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今日はスピリチュアル・エゴと因果応報のお話です。
 
さて、 「スピリチュアル・エゴ」とは何かというと、「霊的傲慢」と訳すとピッタリ来るでしょうか。
 
私が占いダイヤルの受付事務として働いていた遠い昔のある日のこと、とあるお客様が、うちの会社の占い師にひどいことを言われたということで、受付にお怒りの電話をしてきました。
 
そのお客様はどうやら、障害をお持ちの方のようでありまして、鑑定中その障害の話に及んだそうです。するとうちの占い師から、その障害は前世からの報いであり、自業自得だ、と言われたのだそうです。 
 
「自業自得って、ひどくないですか? 好きでこんな体に生まれてきたわけではないのに、
どうしておカネを払ってそこまでひどいことを言われなくてはならないのですか?」
 
と、そう言いながら怒りまくるお客様の傾聴をしたのはもちろん、一人しかいない
事務員の私だったのですが……。
 
お客様の傾聴をするうちに、 「なんてひどいことを言う占い師だろう」 と、私も怒りが湧いてきましたが、一応は占い師側にも事情を聴いてみなければなりません。会社の電話から当該占い師に電話をいたしました。占い師にとって会社からかかってくる電話というのは、大抵クレームです。私が電話をかけると占い師はすでにわかっていたようで、「さっきのお客さんの件ですよね」 と言いました。そうです、先ほどのお客様の件です、ということで、占い師側の事情を聴くと、 「だってそう見えた」 という説明でした。
 
私はここで悩んでしまったのです……。当時はまだ、25歳くらいの若い私でした。最初は 「なんてひどいことを言う占い師だ! とっちめてやる!」 という思いでしたが、しかし、電話で占い師と話すうち、これはジャッジしていいのかどうなのか、わからなくなってしまったのです。
 
 なぜならそもそも占いとは、 「そういうもの」 だからです。だってそんな風に見えた、感じた、ということだけで、あれこれ言うのが 「占い」 です。 そしてここは占いサービスの会社です。
 
 だとすれば、その占い師が 「見えたんだもん」 ということで、それをクライアントに伝えるということは、占いサービスとしては何ら間違ってはいないのです。社会通念としては、心身に先天的な障害を抱えた人を捕まえて前世の報いだ、などと言うのは、いじめのようにも思えます。ここが一般の会社であればそんな社員は指導されて当然です。ですが、ここは占いダイヤルですから、この占い師の言動も、業務内容から逸れているわけではないのです。かくして、私はもやもやした気持ちだけが残ったまま、この問題にはきちんと論理的な説明が必要なのではないだろうかと思ったのでした。
 
 その当時、恥ずかしながら私は、サルトルやハイデッガー、ニーチェといった虚無主義、実存主事、唯物論哲学かぶれの若者でした。そうした哲学では、 「霊」 とか 「死後存続」 などに含まれる概念である 「自分が存在し続けること」 さえ、皮肉に考えます。そうしたことを信じて逃げ込むより、能動的に 「いま・このときだけ」 に集中して全力で生きていこうという、そうした姿勢のある哲学ですから、その教えにかぶれていた私にはそもそも、占いダイヤル自体が理解できなかったし、この問題がずっと心に引っかかりました。問題点はいくつかありますが、整理するとこういうことです。
 
1、 そもそも「前世」の存在自体が一般的には認められていない。
2、 占い師が 「見えた」 ことが正しいとは限らない
3、 正しかったとしても伝えていいのかどうか。また、それを正しいとする自信はどこから来るのか?
 
 この3点がずっと心に引っかかり続けました。おそらく、占いやスピリチュアルなどの非合理世界、精神世界の探求を始めて間もない人がもっとも勘違いし、また悩むのもこのあたりではないだろうかと思います。この3点に対する答えを求めて、あれこれ文献を読む日々でしたが、あるとき大変面白い本と出会いました。
 
 それは 「ミリンダ王の問い」 というタイトルで出版されている本です。もともとの原典は「那先比丘経」と言います。那先、とは、「ナーガセーナ」という名前のお坊さんのことです。このナーガセーナ師が、ギリシャからやってきて西インドを支配していたミリンダ王(メナンドロス王)という実在した王様と討論したときの記録です。この本を読んだのはだいぶ昔のことで、今回その本を家の押し入れで探したのですが、見当たりませんでした。したがって記憶のみを頼りに書いている点、ご了承ください。しかし、この 「ミリンダ王の問い」 には、私の悩みと同様なことを質問したミリンダ王に対して、ナーガセーナ長老が答えているシーンがあったのです。
 
 ミリンダ王は、この本の中で、ナーガセーナ師に問いました。なぜこの世には幼くして罪もないのに死ぬ命があるのか。 なぜ無慈悲に殺される者があるのか。なぜ良いことをした者が報われるとは限らないのか。なぜ努力したものが報われるとは限らず、ずるいことをした悪人が栄えるのか——?? あるいは、障害や病気、環境などもそうしたことで、なぜ、生まれながらに不遇の者がいるのか? 
 
 こうしたことは、誰でも人は考えることであろうかと思います。私が哲学かぶれの面倒くさい若者になってしまったのも、もとは自分自身への疑問や社会への疑惑からでした。宗教もいうなれば哲学の一つ、思想の一つですから、そうしたものを求める人々の内には、常にこの矛盾に満ちた社会への疑惑があるはずです。
 
 記憶している文脈では、私の記憶違いでないのなら——。ミリンダ王は本の中で、前世をナーガセーナ師に否定させたかったのだろうと思います。「前世」など、うそではないか、というわけですね。仏教はしかし、前世という概念がなしでは、もはや成り立たないくらいの基本中の基本、根本の教えです。でも、その「前世」のゆえに記憶もないのに今生、罰せられる。道理として納得できないとミリンダ王はナーガセーナ師に詰め寄るのです。
 
 みなさんも、このミリンダ王の気持ちは痛いくらいにわかるのではないでしょうか。少なくとも私は、このくだりを読んだときにまさに、自分のための問いだと感じて夢中で読みました。
 
さて、ミリンダ王のこうした問いに、ナーガセーナ師はなんと答えたか——??
 
それは、私の記憶が間違っていなければの話ですが……、確か、こう返したのです。「それでも前世は否定できない。確かに過去世はあるのだ」と——。しかし、と、そのあとに、くれぐれも勘違いしないようにと言い含めて、こう続きました。
 
「大王よ、因果の法則はまさに正しい。機械のように厳密です。ですが、それがいつ戻ってくるか、いつ受け取るかは、ブッダのように正しい悟りを開いた者でなければけっして読み取ることはできません」
 
と——。
 
なんとナーガセーナ師は、「それはブッダくらいのものすごい人でなければ、いつ因果応報を受け取るのか誰にもわからない」 と認めてしまっているのです。それを聞いたミリンダ王はあきれ返ります。わかりもしないのに、認めるのかね? と。わからないのにある、というのかね? と。
 
ここから討論はまさに 「前世とは何か?」 「因果応報とは何か?」 という核心を突く話になっていくのですが、本当に面白い本で夢中で読みました。最終的にはとうとう、ギリシャの自然観察的な、経験主義的な哲学を学んできた、どこか現代人の私たちに似た感覚のミリンダ王は、仏教に帰依してしまうのです。
 
実は、占星学にも同じことが言えます。超次元占星術を連載し始めてから不思議で仕方がありません。たとえば、土星は苦しみの星ではありますけれども、同じ土星の影響を受けながら、ある人は職業的に表彰されました。またある人は病の苦しみに泣きました。何も起こらなかった、という人もあれば、突然の別れ話に動揺した人もいます。同じエネルギーを受けながら悪く出ない人もときどきいるのです。この違いは何なのか。
 
これこそが実は、ナーガセーナ師が言うように 「悪因がいつ悪果となって戻ってくるかは、(正しく悟りを開かない以上)誰にもわからない」「けれどもエネルギーとしては確実にそれは宇宙を漂っている」ということです。あなたが土星によって苦しみを受けたなら、それは確かにあなたが放出した悪い因縁が、土星と言う「鏡」に反響して戻ってきただけなのだけれども、じゃあ、その因果を受け取る 「あなたとは何なのだ?」 ということを仏教は突きつけていて、占星学もそうなのです。土星が来て、苦しいという。そしてそれはあなたの自業自得だ、と言われてしまう。じゃあ聞くが、その 「あなた」 とはそもそも、何なのだね?? と。
 
ナーガセーナ師は、「苦を受けるものが “あなた” であるならば、では、“あなた” とは何だね? あなたの肉体のことか? 脳髄のことか? 意思のことか? 地位や肩書のことか? 苦しい苦しいというあなたを、ここへ出してみよ」 と言う。車、という乗り物があるけれども、「車」とは何だ? と聞かれると、タイヤがあってシャフトがあってハンドルがあってエンジンがついていて……、となりますが、その概念の一つの “シンボル” こそが、 “車” という名称なだけなのです。パーツを寄せ集めてもそれで “車” になるわけではない。“あなた” という存在も、名前や肉体やこころや、いつも着ているもの、地位・肩書がただ寄せ集まって、“酒井日香” という一つの記号、シンボルになっているに過ぎない。
 
そのシンボルが、苦しむ。おかしなことではないかね?? と、ナーガセーナ尊者はミリンダ王に逆に詰め寄るのです。
 
キリスト教では 「原罪」 と言って、ど直球なのですが 「生まれてくるほうが悪い」 と教えています。この世に人がなんのために生まれてくるのかといえば、それは 「罰を受けるためだ」 と言うのです。生まれたからには全員罰せられるのが定めです。
 
だとするならば、幼くして亡くなった子どもも、それを失って苦しむ私も、正しく 「罰せられている」 ことになります。この、地球という刑務所が、刑務所として正しく機能しているだけで、なんの問題もないことになります。つまり、生まれた以上、殺人や戦争や自然災害や、病などによって誰が死んでも、それは 「当たり前」 ということになります。生命にもともと付随している苦しみなのであり、生まれた以上、生きとし生けるものすべてが最後は引き受けねばならない苦しみです。そう考えれば 「死んでしまった他人の子ども」 と、 「これから殺されるわたし」 には区別はありません。だから他人の死が苦しいし、その死を否定してしまうと自分もたちまち救われなくなるのです。
 
そう——。悪因悪果、善因善果や、因果応報の法則、占星学の惑星のエネルギーや、前世、来世などを考えるとき、必ずセットで考えなくてはならないことは、 「苦を受けている “わたし” とは何だ?? 何が “わたし” なのか??」 という、自己存在への疑問なのです。この視点が欠落したままでただ、因果応報を語ったり、人に押し付けたりすることは霊的傲慢、スピリチュアルエゴであり、これこそがもっとも罪深いことなのです。
 
ここの視点が欠けたまま、他者に因果を解く。それは、もっとも情けないことです。他者の因果を居丈高にああでもない、こうでもないと言っている占い師こそ、 「じゃあ、あなたは何なのだね??」 ということです。自業自得、という言葉には、 「じゃあそれを口にするあんたのほうこそ何なのだね??」 「それを受けるわたし、とは何なのだね??」 という、「存在そのものへの疑惑」 が含まれている。そして、存在そのものを疑うとき、なんと仏教は、すべてを皮相的に捉える唯物論哲学や実存主義哲学、虚無主義とも重なるのでした。
 
だから、占星学がなんのためにあるのかといえば、それはやはり、星の影響を受け取る 「わたしとは何だ?」 という疑問に常に立ち戻らせるためでしょう。そうして、 「わたしが、わたしであると思っていたことには実態がない」 と気づいてしまえば、実は占星学は当たらなくなります。また、運命をデザインしていくことさえ可能です。
 
ですから仏教の母体となったインド哲学では、占星学は悟りをひらくためのヨーガの中の、重要な柱の一つなのです。それは星の力を受けて、「当たった、当たった!」と喜ぶことではなく、当たったらむしろやばい、と考えて、いかに当たらなくさせるかというゲームです。そういう使い方こそが本来の正しい占星学なのですが——。 しかし、世の中の多くの占い師はそうではないようで、むしろ 「当たった、当たった!! すごい!!」 となり、占星学の罠にハマっていくように見えます。
 
近年、さまざまな自己啓発セミナーや占いセミナーがネットに林立し、それに対してカルトだ、詐欺だ、社会通念上おかしい、と糾弾する書き込みをするブロガーさんも増えてまいりました。
 
けれども、幼くして罪もないのに殺されてしまった子どもや、陰惨な犯罪被害者を、「かわいそうだ、かわいそうだ」 と言い続けたところで、起こってしまったことは絶対に戻らないのです。最近、子どもを虐待してしまう親に対して 「その子はあなたに殴られるために生まれてきたのだ」 などといって大炎上した心理カウンセラーがおりますが、しかし、そうしたことをどこかで認めないと、陰惨な事件の被害者は永遠に救われないのは確かなのです。
 
この心理カウンセラーは、炎上をはらみながらも大人気です。しかし、なんとなくその理由がわかる気もするのです。もしも私が、陰惨な事件で子どもを殺された母親だったら、それでもその子の不遇な生涯を認めてあげたい気がします。生まれてきてよかったんだよ、と、幸せだったんだよ、と、まず本人に言ってあげたい。そうしないと、その子は永遠に不幸なのです。たとえ殺されても、よかったんだ、幸せだったんだと思わないと、やりきれないのです。犯人は確かに憎い。けれども、我が子は犯人より何万倍も愛しい。犯人が苦しむことよりも、我が子が幸いであることを親ならば望むはずです。そうしたとき、「殺人犯、ゆるせねぇ!! 子どもを叩いていいなんていうカウンセラー、ゆるせねぇ!!」 と、社会通念だけを突きつけられても、私が当事者だったらなんの救いにもならないでしょう。
 
けれどもそれは、社会通念とはぶつかってしまう。だから、誰も口に出せないのです。この心理カウンセラーはその禁忌を犯しているわけです。だから一部の人から絶大な人気があるし、その理由もなんとなくわかる。
 
眼に見えない世界について、「わたし」という存在について、罪と罰について、因果応報について、この地球の全ての人々が真剣に考えるようになったら、少しだけ私たちはラクに生きられるようになることでしょう。けれども、それを他者に押し付けることはスピリチュアル・エゴです。やはりこうした問題は、カウンセラーが解決できる問題ではありません。神様・仏様と、本人の力でしか解決できない重いテーマです。事件の当事者ではない他人が因果応報だ、などと人に言うことは、厳に恥ずべきことであると我々は肝に銘じなければなりません。他人よりもまずは自分なのですから。



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