|
祈りとは、呪文ではない。
毎日、決まった時間に、決まった場所で祈る・・・そのことが、神様に喜ばれるかは
人間の側には、わからないことではあるが
私は、この秋の季節の自分の状態、祈りに求めたもの、それが無意識のうちに『自己中心』で
『形式的』であったことを、思い知った・・・。
映画にも描かれていたり、先人のエピソードで聞いたこともあることだが、
『祈り』が、いつのまにか、自分の恐れ、不安の解消の手段になっていたり、自分の求めは神様に
喜ばれるに違いないと高ぶったり、祈るという行為が日常生活の他の事柄よりも優先されるべき、
高尚な行為であって、それをしている時、それをしている者は間違いはおこさないし、守られるべきだ
という無意識の『選民意識』は心の高ぶりとなり、現実の中に、思いがけない衝撃となって自分自身を襲
うことがある。
自分自身が、無意識に犯す罪は無数にある。自分自身の意識と決意で、それらを無にすることはできな
い。そして、自分自身に起こった事柄には、「何故?」ではなく、「何のために?」と問うべきだと
学んだ。
『主は与え、主はとられ給う。』『天に登ろうともそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、
あなたはそこにいます。』詩編139、8節
くどくどと言葉数を並べて祈らず、願う前から私のすべてをご存じで、必要を与え、逃れの道を備え、
みこころにかなう者に祝福を与え、高ぶる者を退けられる方、
生ける主をそばに感じて、生かされていきたい。
弱さの中に十分に働いてくださる、私の主、イエス様を覚えて生かされていきたい。
愚かなるこの小さな心に、力と平安を下さるのはあなたです。
主イエス様のお名前によって、アーメン
|