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人間にはみな罪がある。それは、倫理道徳の観点での犯罪という『罪』ではなく、神様の御前での万人共通の『神を知らない的外れ』をいうのだが・・・
『罪』という概念を自分にあてはめられるのを非常に嫌がる反応は、『神の福音』を知らない者には当然の反応ともいえる。特に、「日本人には、『罪』という言葉はそぐわないの!それは、仏教的には『業』というの!」と、今日も拒絶された。
「人様に迷惑を掛けることはしていない!自分のおかれた環境の中で精いっぱい生きている。罪人だの
滅びるだの言われたくない!」 「死んだあとなどどうにもならない。まして自分の先祖はみな同じように死んでいったのだから、自分もそれにならうほかない。そこに必然性を感じるだけ。」
天地万物の創造主なる神、すべてを摂理の内に導き完成させる神、その神様を信じられない人には、そもそも「みことば」を力説しても『証』を聴かせても、心に留まることは難しい・・・。
人の心を「かたくな」にされるのも神様の意図のうちでそれは「すべての人を憐れむためだった。」とみことばにある。素直に受け止めれば、「弱さの内に働き、すべてを益としてくださる。」という『愛なる神様』『助け主』『癒し主』そして『この罪の贖い主』の存在を、全能にして完全なる神様の中に信じることができる。しかし、目に見えない方の存在を「頭で理解」することはできない。これが、「聖霊なる神のはたらきかけによる恵みのもたらす信仰心」と、聖書では記されている。
霊なる存在の一つであるサタン(悪魔)は、人の心から神への信仰を奪おうと常に謀り狙ってくることも聖書にある。「そんな作り話を・・・」と受け入れられない人々は数多いた。特に、平穏や平和が乱されるような災害が起こる時、想像を絶する苦難の人々を垣間見る時、『神は死んだ』という方向に心を奪っていこうとする存在・・・これがサタンの働き掛けであることを私は信じ、心に留めていたい。聖霊に守り支えられなければ、この弱い心はすぐに『神様』から遠く引き離されてしまうだろうことを思う。
なんとなく信じている・・・ではあまりにも弱い。だから、聖書の「みことば」によく親しみ、心からの祈りをもって『神様』にすがって、私は生かされていきたい。
「私に従いなさい。」「わたしがあなたを選んだ。」というイエス様のみことばが私の心に留まっている。
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聖書は文字的に見ても分かりません
聖書を持って聖書を解かなければなりません
<御国の奥義> <セウォル号の難破原因> <聖書を見る方法>など
申玉珠牧師によるいのちのみことばを是非聞いて下さい。
すべての問題と解答は聖書の中にあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/mikuninookugi
2014/8/13(水) 午前 11:06 [ kaminoko ]