にこの虹色定期便

いつの時にも、神様のみことばを聞き、みこころを尋ねる自分でありたい。

悩める内緒話

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原点からのスタート

愚かなり。我がうちにひそむ、おぞましき悪の性質。

それは、憎悪という名の罪。相手を憎しみ、攻撃するその爆発的なエネルギーは、もはや何の言い訳も

たたない、ただの愚かなり。


原因が自分をそのようにさせると、自らはこう望まないはずだと、常に「偽りの正義」をまとって

どんなに自分を正当化しようとしても、それは絶対の義であり善であり、愛である神の御前にはあまりに

も浅はかである。


私は、思うようにならなかった愛すべき息子が、『神に誓って…』という言葉をはいた時に、思わず

唾をはきかけた。感情という愚かさが、醜いかたちで『最愛のはずの』息子に向かった。

「お前が、お前なんかが『神』という言葉を使うな!」

わなわなと震えながら振り絞るように言うと即座に、自分に返る言葉・・・「あんたこそな。」


何も言えないじゃないか・・・。何も。何も。・・・・


ぼんやりと頭の中をめぐる。この感情が、武器になり、兵器になり、核になるんだ・・・と。



自分自身の愚かな感情によるこんなちっぽけな出来事は世の中に何の影響もないのだけれど、


私はこの年の始めから、自分自身が自分の『感情』に翻弄される時、ただ最悪の『愚か者』でしかない事

、主のからだなる教会につながれ」、さまざまな奉仕を通して「お役にたたせていただけること」は、

ただただ主のご恩寵による「愚か者を用いてくださる主のみわざ」にほかならないこと、

この馬鹿げた有様をも用いて、主はこの『罪びとたち』に必要なものを与えてくださり、素直に心ひらく

者に導きをくださることを想い、ただひれ伏すばかりだ。


主の憐れみなくしては、私自身、そしてこの家族の「真の平和、融和」は成り立たないこと思う。


年頭にあたり、まさかこのような『原点』からのスタートになるとは思ってもみなかったが、

すべての事柄に『意味』があることを、主への懺悔と信仰と感謝をもって受け止めていきたい。

揺らぐこころ

夢を見た。

何かのアトラクションに乗っていた。大空を舞うようなブランコのような揺れに身を任せながら、

恐怖は感じず、空を舞う風を全身で感じながら周りの景色を見るゆとりがあった。蒼い空、濃い緑色の

木々、そして、赤い屋根の教会の塔の上には十字架がくっきりと・・・「あ、教会がある!ここは、外国かな・・・」

その時、私は思わず叫んだ!『イエスさまー!』と。何故だろう・・・。

そして、隣には教会の牧師夫人がいて、私の叫びに思わずふっと笑っていた。

その笑みが、あきれているのか、温かく共感しているのかはわからないが・・・。


最近の現実生活の中で、人間関係において小さな試練があった。そのことを通して、学ぶことはあった。

ただ、私は自分の「信念」に対しての足踏みを感じている。「信念」を変えるとか捨てるとかいうような

ことではないが、結局、自分は「どうあることがベストなのか」・・・神様に対してベストとは何か。

自分の信念のために家族とぶつかりあうことか、それが『私は剣をもたらすためにきた』という意味なのか・・・。
自分を捨て、家族を捨てて主に従うということは、文字通りのことになるのか。


踏絵のような思いだ・・・。しかし、私は今の『家族』との調和を乱すほどに『信念』をもつことが
できない。いわゆる、のめりこむほどに主に従うことができない。

私の信仰は、こんな感じなのだ。

だから、熱心に心を支配していただくほどに、イエス様にこの身をささげることができていないし、できない。

私が主からいただいた信仰は、私自身の罪ゆえに「なまぬるい」ものになっている。「熱いか、冷たいかであれ。」というみことばによれば、口から吐き出されるようなものかもしれない・・・。

私はイエス様から離れ、また主に見捨てられるのか・・・。


そんな思いが、夢の中で主を呼んだのかもしれない・・・。

今から予定に従って「教会堂の清掃奉仕」に向かう。いやいやではない。私なりにできることを喜んで
いたします。こんな者でも、塵一つほどの役にたてることがあるのなら。

誘惑に勝てない時

物事にはすべて、過程がある。人の心があれこれと思い煩ってしまうのも、
逆にじっと忍耐してきた末の善い結果に歓喜するのも、『いきさつ』というものがある。人間は弱い者だが、それでも『個人差』というものがあるだろう。
また、その人の心に内在するものにより『強く』されもし『より愚かで浅はかな選択をする』場合もあるだろう。

私は人生のさまざまな『過程』を経て、『キリスト教』に出会い、そして『主イエス』に出会い、今を生かされている。これを『信仰』し生きていく。

けれども、自分自身が『完璧』ではない事実のゆえに、せめて『内なる聖霊の神』により『物事の善悪、みこころに従うべく導き』を『聖書(みことば)』の中に指し示していただくしかない・・・と思っている。そのくらい、『自分』というものには『絶望』している。していたのだ。『絶望の自分』はもはや救いがなかったが、今は『主イエスにあって絶望から救われ、愛されていることを信じている。』

さて、過去の古い自分が『赦せなかった』ように今私の心の中には『赦せない』思いが大部分を占めていて、『穏やか』にはいられない時間を過ごしている。きっと現在進行形だろうと思う・・・。でも、過去と明らかに違うのは、
その『赦せない憎しみ』がパン種のようにふくらむ前に『赦せ』という思い
『自分自身を省みよ。』『自分も赦されなければならない人間ではないか』
『自分の目からはいかに「自分が優る」と思えても、「同じ」なのだ。自分には受入れがたくても、「同じ」なのだ。相手を責めて解決ではない。むしろ
泥沼だ。相手を裁くことは「自分」にはできない。』『神ご自身はどう言われるか。罪人の罪を赦すために贖いを遂げて下さった方は、すべての罪を赦すと言われた・・・。例え人間の感情には理不尽な殺人でさえ、(悔い改めて立ち返る者を)主は『赦す』と言われる。だから私は『主に委ねる』ことしかない。主は『何もかも全て』をご存じである。ここ数日間の『私自身の罪』をも全てご存じである。

私は、私を『信じる主なる神様とみことば、それに従うことの祝福』から引き離そうとする力を感じている。私の心に近付いてくる。誘惑の手をあれこれ指し示す。特に、過去に『自分自身を陥れた誘惑』と同じ状況を与えてくる・・・信じられないことに私は墜ちそうになる。誘惑に勝てない弱さを覚える。そんな自分の『弱さ』の言い訳のために、また『夫の弱み』につけこんで
彼をも神様から引き離すべくあらゆる手段で誘惑してくる。

「すべての悪い事柄を『サタン』のせいにしてはいけません。」と牧師は時々おっしゃる。そうだ、私は『自分の弱さ』を今、『サタン』のせいにしようとしているのか・・・。

「あんたは、『サタン、サタン』と言わなきゃいいんだけどな。」
奇しくも昨夜、夫が私に投げかけた『言葉』だった。私は反応しなかった。
(自分に都合が悪いからでしょ。好き勝手がいいんでしょ。)そんなふうに思った。私は、やっぱり今『サタンが・・・』なんて言ってないで、

ただ、素直にもう一度『主の御前にひざまずく』ことのみだろうか・・・。

夫のことは夫自身の問題である。私はまず自分を整え直し、夫のためにも自分のためにも『主の憐れみにすがろう』と思う。

第一の主日、

聖餐(キリスト教の礼拝儀式の一つ)のパンとぶどう液をいただき、

主なる神への感謝と賛美の思いを胸いっぱいにして、心に聖霊の恵みを求めつつ

今週も、主の御目にかなう者として、主の愛を表わし生きることが出来ますようにと祈る。


夕の礼拝に行ったため、5人の主にある兄弟姉妹と共に分かち合い祈る。


その礼拝の終わった直後に、「みなさん、おもしろいもの見せてあげます。」と

一人の方が風呂敷から取り出したのは・・・

張り子の人形で、どうやら招き猫のようだった。


私は、胸がドキドキして、急に緊張し、こちらに振られたら困るという戸惑いからあわてて

礼拝堂を出て、荷物を忘れ戻った時に、聖書を床に落としてしまう・・・など、本当に

ひどいあわて振りだった。牧師先生や周りの方が、どんな風に対応なさったかは

監察する勇気もなかった。

たかが、招き猫、されど、招き猫。


唯一の神、主を知り、(私の他になにものをも神としてはならない。偶像を作ってはならない。)

聖書ではっきりと示されているその教え、その歴史、その真実を信じる私は

「なんでもあり、どうでもいいじゃん、」と思えず・・・


主を畏れ、敬い、信じて私は生きたい。

それは、突然にやってきた。

プッチン・・・。「もういい。できない。やめるんだ・・・。」

神様のみこころであるかどうか・・・なんてその時には考える余地などない。

自分の心が燃えたぎって、今にも湯気がでそうな調子で口からでてきたのは、

これまでに自分が押さえ込んできたものだったのか・・・


決してそうではない。もちろん、私の心も、そして状況も、着火点に達していたのだろう。

火種さえつけば、いつでも燃え上がる準備は整っていた。そうとしか思えない。


私がこの2年半あまり、「大切な自分の居場所」と思い、また「神様に導かれた場所。人々。」として

その関わりの中に何らかの「役目」を果たそうと、いくつかの苦い経験を乗り越えて続けてきた

スポーツのクラブをやめることとした。これは、私の心の中における「明確な決断」であり、

迷い悩みがないので、既に新しい道を進んでいるという気持ちである。

共に苦労をわかちあってきた友人、近い将来、いやいつになろうとも「末綱、前田ペア」に負けないよう

な、舞台を踏みたいね・・・と、先日交わしあったあの語らい・・・。

胸が痛まないと言えばウソになる。私を信頼してくれている仲間を裏切るかたちには違いない。

最近は、自分自身が不当と思える攻撃を代表人物から受けても、周りの仲間のゆえに、また主の導きの

ゆえに「感じないふり、見ないふり、そしていつしか、感じて等いられない。感じていたら、ここに

居ることは出来ないから・・・。」と顔を心を背けていた。これは、「主にあって強く広くされていた」

のではなく「自分自身のために、都合の悪い者を見ない・・・ふりをしていた」に過ぎず、

決して解決できていた問題ではなく、やはり私は無理をしていて、やはり私は愚かであった。

「小さな器、欠けた土の器」に過ぎない「私」というものを自覚、痛感する・・・。

『人間にとって、最もつらいのは攻撃よりも、無視である。』とマザーテレサは言われた。


私は、自分の事情「家庭の都合、子供の状態、教会の優先、腰痛などの不調」が続き、練習や

イベント、試合に対する「参加」が順調でなくなった。【それはクラブ側にとって。個人的代表に

とって、不都合、不快な人物になっていった、らしい・・・。】

もともと横柄で気分屋で不遜な言動の多い人物ではあるが、あからさまに【敵意】を表情に出し、

挨拶を無視される、または仕方がなく音声にして生返事を返すという態度を数度にわたって受けた。


原因は私の方だ。仲間の好意に心ゆるして【夫、子供】同伴で活動に参加したからだ。

理由はある。【誰でも歓迎、バドミントンを楽しみたい人は参加して下さい。】のキャッチアピール、

実際に言葉に信用して集まるいろいろな方々を、レベルごとに受け止めるでもなく、自分にとって

都合の良い人材、【強い、美人、クラブの華として周りの団体にうらやましがられたり、試合成績を

あげて【代表】たる自分の【喜び=自尊心】のために、期待できない人物にはなもかけない態度。

面倒なことはすべて、人まかせ。話をすれば、一見、きれいごとをいいながら、信頼してやっていくと

【裏切り、不遜】の連続・・・。

こんな悪口を、主は決して喜ばれない。ああ。。。ここにも【私の弱さ】を痛感する。

要は、恨み節ではないか・・・。もうやめよう、主が嘆いておられるから・・・。


私は、きっかけは【感情、弱さ】によって、クラブを離れる。ここに、主のみこころがあるかなんて

私にはわからない。でも、捕らわれ、苦しみ、家庭に確かにひずみを与えていた場所から、

私は確かに、切り離される。【抱えていたものを、手放す・・・】とは、こういう感覚なのだと

今、しみじみと感じている。


走馬燈のように振り返ると、クラブで出会った人のすべてと私は、何らかの接触をしており、

その一つ一つに「後悔の場面」はなく、すがすがしく、楽しく、感謝にあふれる。


ただ一人の人物を除いては。しかし、私はもう振り返らずに進む。

彼が、ゆけるところまでつき進み、いつか「自分」を諦める日がくることを・・・

そして、クラブ自体を支える多くのメンバーが満たされて楽しみ、交わる場所として発展していくことを

願いつつ・・・。

ありがとう。さようなら、クラブ○○○○よ・・・。

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