にこの虹色定期便

いつの時にも、神様のみことばを聞き、みこころを尋ねる自分でありたい。

心の扉

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祈りの友

身体の不調の波はあるだろう。そういうタイミングで、精神的に自分の許容範囲以上のストレスがかかる時、私という人間はもろくて弱い。(これを認めざるを得ない。)そんな分析をした上で、なおかつ、もう一つの感覚(認識)で自分の状態を捉える時、『サタンの仕業』かもしれないことを思う・・・。
確実に、自分の心身を『怒り、批判、恨み、失望』へと駆り立て、その感情の高ぶりは『驕り、慢心』で心をいっぱいにし、その負の(罪の)重荷が自分の意欲、体力を消耗させ、『怠慢』(寝そべって何も出来ない状態、するべきこともやりたいこともあるのに動けない状態)を生み出し、そういう自分に対して
『焦り、自己憐憫』が生じて、ますます『苛立つ』・・・。そんな自分の状態を受入れられないから、『苛立ちが誰かへの攻撃心』に変換されて、周囲に当たり散らしたい最悪な『愚か者』に仕立てられる・・・。

教会の中での出来事を、こんなに感情的に捉えたことは今まで無かった。それで、大切な主の家、公堂の教会で『自分の感情』をあからさまにしたことそのものに、自分自身が葛藤と戸惑いとストレスを感じていた・・・。

帰宅してまず「役員」でもある夫にそのことをぶちまけた。まずは冷静に受けとめて「次の役員会で提案するよ。」と応えてくれたが、私の心は満足しなかった。(そもそも、感情的になっているスタートの時点で私はみこころにかなっていないから、次々と『最悪の事態』に誘われているのだ。)これは後から思うに、『サタンの誘惑、神様のみこころから引き離そうとする働き』にまんまとかかってしまった『弱き自分』の姿だ。

その後も、落ち着かないイライラした気持ちで、何かを行動することも、かといって落ち着いて眠ることも出来ない『苦しい状態』に陥っていた。このまま、なにかのきっかけで周囲の夫か幼い子供に大爆発をして発散させそうな・・・爆弾チョッキを着ているような『恐ろしい』心境だった。自己コントロールがきかないかもしれないことが、本当に恐くて・・・

私の心は『嫌だ、嫌だ、こんなのは嫌だよー。愚かだよー。誰かを傷付ける。』とじわじわと思っていた。

側にいる夫が、もだえている私に呆れて『早く寝ろよ。うるさいよ。』と言った。(そりゃ、そうだろうと思う。さっき、一回ちゃんと話きいてくれたじゃん。十分じゃん。わがままもいい加減にしろだ・・・今ならそう思う。)
『無理。眠れない。』言い放つ私。放っておかれる私。

私はその時、とっさに彼を呼んだ。それは今にも母の権限で『怒り』をぶちまけてしまうかもしれない『小3の息子』だった。(今日も教会でちょっとしたけんかやわがままをやって私を困らせ恥かかせたのは彼だったけど。まあ、私が他の事柄で感情的になったのもそのことが布石になっていたかもしれないけど。)それでも、私は『彼』を側に呼んで心から懇願した。

「ママね、今心が悪魔にやられそうなの。神様から離して悪いことさせようと
してるの!」言いながら、(こんな子供に「悪魔」とか言ってなんてバカな母親かもしれないな。実家の母や友人が見ればおかしいと思われるだろうな。)という冷静な見方と、もう一方で(そう、今こそ神様に立ち返ることを求めるべきだ!)という霊的な思い(クリスチャンの心)が両方働いていた。言葉を発しながら両方の思いが心を交錯するのだから、人間の「思考回路」はすごい・・・。
その、(悪魔なんて言葉はふさわしくないかな。)という思いに、瞬時に息子が言葉で応えた。『サタン?』・・・私は自分の中の戸惑いに力強い支えをもらった感じでほっとして応えた。『そう、サタン。だからお祈りして・・・。』息子が、一瞬で私の心の苦しみの状態と原因について『理解と共感』を示してくれたことが私自身の大きな支えとなった。祈りを要請しておきながら『肉の私=バカ母』は寝そべったままである。(動けないのか、動かない怠惰なのかわからない。姿勢を正すことさえできないのだ。)
『ママ、手を組んで。ほんとはちゃんとした姿勢がいいけど、ま、いいね。じゃ、お祈りするよ。』『天の父なる神様・・・』彼の祈りに私は心を合わせるばかりだった。『アーメン(共感、その通りです)』が精一杯だった。

私はそしてすぐに起きあがった。『ありがとう。』と息子に感謝をして、次の瞬間には立ち上がり(行動にうつる力がわく)台所に向かい、積み上がった茶碗に手をかけていた。『僕も手伝うよ。』と息子が並んで洗ってくれた。
見る見る間に茶碗は片付き、お風呂に一緒に入った。ここからはいつもの日常・・・。

私を困らせる『わがままな息子』はいざという時、私を助ける『祈りの友』となった。私が寝そべったまま動けない苦しさの中で『一緒に祈ってほしい!』と懇願したのは絶対に『自分自身の力では祈れない状態だった』ことの苦しさと恐怖からだったと思う。自分自身で祈れないときがある。わがままや愚かさに支配されて主の前に正しくあれず、主から遠く離されようとする時がある。

その時に「助けて・・・!」と祈りのとりなしを求める心。側に置かれた主にある仲間の存在。私に与えられている大きな恵み。このことを忘れずにいよう。

今日は水曜日か・・・。日曜日に心に棘がささってからまる二日と半分。
ほんのさっきまで、私の心は「主から離れていた。」その魂の飢え渇きが、「サタンだ、サタンだ!」と騒いでいたのだろう。

私は、今朝も夫の顔を見るのさえ嫌で、ちょうど息子の学校の交通旗振り当番をいいことに会話もせずに出掛けた。

(また、彼を嫌いになってる。受入れがたくなってる。少なくとも子ども達にも悪影響してくる。・・・どうなるのかな。いつまでかな・・・。)

自転車をこぎながらも、ぼーっと考えていた。答えはでない。そして、心の中でさえ「主よ・・。」と求める真摯な思いはもてずにいた。少し揺らぐとこんなにわがままな自分なのだ。「申し訳ないな・・・」とも思わない。今回は、かなり『傲慢』の膿がたまっているみたい・・・。

とりあえず、子ども達に元気に「おはよう〜」と声かけて役割を果たすと、さて、なんだか少しほっとする。洗濯物を回しながら、デボーション『マナ』を
開いた。(そういえば、朝の夫婦のデボーションと祈りを怠って、何日も経過していた・・・。そのことに、罪悪感もなかった。もう1週間もサボっていたんだな・・・。)

ルカ11章 29〜32 しるしをほしがる人々 に対する主ご自身のみことばだった。すべてにまさる主のみことばを聴いて『悔い改めよ。』というメッセージ。そして、私自身の目にはその少し前の箇所、24〜26より、まさに「サタンのつけねらう『もとの家』」となることの恐ろしさ、28より、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。』という力強いみことばに、私は心を清められる思いがした。

世の中では、各々、自分の思いに従って好き勝手をし、興味本位で「しるし」
を求めている。また、各々の生き方を『選択』している。
私は、主から離れ(離されて)しまう時がある。そんな時には、ふと、『世の中にもっと耳を傾ける必要がある。自分は狭い一つの価値観にだけこだわりすぎているのではないか。』という、ごくごく初歩的な「罪」に戻されようとする瞬間がある。けれども、私の内に居て下さる主の御霊が、とりなして下さるおかげで、こうして『選ばれた土の器』は愛されていることを実感できる。

なんという不思議な思い。不思議な『心の一新』。これが主のなせる『求めよ、さらば与えられん。』の実証である。
私の心に今朝まで巣くっていた『夫への非難、軽蔑、攻撃心』と、世に対しての『欲』が、きよめられたことを、感じる。胸の内は、午後の祈祷会にて『教会のため、世界のため、そして身近な人のために祈ろう』という思いに満たされている。

主イエスキリストのとりなし、そして、私の知るべくもないところでの『祈り』に支えられて「立ち上がること」ができました。感謝を主にささげます。

勝利の道

数年前の私は、実に人間的な、女性として当然と思われた事柄に苦悩しそこからの解放を

待ち望んでいた・・・。そんな日がくるのだろうかと、半分疑い半分すがりつつ・・・。


「今、その壁を乗り越えた。闇に光が射した。もう、そこに戻ることはない。」と、

絶対の確信は、正直もてない。けれども、かなりの指数で「勝利」の境地に居ることは事実。実感。


『他の夫婦がどうであろうと・・・世の中そんなもんだと言われても・・・

確かにそんな気がしても・・・、いや、私自身がどうしても欲しくてたまらなかったもの。

私の心がどうしても、自分の思い通りに満たされたかったもの・・・。振り払っても、すぐに


捕らわれて、縛られて、落ち込んで、引きずられていったもの・・・。いつまでも、その泥沼に

浸っているから、抜け出せないから、とうとう闘いを諦めて、甘んじてしまった誘惑。私の罪。』


時々、走馬燈のようにかけめぐる私の、かなり近い過去のこと・・・。

苦い思いはするが、苦しみはしない。私の必要として、通らされてきた道。

そして、主が赦して下さったから・・・。とうの昔から。罪犯す前から・・・。今も。後も・・・。


私は、世の中で大流行の・・・いつの時代にも、人間が捕らわれてきた

最大の罪の一つであろう、【肉欲】に、打ち勝てた。そんな気がする。

求めない。与えられたものに満足する。貪らない。嘆かない。怒らない。憎まない。失望しない。

それは、今や、【私は満たされない】思いから【私に与えられている豊かな光】を実感しているから。

これぞ、聖霊の働きといえよう・・・。

日々の私の心に住まわれたもう我が愛する主、あなたによって私は、ひとつひとつの重荷にから

解放されて、勝利の階段を登っていくようです・・・。ありがとう、イエス様・・・。

聖霊体験というもの

パッションという、イエスさまの受難と十字架の贖いを描いた映画を見て、本当に正座をさせられる

衝撃の中、十字架の残酷と、歴史事実としての「イエス」という人物の姿を胸に焼き付けて・・・

本当に、クリスチャンとして清く生きたい、イエス様に習って生きたい・・・と思うものの・・・


舌の根も乾かぬ内に、夫に対する不満が小さな火種となって、子供たちに結果的に当たり散らして

感情の悪に支配されては、うちひしがれる・・・。繰り返す。繰り返す。代わり映えのない自分の姿に

愕然とする・・・。


日曜日の朝、しばらく順調だった夫への感情も、朝早くからこっそり見ていたアダルトビデオの

映像が、自分の中を素通りしていったかに思えたのだけど、やっぱり、黙っていられなくて

静かな調子ではあるが、息つかぬほどに責め立てる自分・・・。

『悪かったよ。』と耐えかねた夫は、必死で付け加えた。『頼むから、そういう言い方するなよ。

神様を笠に着て言われたら、何も言えない・・・。』

【ああ、そうよ。だからなに。何も言えない自分を更に弁護するのか・・・それでも、裁きは主の

なさること。私はあなたを愛し続けていくことを示されている。ただ従っていくしかない。いや、

ぜひ、そのようになりたいと思う・・。あなた自身のことも私のことも、主に委ねるしかない。】


黙って家族で出掛けた教会で、珍しく隣の席に座って礼拝を捧げた・・・。

主の祈りから、私の目からはぼろぼろと涙がこぼれる。

【ああ、神様。こんな私を、こんな私達をこうして並べてあなたの御前に座らせて下さって・・・

感謝します。イエス様に立帰りたいです。。。私の愚かさも、罪悪感も、懺悔も、失望も、そして

わずかにすがりつきたいほどの希望も、全てご存じのイエス様。。助けて。】


説教内容は【夫婦】をテーマとしたものだった。私はメモをとりながら、情けなさと恥ずかしさとで

ずっと下をむいていた。

最後の祝祷を牧師さんから受けているときに、突然私の右の背中を力強くぎゅーっと押す圧力を感じた。

【なんだろう・・・】少し痛むほどに感じるその感触を、確かめようとはせずに目を閉じてしばらく

祈りに集中していた。ほどなく、長男が教会学校を終え側に姿を見せた。【なんだ・・・。息子が

背をつついたのか。】そう思っていた。


帰宅して、なんだかとても気になり、そのことを聞いてみると【僕は知らない、ママを触ってないよ。】

と言う。いたずらな面がある息子のことで、私も数度では信じられないものの、余り、否定するので

【ママの一大事かもしれないんだから・・・】というと、すぐに【そうだよ、ママの一生にかかわること

をウソ付かないよ。神様に誓って・・・。】あらら・・・誓っちゃいけないよ、と思いつつ。

その真剣さに私は心を開いた。【じゃあ、何だったのかな。】

後ろの女性がよろめいて手をついたのか、肩の血行が悪かったのか、下のちびっ子がいたずらしたのか

いろいろな原因を真剣に探ろうとしながらも、「復活のイエス様を目の前にしているのに、尚信じられず

穴の空いた手を見せて欲しいと言ったトマス」を思い出して・・・やめた。

今、人間的な視点の科学的根拠をつきとめることよりも、私の心が感じとったもっと別のものをしっかり

見つめよう・・・。それは、私の胸に力強く注がれるような、励ましのような、勇気のような気持ち。

胸のつかえがほぐれるような温かく優しい感覚・・・。押さえられている痛点は確かに、ぎゅーっとする

けど、そのことによって心にイヤな気持がしない。むしろ、力をもらうような感覚・・・。

私の思いこみなのか。・・・そう作り上げた感情か・・・。


家に帰り、まず愛する姉妹に電話をするとその相手、「・・・そう。それって何だと思う。」と静かに

聞きながら、「実はね、私も今日、そういう感覚があったの。鎖骨あたりを何かにふれられるような、

圧迫感というか・・・。」

私達は互いにしばらく黙り込み、その時に感じた【思い】について分かち合った。

【不思議だね。。。】【うん。でも、改めて【側にいるよ】とおっしゃった感じがする。】

互いの証を感謝しあい、電話をきった。


聖霊体験・・・。それは人によってあったりなかったり、感じたり感じなかったり、

時には、思いこみなんてこともありうる。

だけど、私の背中に確かに感じたあの「ぎゅーっ」という力は、ここ数日の私を確かに少しずつ変え、

子供たちを変え、家族に祝福が流れていることを実感している。


よいことばかりではない。けれども、主に従って歩もうとするとき、必ず助けられ、祝福されることを

今ここに、強く信じる気持ち、この気持ちさえ、ただ主なる神様からの贈り物・・・。

感謝して、喜んで生きたい。ハレルヤ、アーメン。

クリスマスの想い

メリークリスマス

神様の聖名を崇め、賛美いたします。

2000数年前に・・・、その時からさらにさかのぼること数千年過去から

神様の働きかけによって特定の「預言者」が心に感じ取らされ、時には幻としてはっきりと示されていた

『人類の罪からの救い主の誕生』の知らせは、イエスキリストの誕生によって明らかにされ、

神様ご自身が人となって33年後に十字架上で血潮を流され、三日後に聖霊の働きによって

復活なされたことで、何千年間もの『神様の約束』は成就されました。今や、この歴史的事実と

『聖書』のメッセージを受入れて信じることができた者には、『神の子』としての永遠の命(天国での

復活)が約束されています。それは、神様の一方的な恵みと愛とによるもので、人類全てに平等に

与えられている贈り物なのです。そのことを受け取り(信じる)か、(信じられない)かは、

一人一人に『自由意志・選択』を任されているのです。

さて、人が亡くなった後で「天国で、会いましょう。」『天国では今頃・・・」という表現をします。

それは、地上の人間の慰めのためではありません。心清らかに、神様に向かい、神様の前に自分を

伏して捧げることができた者は、主なる神様が必ず天の御国に迎え入れて下さるのです。

地上での命、生活は『天の御国』に入るための『短い修行期間』であって、私達は『宝を地上ではなく

天に積むように・・・』と、聖書から学びます。

宗教の自由、無神論の自由は確かに「個々の権利」として、地上の人間が定めたものですが

聖書に『真実』を見いだし、心の目が開かれて『信じる』ことができるようにして下さったのも

神様の私への憐れみと愛の御業です。これまでの人生に幾度となく、私の心の扉を叩き、いろいろな

かたちで私を捜しておられた神様の働きかけに、私自身がようやく気が付くことができたのです。

決して、私が神様を選んだのではなく、神様が私を求め続けておられたのです。

感謝にあふれる、今年のクリスマスです。


天国に先に向かった方々・・・。

私の大切な友、愛をわかちあった方。

『不倫は明らかに罪であってその相手を心で思い出すことも、赦されない事。』

と、聖書勉強仲間に指摘された時、私は心を砕いて泣き叫びながら『貴方』を忘れ、神様に委ねると

告白しました。その後、貴方との出会いと出来事を思い出すことは自然となくなってきました。

神様に委ねたからです。けれども、クリスマスを前にすると、私の心には『貴方』がよみがえり、

『貴方を想う心』『貴方に想われた安らぎ』を思い出すのです。

そんなとき、神様に尋ねます。「なぜ、彼を思い出すのですか。このことはあなたを悲しませますか。」


神様が私の心に穏やかな『想い』を与えられます。

私は彼を思い出し、彼の御国での安らかで生き生きとした姿を描く時、不思議な平安を与えられます。


彼が、クリスマスの今日、天の御国で34回目の誕生日を迎え喜び祝っていることを信じています。

ご家族の上に、神様の豊かなお導きと平安とをお祈りいたします。

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