占星術 ★連載コラム★

『超次元占星術』の生みの親、酒井日香と『インド占星術』の玉妃 による、占星術連載コラム!!

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占いを学ぶ意義とは?

2018.0.8.12  更新  (著)酒井 日香

世の立派な社会人の男性や、成熟した女性からは冷遇される占いのたぐい。
 
 今でこそ社会人たるもの、占いなんぞは信用しないほうが、社会ではしっかりした人間に見られます。今の世の中の占いブログ、スピリチュアルブログの多くはただの主婦の方や、キラキラ起業系女子が、「これだったら私もできそう!」 と言わんばかりに、気軽に情報発信しているものなので、内容的にも陳腐なものが多く、ほとんど創作と言っていいような情報が溢れています。
 
もともと占いとは、創作である、と言ってもよいような面があり、要は受け手の問題、信じたい人は信じればいいし、信じたくない人はご自由に、という大らかなところがあります。扱うのが「こころ」だから、信じるか信じないかは各人のこころが決めればよい、という理屈です。
 
では、「科学」はどうでしょうか? 
 
これは信じる、信じないを決めるためには、なかなか努力が必要です。ある説が正しい、と信じるためには、さまざまな実験や統計を積み重ねて、「どうやら確からしい」と感じられるようにしなければなりません。読み物であれば、最低限読者に信じてもらうために、「確からしい」 データや情報の出どころを明かさなければならないでしょう。しかし占いは、扱っているものが「こころ」ですから、目に見える証拠や統計が取りにくいわけで、占いが本当に「確からしいかどうか」に関しては議論することができません。
 
 ここに多くの占いライターが甘えてしまうわけです。決めるのはあくまで「受け手のこころ」だから、何を書いても相手に一任すればそれでよし、となります。それで占星術の読み物や、他の占いの読み物は、もはや占い学を解説した本というよりかは、何でもありのファンタジーライトノベルと思って手に取ったほうがいいような、自由すぎる創作の現場になってしまっています。
 
 しかし、古代や中世での占いは、今よりずっと地位が高く、占星学も数秘学も易も、みんな当時の最高の教育を受けた大科学者が扱うものだったのです。彼らは占いを 「創作」 だとは思っていませんでした。
大いなる探究の道 「アルス・マグナ(根本原理)」であると確信していたのです。
 
 皆さんも思ったことはないでしょうか? この砂浜の砂を一つずつ数えたら全部でいくつあるの? とか、モノはどこまで細かくできるの? とか、モノって何なの? とか。
 
 実は古代の人類も、皆さんが子どもの頃に抱いたような、素朴な疑問と同じことを思ったのです。
 
 それで、手近なモノをなんでもかんでも、煮たり、焼いたり、叩いたり、細かくしてみたり、酸で溶かしたりしてみたわけです。主に地面から産出されるものに対して、古代人は感心を高く持ちました。やがて砂浜の砂が 「ケイ素」 という特殊なモノでできていることや、それを炉で熱するとガラスに変化すること、岩石は高熱で熱すると溶けてしまうこと、いくつかの岩石を溶かして混ぜ合わせると合金が作れることなどを発見していきます。
 
 それで、そうした岩石や鉱物の探究から金属加工などを扱う学問のことを現代では、
 冶金学(やきんがく)といいますが、古代人には大変な驚きだったのです。なぜ砂浜の砂は熱するとガラスに変化するのか? なぜ岩石は溶けるのか?
 
 かたい岩場で転んだりすると、大変痛いので、岩石は確かなものであるような気がします。もしも石で人を殴ればたまりません。岩の上で跳ねても岩はびくともしませんし、殴ったら壊れるのは自分の手のほうですね。けれどもそんな岩石も、ある一定方向に集中して力を加えると簡単に割ることができたり、高熱にすると溶けてしまったりする。こんな固くて、確実に「ある」と言えるようなモノなのに、溶けてしまうのですから古代人にはつくづく不思議でした。
 
 そして、この、岩石を煮たり、砂を煮たりするところから「冶金学」が生まれ、植物や動物や液体を煮たり、蒸したりしたところから 
「醸造学」「蒸留学」 が生まれてきて、実はそういった古代科学はやがて「錬金術」として世界中で広く探究がなされていきます。
 
 さきほどの「アルス・マグナ」 という概念は、万物は何からできているのか? ということです。あんなにかたい岩石でさえ、熱すれば溶けてしまい、他の岩石と混ざり合うのだから、聖書の創世期にあるように、神が土をこねて人間や動物を作ったというのは、本当なのではないか? という直感が芽生えるわけです。
 
 そしてそれは 「人間とは何か?」「この世に我々がいる理由とは何か?」「肉体とは何か?」「たましいとは何か?」というような、根源的な疑問と直結していきます。
 
 占星学も、そうした錬金術の系譜の中に含まれる古代科学です。古代人はめぐる自然の中に生命の循環を見ていたのです。死と生は表裏一体で、生き物は死ねば、その肉体とたましいは再び原料に戻され、次の命を生み出す元になるのだ、と——。 そう……。まるで足元の土を水で練って焼いて、器として使い、それが壊れて土に戻り、再びこねられて器になるように——。
 
 これは医学の発達していない古代社会において、どれだけ心強い事実だったことでしょう。死んでも大丈夫。死は終わりではないとわかれば、こころから安心して生きられる。そうは思いませんか? 
 
 古代の人にとって冶金学・蒸留学・天文学・生物学などの自然界研究は、そのまま永遠の命の探究、生命の秘密そのものだったのです。
 その神の暗号を象徴する言葉が「アルス・マグナ(根本原理)」なのです。
 
 そして古代人たちは、そうした人間存在の重大な事実——、「アルス・マグナ」を、碑文や、数学的な暗号や、絵画、記号、幾何学、天文学などに残していきました。その断片こそが今日の占星学であり、数秘学であり、タロットであり、易なのです。
 
 その究極は「アルス・マグナ」を体感すること。自分が何によって作られたのか知ること。目に見える世界だけが真実ではないと悟ること。 そして、死は終わりではないと、輪廻転生は本当にあるのだと心から理解し、ゆるぎない幸福感と安心感に包まれて生涯をまっとうすることです。
 
 それが、占星学をはじめとした、さまざまな占いを学ぶ本当の意義なのです。
 
 もしも占星学をまなんでも、結局は死の恐怖から抜け出せず、物質しか目に入らず、カネを求めて消耗し、地位や名誉に固執して、お体裁で人のうわべだけを見て、うその人生を生きているのなら、それは占星学を学んだとは言えません。他の占いもそうです。
 
 つまり、占いを学ぶ意義とは——。こころから安心すること、目に見える世界がすべてではないと知ること、そしてそれらを知ったらその安心感を実践することです。
 
どうぞこの不思議な世界を楽しんでください。
2018.08.05  更新  (著)玉妃

星には吉も凶もなく、普段からの自分の行動の結果を映し出すに過ぎません。
星の配置が良いからと期待しても、あなたが良い結果をもたらす種を撒いていなければ何も良い事は起きません。
 
空を見上げて星と語りましょう。
ちっぽけな我欲に包まれた自分を感じてみましょう。
ちっぽけな我欲ではなく大我を持っていきましょう。
 
大我とは見返りを求めず行動する事。感情に振り回されず、理性を持って考える事、結果に責任を取れる行動を取る事です。
見返りや期待をせずに、アートマンにのっとって行動すれば迷う事もなくなるのです。大我で生きる人には天も応援してくれるのです。

 2018.07.29更新   (著) 酒井 日香
 
 占星術で使うすべての惑星は、みんな主星である太陽から受ける光を浴びて輝いています。
火星も土星も木星も天王星も、地球から観測するためには、太陽光線が程よい距離、角度で当たっていなければ見えません。

 中でも地球の衛星である「月」は、私たち地球人にとっては、もっとも太陽光線を強く跳ね返してくる星であります。満月のときの見かけの明るさは、我々が日中受けている太陽光の半分を−13.35とすると、−12.7ですので、太陽の見かけの明るさ半分のおよそ0.951倍になります。太陽半分の約91%の光を満月は反射しているのです。
 
そのためか、満月の光で活字が読めるほどです。惑星の中でもっとも明るくなる内合(地球と太陽のあいだに入るとき)から数えて約36日目の金星の、見かけの光度は−4.7等級になりますが、満月の明るさはそのおよそ2.7倍程度であり、半月でさえ金星が最大に明くなったときの2倍以上の光度があります。
 
したがって月は、太陽という主星が降り注がせる光に対する「感受性」のシンボルでありますが、実はその他の惑星もすべて「感受性」のシンボルです。なぜかとうと結局は、太陽以外の天体はすべて「太陽光を跳ね返しているだけ」だからです。
 
 数学的な考えのなかに「フラクタル(相似形)」というものがあって、古代の賢者たちは、天の様相が私たちのこころの構造に似ている、と感じていたのです。天が我々のこころの構造に似ている、ということは、占星学の根幹を成す大切な思想です。
 
 天の諸惑星もしょせんは、太陽光を跳ね返しているだけ——。
 
 これは、この太陽光を跳ね返す作用を 「感受性」 と考えれば、まさに私たちのこころのメカニズムと同じです。惑星にとっての感受性が太陽光であるならば、我々のこころの感受性とは、外界から受ける刺激一切のことであると言えるのです。
 
 すべての太陽系天体は、太陽の光を跳ね返しているだけ。私たちのこころも、怒ったり嘆いたり笑ったりするのは、外部から受ける刺激によるものです。だから我々のこころは感受性でできている、と定義することができます。ここが宇宙と人間の相似形——、フラクタル、というものを語ろうとする占星学の知恵のすごいところです。
 
 さて、このように、太陽系天体は2つにはっきりと分けることができます。それは自ら輝いている「太陽」か、「それ以外の星か」 ということです。
 
 天文学(占星学)から多大な影響を受けている仏教の世界観では、人の「意識」はすべて、眼、耳、鼻、舌、身という感覚器官が受ける「感受性」であると説くのです。人間のこころや、私がわたしだと思い込んでいる何かに、実は実体などはなく、ただ外部刺激に対する感受性だけなのだ、ということです。外部からの刺激を受けなくなったとき、人は死ぬのです。
 
 この 「感受性」 を、手を変え、品を変え、言い方を変えて語りつくそうとしているのが 「月以下、すべての惑星たちの世界」 です。そういう意味で月は、人間のこころを形作る感受性の大親分であり、そのほかの諸惑星も所詮は月の子どもたち、月の親戚にすぎない、ということです。占星学はそうした 「太陽以外の天体」 をすべて 「欲界の存在」 と位置付けてから、人の運を語るのですがしかし、本当の悟りはこの欲界の次元を超越したところにある、とも説くのが、本来の占星学なのです。
 
 さて、仏教で解く「意識の正体」とは、「外部刺激に対する感受性のこと」である、というのはお話した通りです。それは5つの感覚器官——。眼、耳、鼻、舌、身によってもたらされるので、仏典では 「五欲」 とも言ったりします。これは奇しくも、太古から人類の友であった5惑星と同じ 「5」 という数字であり、数秘学的にも重大なことですが、仏教ではもう一つ、第六番目の感覚器官があるとされています。それが 「意」 という感覚器官です。
 
 5つの、肉体に付属している感覚器官からもたらされる感受性を、実は第六の知覚である 「意」 がコントロールしている、あるいは、コントロールできる、と説くのが仏教なのです。そして「意」は唯一、真理を理解することができる働きなのです。そしてそれこそが実は、占星学的には、唯一自力で光っている 「太陽」 なのです。
 
 また数秘学的に見ますと、5欲にもう一つ足して、「意」を加え、「六根」とすると、実は6、というのは最初の完全数(パーフェクトナンバー)であり、すべてにおいて完全な人間を意味するのです。
 
 つまり占星学とは、「自らが太陽と同化するための修業の道」 であるということなのです。自らが太陽となり、意そのものとなり、五欲を征服していく道——。それこそが本来の占星学なのですが、現代の占星学はこうした真理を取り除いてしまっており、五欲——、すなわち「感受性」崇拝になってしまって、ますます人を困惑させる存在に成り下がってしまいました。昨今ブームである 「新月・満月のお願い」 とか、「月だけに特化した占星術」などは、占星学が本来一番乗り越えたいと欲している太陽以外の星崇拝になっていて、本当の占星学の学びから大きくかけ離れた存在になってしまっています。
 
「超次元占星術」 のねらいは、この仏教に大いなる影響を与えた古代天文学の世界観に戻りましょう、という営みです。それで、諸天体のリアルタイムのうごきを重視しています。自分が生まれたときに与えられた星の位置(五感)に、日々刻刻と位置を変えていく天体がどういう刺激を与えていくのか? を、自ら観察することで、感受性という刺激をコントロールし、自ら感受性を受けない主星たる「太陽になる」ことを目的とした、精神修行としての占星学なのです。

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