にこの虹色定期便

いつの時にも、神様のみことばを聞き、みこころを尋ねる自分でありたい。

私の道の光

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聖霊によって生きる ということについて、もっと知りたいし、自分の信仰の姿はどうなのかと、ふと立ち止まることがある。
 
もちろん、イエス様の十字架の血潮が私のこの罪を購って下さって、魂が救われたことによって、聖霊のはたらきを受けて生かされる者とさせていだだいたことを、心から信じている。信じるものに対する疑いはない。ただ、自分自身が、やはり「自分の頑張り」「自分の判断」だけで選択し生きていることが多く、やはりそういうことではなく、「聖霊によりたのみ生きる」姿になりたいと願う。
 
そのためには、みことばを日々、時々刻々、胸の中にもっともっとためこんでいくこと。それも、暗記するための努力とかでなく、自分自身が「主によりたのんで生きる」ために必要な心の栄養としてもっともっと聖書のみことばに親しみたいと思う。
 
毎日が、他の用事で忙しいこと、テレビなどの誘惑が多いこと、自分自身が甘えて自分の身体を休ませすぎている時があること、子どもや夫や誰かのせいにして「自分の生きる姿勢」を、主にあって正していないこと・・・
 
「わからない」と嘆くより前に、私自身が気付いて、実行していくことがある。
「頑張りによる信仰」が主を無視していると共に「改善しない信仰」も、また主を無視していることになろう。
まずは、自分の時間の中でできることの優先順位を決めて決断することを「自分の目標」としていきたい。
 
人が、何を信じ、どのように生き、死んでいこうが、その人自身の勝手でありその人自身の問題である。何に感動し、何に希望を見いだし、何に頼って生きようが、その人自身が決めることである。・・・そうですよね。ただ、自分が出会ったもの、素晴らしい感動、実感を知ってほしい、ぜひ伝えたい、必要とあらばその人自身を同じ感動に、希望に導くことができるかもしれない。(もちろん、自分の力や誇りのためではない。神様に喜ばれるためであるが)そんな思いで、伝道を地道にしていく。しかし当然ながら現状は、簡単ではない。
迫害こそされない時代、国であるからこそこんな気持ちでのんびり構えていられるのかもしれない。迫害の時代にあっても自分は主を信仰できるのか、私にはわかりません。悲しいかな、わかりません。何と弱気な信仰のうすいことでしょうか!でも、この現代にこの日本で、私はイエスキリストを知り、イエスキリストを信じる心を与えられました。洗脳じゃなくて、自ら求めてその言葉に本物、いのちを感じたのです。
日本では、長い歴史の風土があって「日本古来の神様、仏様」が根付いていますから、イエス様は異国の神様です。でも、聖書が何かいぶかしげな外国の書物であって、人が死んで生き返ったことを信じることの愚かさが先に立つ以上、この方を「知ろう、知りたい」という欲求さえ起こりようもない。ドラマの中で「聖書を売る人物=近づきがたい」という設定をされ、主人公がその台詞を語ったとき、私の心に寂しい思いがかけめぐったけれど、そんなことは日本では当然ですね。
クリスチャンの夫は、「まあ、日本では隣人愛はわかっても、神の絶対愛を理解するのは難しいなあ・・・」と他人事で言ってました。
それでも、数が少数でも、いぶかしげに思われても、現実の社会の中で生き辛い場面があっても、子ども達の教育方針に戸惑っても、
それでもやっぱり、私の出会った神様は私の心の内側から常に生きて働きかけて下さる方と信じているし、私自身は死ぬまでこの信仰にたって生きたいと願うから、へこんだりしないで元気を出して、今日も私の主イエスキリストに感謝の祈りをして過ごしたいです。
 
自分の健康や能力も、時間も、財産も、家族も、いろいろなものを、人
は「自分のもの」と思うだろう。だから、何をしようが自分の勝手という価値観。私も、「自分次第」という考えのもといろいろなことに取り組んでは、少しうまくいくと思い高ぶり、うまくいかなければ自責の念か、周りへのやつあたり、または自暴自棄な態度にはしるという者だった。
今も、様々な『選択』を『自分自身』がする場面がたくさんある。結果もいろいろだ。けれども、そこに『ゆだねる』『恵みを感じる』『感謝をする』という価値観が加わったことにより、心が強められているように思う。
 
『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』と言われたイエスキリスト。聖書ルカによる福音書20章20〜26節
 
私たち神を信仰するクリスチャンも、社会のルール秩序にのっとり、その一員としての責任を果たさねばならない。しかし、神様から自分に与えられているたくさんのもの、力、心、支えられる人々、それらに感謝をもって、自分のためにではなく『神様のみこころ』にかなうことに精力を注ぐとき、本当にその人自身は祝福されていく。神様の教えの一番の
ことは『自分を愛するように隣人を愛しなさい。』である。
今、日本、世界中の多くの人々の心が被災者の方々を想い、具体的な
支援の輪が広がっている。現実はどんなにか困難の中にいらっしゃることかを思えば、完全な助けにはほど遠いことを思う。でも、人のことには無関心、自分さえよければ・・・という風潮の昨今、このように思いを寄せ合う人間の姿は、必ず神様のみこころにかなっている。
祈ってなにになる、という人もいる。けれども、私たちはいつも互いのために祈っていきたいと思う。

三浦綾子さんに学ぶ

教会の牧師婦人に紹介されて、三浦綾子さんの小説を読み始める。
 
クリスチャンでなくても、しっている人は多いかもしれない。彼女の生き方を、小説を通して、神様に用いられた一人の女性の姿からも、学ぶことは多いだろう。
 
時代背景が違い、自分には関係のないことのようではあるけれども、しかし、そういって今、自分が世界の中心のような、また今がずっと続くような、錯覚の中に生きるのは愚かだと思う。
 
人間はなぜ、生きているのか。私はなぜ、生きているのか。
 
死は必ずくる。いつとは、ただ神のみぞ知る。
 
果たして、死んでどうなるというのか。どう生きるのかと同じように、どう死ぬのかは大切なことだと思うから
 
私は、真剣に「生きる」ことの意味」を味わいながら、全てをおさめておられる神様の存在を信じて、クリスチャンとされた豊かさの中に最後まで生き続けていきたい。
 
学生時代に、どんなに国語の教師がすすめても、見向きもしなかった「三浦綾子さんの本」を今頃になって、興味深く、求める自分がいる。そう、あの時代から20数年がたったのだ。
きっと、私の中に、その「霊的な求め」がおこされたのは、主にあって「学びなさい。」という、時がきたのだと思う。
 
感謝しつつ、「生き方を求める」ことについて、味わっていきたい。
日々、イエス様に守られている。
 
多忙な時間の中に、神様を慕い求める思い、祈りの中に感謝と願いとをささげる。
 
でも、肉体は弱く、私自身は心も良心も弱く、罪深い者である。
 
体調が落ちれば、ホルモンなのか、イライラもする。そして、「・・・ああ、神様助けて。」とさえ
 
求めずに、自分自身の思いに心を翻弄されたり、過去の姿にかぶるような怠惰な姿を自覚する瞬間がある。
 
たまには、とテレビを見始めたらずっとずっと見てしまって、笑える事ばかりではないのに、何故か見続けてしまう。見終わって、どっと疲れが出るほど、自分の中によいものは残ってはいない・・・。
 
久しぶりに虚しくなり、いらいらする・・・。それは、神様から離れたことの魂の枯渇であり、サインだろうか。
 
一晩眠り、目が覚めて、先ず、布団の上で神様に祈った。新しい朝を、ここからまたやり直し、神様に心を向けて歩むことを許されている神様に、まず感謝を捧げた。
 
「神様、何もかもご存じのあなたに言い訳はなしです。今、ここからあなたを見上げてあなたにより頼む幸いを感謝します。こんな私を愛して下さり、導いて下さり感謝します。迷いの道から引き上げて下さるのはあなただけです。」
 
迷子になった1匹の羊は、探し出して抱き上げて下さった神様に、メーメーと鳴いて喜んでいます。
 
 

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