にこの虹色定期便

いつの時にも、神様のみことばを聞き、みこころを尋ねる自分でありたい。

ゆだねるということ

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教会の総会が行われた。始めに牧師先生からお話があった。「数字や、実績を人間的に見て批判したりするのではなく『主がなしてくださったみわざ』への感謝と、『みこころがどこにあるのか。』を求め、個々に違うお互いが『主への信仰』にある一致のものとに、かしらである『主イエス様』の各器官として、様々な働きができますようにとの『謙遜からの祈り』をもって『教会形成』をしていくことを目指しましょう。」
このように、主の前に真に謙遜な牧師先生に巡り会えて感謝である。

かつて「教会も、しょせん人間の集まり。ドロドロなんだ。」と、聞いたこと
があった。(そんなもんかなぁ・・・)なんてぼんやり思った記憶がある。そこには『教会』に対する憧れも教会を教会たらしめているものが何かさえもまったくわからない「人間くささ」だけが印象として残った・・・。

今、主に導かれて「教会の器官」としての働きを与えられている事に、「感謝して、喜んで奉仕していきたい。」と思わされている。なにしろ、主のための働きである。このような者が『神様の御用』に使われることは本当に、驚くべき恵みなのだ。信仰によって、私にはそう心から思える。

さて、役員の改選があった。夫が選出された。『神様のみこころ』なのだと素直に思おう。きっと、『みこころ』のうちに、祝福があるはず。但し、心をしっかりと神様に対して向けて、謙遜に懸命に御用をさせていただく中に・・・
必ず祝福が与えられるのだ。

私は、『神様のみこころ』があることを信じて、まずは夫の働きのために懸命に神様に助けと導きを祈ろうと思う。祈ることしかできないけど、逆に、この単純なる祈り・・・「夫が神様の御用をするために、整えられ、様々な誘惑や葛藤を正しく乗り越えていけますように。」・・・そのものが、この私にとってどれほど真剣に、心をこめてし続けていけるかどうかが、今神様から問われている気がしてならない。神様は今こそ、『夫婦の(主にある)一致』を求めておられるのだろう。私は、神様にちゃんと応答していきたいと思っている。

そのことさえ、聖霊さまに助けを求めていこう。自力なんかで、そんな祈りができるはずがないから・・・。

日々、目の前の現実をこなすことに追われる時、じっくりと神様に思いを馳せ
霊とまことをもって礼拝するという姿勢になれないのがありのままの私。

もちろん、教会において『礼拝』をささげる時には(自分なりに)心から神様
を見上げて『みことばの糧を下さい。聴きます。』という思いでいる。

さて、「素直に、疑わず、見失わず」聖書を「神様のことば」「いのちのこと
ば」として受けとめることこそ、「邪悪なこの世」「悪しき霊」との闘いに打
ち勝つ唯一の方法である。私たちはこれを信じ確信して、つかみとるべきだ!
ということを知っている。しかし、純粋にこれに邁進できない自分もいる。

ひとたび、そんな不信仰に陥れば「聖霊様によって生かされているはずの」
この身も危うく「信仰は気休め」などという思いに傾きそうな瞬間がある。

私は今朝、祈った。
『主なる神様、あなたのみことばをつかみ、あなたを知る者とさせて下さい。』

すべてのものは、神からでて神によって保たれ神に帰る・・・。

神は愛なり。

私は、これからも『愛なる神様』を知り、養われていきたい。

この暮らしの中で

たった今、小学生の息子が修了式に出掛けていった。ほんの3分ほど、一緒に
登校する友達との待ち合わせまで時間があった。しぜんと手を組んでいたので
無理にという気はなかったが、「お祈りする?」と促してみると、ちょっと
照れくさそうに、でも「イエス様、2年生が今日で終わります。御守り下さっ
てありがとうございました。3年生では、今までできなかったことをがんばれ
るように助けてください。」 心を素直に神様に向けて感謝を祈れることは
『神様のみこころ』にかなうこと。私も、本当に身勝手な信仰のうすい者だけ
ど、一瞬一瞬、神様に『素直に立ち帰る』ことの必要を思う。

昨日は書店で、『地球』という科学の本を買った。地球のなりたち、人類の
始まりと言われる進化の過程、環境問題・・・地球に関するあらゆる知識が
割とわかりやすく漫画で描かれている。私自身が、それらの事についてしっか
り分かっているわけでもないし、現代科学の解明力には驚いたり関心をもった
りしてしまう。限界はあるものの、宇宙に飛び出した現代人が『地球の形状』
を含めて知ることの出来た様々な『現象、理論、証拠』について、否定をする
ことのできない事柄はたくさんある。21世紀に生きる私たち、私の子ども達
は「知り得た科学」の中に『統べ治められている神様への信仰』をもって生き
るのだ・・・。(進化論も否定はできない。その中でも私は、聖書の教えを
子ども達に語り伝えていく。大いなる神様の存在を証ししていく。私自身に
何ができるわけではないが、神様のご使用のままに語っていけますように。)

現代科学をすべて否定して『信仰』をもっているアーミッシュの方々のこと
を時々思い出す。彼らは『聖書』の時代のままに『神様』に忠実であろう。
しかし、私にはその暮らしはできないまま『信仰』に生きて行かねばならな
い。どんな環境の中にも、神様が『与えて下さる信仰』は変わることはない。

そんなことを信じ、この暮らしの中にも『霊の成長』を求めていきたい。

東日本大震災から1年。今も変わらない瓦礫の山、かえらぬ家族、ままならない仕事、近い将来の居住の地、生活設計の不安、体調の管理や子どもの養育環境・・・本当に現地の人々の苦悩は絶えることがない様子を、報道を通して知る。
黙祷をささげる「心」は日本中、世界中が持ち合わせているが、この日々を闘っていくのは彼ら自身である。この苦難の中にあって、生きていく上で、ねがわくば「心の平安」を持ち合わせてほしい・・・。自分自身の感情で、自分自身の経験と判断で、また物事への諦めで、漠然とした期待で、悲しみを乗り超えようとしておられる方々がいらっしゃる。日本の多くの人々が「鎮魂」の捧げものをし、亡くなった魂に向かって祈る。「見守っていてね。」と・・・。そう、私もかつて本当に、亡くなったかけがえのないその人そのものの存在に対して「感謝」「親愛」の情をいっぱいに抱えて、「自分をいつも見守り導いてくれる『神』」のような思いで手を合わせたい気持ちになった。

けれども今、私は「人」を拝むのではなく、『人』の魂を統べ治められる『神』に対して、その「鎮魂」を願い祈る。この私自身のすべてをご存じである『神』に、行く先の「導き」をすべてゆだねて「祈り」の中に歩もう。
自分勝手に祈るのではない。なぜなら、私には「祈る先」に「今も生きて導かれる聖霊なるイエスキリストの父なる神」「イエスキリストご自身」がおられる。主に祈る時には、もちろんこの弱い罪の身を嘆き、主のみこころに叶っていないであろう自分を懺悔すると共に、『神にできないことはない』とのみことばに立って、主に信頼して「願うものをなんでも求める」「みこころにかなうことは必ずかなえられる」「主を愛する者を主も必ず愛してくださる」・・
と、すべては「みことば」に立って、物事を捉えていく。

世の中は違う。価値観はいろいろある。けれども、私自身は、救い主イエス様の教えに従いたい。

小2の息子が突然言った。「ママは、正しいことをしてるよね。」「まっすぐだよね。」「聖書を読んでいるよね。」
機嫌が良かったのか、ママの喜びそうな言葉を知っているのか、わからないけれど、そういう「感じ方」をしてくれているのなら、本当に感謝である。

主に対して時々疑い深くもなる、とても不信仰な自分だけど、「神様」を求め
続けていきたいこの気持ちに、主は「応答」をして下さっているように思う。
そんなことがわかると、この心には「平安」が与えられいることを感じる。

『たいせつなことは多くはない。一つである。』
イエス様が言われた『大切なこと』を『大切にしていく』人生を選びたい。

ただ主の言葉を聞け

迷いの生じやすいこの頃・・・
信仰に対しての喜びよりも、あれこれあれこれ、自分の見聞きする事や
心に思う感情によって、神様のみことばにしっかり聴こうとするまっすぐな
思いがそがれていた。もちろん、否定するのでも混乱するのでもないが、
ただまっすぐに「みことば」に励まされ、聖霊の導きを信じゆだねる気持ち
よりも、「神様はいるにしても、自分の思いこみが強いんじゃないか」とか
「世の中に、見えない神様を証明することは出来ない。これはあくまでも
個人的な「自分の生き方の選択」であって、無二の真実とは違うのでは?
・・・」なんて。
イエス様がピュアで美しすぎて、それなのに歴史上の教会やクリスチャンは必ずしも美しくなくて、そう、今この自分自身も決して美しくなくて、こんなんで良いのか?大丈夫なのか?という
「あなたは信じたのだから救われています。」「信じない者は、決して救われず滅びます。」という対比の強力なメッセージが、私の弱い心を混乱させていた。

今日、エレミヤ34:4「ただ主の言葉を聞け。」に出会った。
歴史の悲惨も、すべて神のみこころのうちにあったという。

我が子を殺され、目をえぐられても、その王は「平和のうちに死ぬ。」と約束された。成就したという。

たとえ、悲惨の中に置かれても、神が捉えてくださる以上、神の約束がある以上、「平安である」という。

病気でも、障害でも、戦争でも、死の時にも、「神による救いの約束」の中に
あって「いのちの書」に名前記されている以上、その人は「平安」なのだという。

人間は塵にすぎない。神の被造物。罪の入った「滅ぶべき者」
ただ救い主イエスを信じる者だけが、救われる。

私は、自分の信仰を人に押しつけることはできない。自分の信仰を表すことは
できるだろうか・・・。教会の中、兄姉の中、ゴスペルの中ならできる。
地域ではできない。世の中ではできない。家族にもできない。

ただ、息をしてするべきことをして、生かされているだけの私です。
ただ、頭の中でいろいろなことを思いめぐらせるだけの私です。

ただ、主の言葉を聞け。
ただ、主の言葉を聞きたい。それが、できたら平安にちがいない。

だけど、洗脳なんて嫌だ。洗脳なんて今流行の、偽預言者のしている悪業。
私の出会った、主イエスキリストは「偽預言者」ではない。
「神様の御子」「私の罪の贖い主」!!!

だから、私はただ、私の主の言葉によってもっともっと導かれたい。
生ける聖霊なるキリストに導いていただきたい。今、一番ほしいのは勇気です。イエス様としっかり歩む勇気です。イエス様、助けて下さい。
思い患いから解き放ちたまえ・・・。

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