にこの虹色定期便

いつの時にも、神様のみことばを聞き、みこころを尋ねる自分でありたい。

証し

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教会に行く理由

主日の朝。日曜日の朝。私はクリスチャンとして教会に行く。それは、自らの求めと思いとによって、いまや当然の営みとなっている。
私が主を知らず、『自分の人生は自分の好き勝手で当然』、という価値観で生きていたころ、日曜日は好きなだけ寝坊をしてテレビを見たり、気分転換に出掛けたりすることで「明日からの1週間を生きる」エネルギーチャージをしていると思っていた。事実、毎日をフルタイムで働く場合、日曜日は貴重な「自由時間」となるわけで、そんな日に『何か』にしばられ、『捉われ』ることは『人生の不自由』を強いられる恐怖感にさえなるかもしれない。私自身の経験からも理解できる。しかし、それは『生き方』の価値観からくる『恐怖』であって、今や、人間を神さまから引き離そうとするサタン(悪魔)のささやきであることを思う・・・。確かに、クリスチャンでも一週間をフルタイムで働く(特に主婦の立場)人々は、教会生活(特に日曜日の礼拝、奉仕について)まるまる一日をささげることは無理があるし、精神的にもきついだろうと思う。ゆえに、「できる人ができることを喜んで、主の御用のために時間を聖別する」という教会形成になっている。また、必然と高齢者、病者、障害をもっている方は教会の礼拝出席そのものが精いっぱいという現実は当然だろう。若い人々がエネルギーを結集して『主の御用』『主を礼拝』することに時間と力と富とをささげることができる教会は、その教会に託された使命があるだろうし、高齢者中心の教会にはそこならではの「使命」を祈りつつ真摯に取り組んでいくことだろう。
比較や焦りは、サタンの誘惑。まして見栄や欲がからめば、主のみこころから離れていくだろう。

私は、主によって導かれた教会に今日も出掛ける。そして、主のみことばによって「今の自分」にダイレクトにメッセージをいただく。今日からの一週間を「生きる糧」「冷静な思い」「主にある喜び」を胸に(魂に)いただいてこよう。そして、主にあって生きる『この上ない恵みと人生の支え、死をも乗り越える力、救い主イエスキリストを知り受け入れることができるようにしてくださった生ける聖霊なる神様』に感謝をする気持ちを、教会の様々な用(役割、奉仕)において自分にできることを喜んでさせていただこう。何かをする時、働く時、「これは聖霊なる主が助けてくださること、自分自身の力ではない」ことを忘れずにいよう。だから、『祈り』を伴う奉仕をしていこう。これから、クリスマスにむけての子供たちの準備も始まっていく。どうか、「学校」「教師」「作品」という形よりも、「見えざる創造主、イエスキリストの助けによる『栄光』を表す喜び」に満ちて取り組めますように・・・。

主イエスキリストを知らない多くの人がいる。自分には関係がない、と思っている多くの人がいる。
けれども、彼らにこの『私の喜び』を面とむかって『伝え、誘い、祈る』勇気が今の私にはない。
しかし、ないからといって、『だめだ』とレッテルを貼られる恐怖におびえている間があったら、今自分にできる精いっぱいのことで『私を人生の虚無から導き、罪を赦してくださった救い主イエス様』に心をきよめて、今日からを生きる力をいただきに、教会に向かおう。

ハレルヤ! 主の御名を賛美します。

主イエスキリストに導かれて、教会に通い心うち開かれて洗礼を受けてから、4年半を過ぎました。初めは熱く喜びわき出で、「新しくされた」新鮮な気持ちでいた者が、月日の経過の中で様々な体験、出会い、感情をもち、もちろん
主イエス様がこの心を捉えて下さっている証拠に、信仰を捨てるようなことはないものの、「いろいろな宗教の中の一つであって、自分の好みに合う宗教を人はそれぞれ選ぶんだろう。」とか、「イエスが復活したことや、天に昇ったことや、再び来るときに『最後の審判』が必ずあること」「神の国は天国という空間的な場所ではなく『人の心』に来る『神の支配』のことですでに始まっている・・・のなら、死んだ後、人間はどうなるのかな。天国にすぐに入れられるのはただのイメージで結局は『無』になるのかな。」また『復活の身体』ということがどうしてもひっかかって、(この小さき者の理解力で納得しようなどという大それた欲望があって)最近では、「信じてる。信じ切れないような思いもありつつ、でも信じていたい。」というような、とても揺らぎのある
薄い信仰で過ごしていた自分を感じていた。それでも、こうしてゆらゆらしてしまう私の『弱さ』をも、すべて知っておられ『愛して導いて下さる主』の存在に『甘えて』いたことを思う。

新年度を迎えた。受難週に入った。改めてイエス様の世での生き様とその十字架への歩み方をしっかりと見つめる時に、イエス様は、『人の罪をすべて担って、それを一身に受けて自らの血を流して『死』んでくださったこと。その血が、万物の創造主である『神様』に対しての『罪の赦しに必要な血潮』であったこと、ここに『神様』の人間に対する『愛』と『義』が示されたことを真剣に受けとめる。まずなんと言っても『人間』が神様の御前にあっては、どんなに『自己中心』であるかということ『背きの罪』を内在しているかということを認める時、その『罪』を赦していただくための『犠牲』はイエス様による血潮であったこと、自分自身がその『罰』を受けずに赦されたことを受けとめる時、その恵みの大きさに『感謝』が湧き出でる。
イエス様は、何もかも自分の役割(神様の召命)をご存じだったから、十字架への道を(血の汗をかくほどに葛藤し祈りつつ)従順に歩まれ全うされた。
人間にたいして現われた『神様』ご自身であられたから。

『信じたら救われる。努力はいらない。』これは安易すぎて神様の御前には申し訳がたたない。『どんな罪でも赦された』といって自分の弱さにおぼれたり自己流を押し通す姿を神様は望んではおられない。それでも、決して人間の『努力や修養』によって救いがあるのではなく、すでにイエスキリストの十字架の血潮によって、『人類の罪』は赦された!という事実に立ち帰り、ゆえに
私自身が揺れていたところの、(信仰のない家族や友人たちは救われないのか?)という畏れについて、『すでに、すべての人のために主は十字架におかかりになった』事実。『救いの完成』の事実。ゆえに、私自身はそのことが
わかるようにされたという『主の召し』をいただき、『感謝と喜び』をもって
『未信仰』の人々(特に身近な家族)に対しての『恐れや引け目』を感じたり
とらわれたりせず、その時々の『主の御霊』の導きにゆだねながら、『自分の感情』ではなく『主の時』に勇気と確信をもって『大胆に行動』できる者へと成長させていただきたい。そう望み願って、祈って歩んでいこう。

この日常こそが旅

両親が3泊の海外旅行に出掛けた。長年、まじめに勤続して現役引退も近い父と、40年父を支えてきた母が健康で蓄えの中から「元気なうちに」と、海外に遊びに出掛けるのに何の非難があろうか。ありがたいことである。
楽しんできてくれたらよいと思う。借りていたビデオカメラを返しながら、顔を見に行ってきた。両親は支度をして、決して旅慣れているわけではないから緊張もしながら、そこに居た。
世界は広い。旅行会社のパンフレットには、いろいろな旅の紹介があった。
それらをめくっているうちに、「行ってみたい場所」を捜しているうちに
私の心の中は、なんとなく微妙な気持ちがわいてきた。

旅の目的は、現実生活から離れて日常には見聞きできない事を体験し、いつもはできない贅沢をしたり、リフレッシュすることにある。現在は、交通手段によって「ふつうの人々」もある程度の旅はできる。
日本にいては体験のできない「空気」「文化」「人々とのふれあい」というものが旅にはあるだろう。自分の目を開く、価値観を広げる上でも大いに有効であろう。

でも、それだけに「楽しみ」を見いだすことは、やがて飽くなき欲望になりかねないことも思う。お金も時間もかかることだが、「一時の享楽」でもある。
「あの景色は忘れられない。」「あのご馳走も忘れられない。」
良き思い出としての「感謝」ならばよい。「もっと、もっと・・・」と求めていく限り、決して満たされることはない。

未来のある子ども達には「世界を見せたい。」「英語を学ばせたい。」と、
団塊世代の母親は特に強調する。孫を「旅に連れ出したい。」夢をもってくれている。ありがたい。「より良いものを知らせたい愛」なのだ。「より良い幸せをつかんでほしい」のだ。決して苦しみや悲しみを通らせたくはない、愛情なのだ。ありがたい。

けれども、私たちは決して思い通りの人生ではない。誰にも試練がおこり、
悲しみも苦しみも味わい生きるだろう。世の中の人間の中で「優秀」「陣頭指揮を執る」「報酬を得て、自分の思い通りにする」「不安なき人生はお金につきる」・・・そういう価値観は、また現実は『正論』だろう。

私は両親の旅行が、両親の心にとって本当に楽しい思い出であってほしいし、無事の帰国を祈る。

私自身は、あえて行けるものならいつか「聖地旅行」をして主イエス様の歩みをたどりたい気持ちはある。
それに、緑豊かなヨーロッパの自然の中でゆっくり聖書を読み、神様を仰ぎたい気持ちもある。だけど、それがかなうか否かは、やっぱり神様に任せつつ
私は「この現実」「この日常」そのものが与えられている「恵みの日」と思って、過ごしていきたい。

お金がない人の負け惜しみ・・・って言われちゃいそうだけど、そうではないんだよね。

私がこのブログを始めたのは、2005年夏のことだった。パソコンの電源を入れることさえ戸惑っていた私が、スイスイと不思議なくらい自分のページをもった時に夢のような思いだったのを覚えている。もともと日記を書いたり、日常のもやもやを文字にしてストレス解消や気持ちの整理をする性格だったので、この場所が私の心の休み場だった。何でもありのままに記し、ありのままの私を知って欲しかった。この私に反応がほしかった。毎日のように、自分に起こっている出来事をその時の気分に応じた内容で記していった。少しずつ、コメント下さる方に私の心は躍った。同じ頃にテレビのドラマでもあったように、顔の見えない者同士で恋をしたりもした。真剣だったし、そのことで自分が救われた気がした。今でも、その方には心から敬意をもっており感謝をしている。
今、私の心を捉えて離さないのはイエスキリストです。主は始めから私のすべてを知っておられる。そして、この日々の中にいつもおられた。
私の心がそれに気が付かなかった。私は「当たり前の日々」が「当たり前」でないことを知ったとき、神であるイエスキリストを知る心を開かれた。生きていることは、偶然でも、当たり前でもない。
私たち人間は、単なる生物ではなく、「神様がご自分のものとして創造された被造物」で「もっとも神様に近く、神様に愛されるべき存在」なのだから、今、生かされているこの人生の中で、神様に対して感謝をささげ、困難には助けを求め、自分の愚かさ小ささ弱さ儚さについて認めて生きていきたい。
私の出会った私の信じる神様は、遠い雲の彼方ではなくこの心の中にいてくださる方。祈りを聴き給う方。そして、私の心を支え、私の魂を救い出して下さった方。十字架で死んで、蘇られたイエスキリストです。
 

本当の愛し方

主イエスキリストのご降誕を心から喜び感謝するクリスマスを

今年も恵みのうちに過ごすことが出来た。

巡る季節の中で、私も歩き続けている。


成長の過程、遺伝的性質、成育環境などと・・・何かのせいにすればきりのない

息子の悪態ブリは、あまり変らない。

感情がおさまりきらず、気に入らないと、人のせいにしてありったけの悪態をつく。


もはや、たしなめる、叱る、諭すなどという手法では、どうにもならない。


私は、そのたびにため息と放心になり、ついに座り込んでしまった・・・。

そんなとき、心に自然と思わされることがあり、私は、それらを素直に納得し、認めた。

そして、自分の非をしっかりと見つめて受入れた時、ホントの悔い改めになるのかもしれない。


私の息子の愛し方は、実に自己中心的な愛し方。自分が安定していれば、甘やかすほどに受入れるが

ひとたび、試練に襲われて余裕を無くし、不安定であれば、

いくら、愛されても、そんなものは受け止めずに気散らかし、踏みつけていた・・・。


自分は、全身全霊で息子を愛している良い母親だと自負していた。そもそも、そこに大きな欠点が

あった。傲慢があった。私は人として、まず高飛車であった。


幼かった息子が、全身全霊で私を慰め慕い、愛してくれた姿ははっきりと思い出す。

私はそんな彼に寄りかかり、彼をふみつぶしていたのだ。


成長した彼は、日々、自分の中の無意識の鬱憤を爆発的に出している。特に母親にはありったけの

パワーをぶつけている。私は、今、それを嘆かずに怒らずに、じっと受け止める番なのだと思う。


彼は、私に今でも優しさを見せる時がある。愛を示してくれることも或る。そして、大好き、と

言葉にしてくれることもある。彼が完全なる獣となり、心が失われずに済んだのは、

主なる神様が私を、闇の状態から救い出して、曇った眼を開いて下さり、自分をみつめることを

教えて下さったから。そして、私が、赤ちゃんの時から、確かに一生懸命に愛そうとして

未熟ながらも、放棄せずに子育てをがんばってきたことに、希望を与えて下さっているしるしなのだと

感謝する。


親は子供よりも偉い、子供は黙って従え・・・そんな風に、建前で理屈で押さえつけられることを

何よりも嫌う息子。では、どういうことが正しいのかと悩む親の私。


「子供は、神から与えられ、育児を託された、神の宝。私の分身でも、私物でも、米びつでもない。

彼が、人として神の御前にも喜ばれる者であるように、そのように成長できるように、

それは、「自分中心でなく、本当に相手を思いやることの出来る愛を知り、実践していける」姿。

もちろん、自分自身を「神にとって価値ある者」「神に愛されている者」として、大切に出来る姿。


己の限界を知り、しかし、思いも寄らないチャレンジや成功を与えられる祝福の神への感謝と期待。

神を信頼して、絶望しない生き方。


感情コントロールの弱い私は、自分の欠点を大いに自覚すると共に、

他の誰にも、息子にも、人としての弱さや欠点、課題があるのだから、それを裁く立場にはない。

怒りで解決することは決してない。

ただ、このどうしようもない、人間を良く変えて下さるのは、神様の愛。そして、その愛を生活の中に

実践出来たときに、備わってくる品性やどんなことにも恐れない安定感、喜びを得るだろう。


私は、2009年末、これらのことを胸に示され、詩編138編を胸に刻みつつ、

新しい年を迎える。


全世界の、全ての人々の上に、今も後も注がれ続けている、唯一の神様に賛美をし、感謝をし、

愛による平和を、つくりだしていきましょう。ハレルヤ!!

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