にこの虹色定期便

いつの時にも、神様のみことばを聞き、みこころを尋ねる自分でありたい。

ざわざわ

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高ぶる心は罪の元凶

驚くことが起こった。自分自身が原因で、家族をとても傷つけてしまったことがわかった。

自分は、心に主の愛をいただいて、人に親切に優しくできるように(そのことが主の証になるように)と

願っているし、なかなかそんなに完全な善人になれないことはわかっていても、せめて自分の身近な人に

は『少しのことで怒ったりしまい、理解のある善い態度』でいようと思っていたはず・・・。


でも、私自身の心には『おごり、高ぶり』がまんまと巣くってしまっていたのだろう。恐ろしい・・・

自分が『聞いた』と思っていた言葉は、自分の中でいつのまにかすりかわり、(すり替わって何の得もな

いけれど)イメージで『聞いたこと』が誇張され、変容して自分の脳にインプットされたようだ・・・。


それで、「〜じゃないの?」と軽口を発したものだから、それが単なる噂話というような消えてなくなる

事柄ではなくて、大切な人の大切な『人生の一コマ』をねつ造するようなことになってしまい・・・


とにかく混乱と怒りを与えてしまった。私の口が(心にしめていたこと)がなんだったのかを、冷静に

振り返ってみると、『自分の愚かさ』を改めて思い知る・・・。


即座に、誤解と困惑を与えてしまった相手に詫びの電話を入れたものの・・・

とりあえず、『私を受け止める愛』によって『その件についてはわかったよ。』と応えてもらった。

今後、自分の言動が他人を傷つける可能性が大いにあることを肝に銘じて、『口先だけの信仰』を試され

ようとしていることを感じて、静まって慎んで、主を仰ぎたいと思う・・・。

自分目線からばかり物事をとらえていると、なかなか相手や周囲の人の気持ちはわからないし、とても
理解したり寄り添えたりしたものではない・・・。どうすればよいのか・・・。

私の主は、胸の中でもやもやと葛藤していることをすべて知っていて下さる。ゆえに、この者に欠けている『反対者の胸の内』をおもんぱかるようにと、この世に生を与えられてからの年月、知りうる限りの現実を思い起こさせ、自分にしてもらった事、自分には手の届かないところで苦しんだり傷ついたりしたであろうこと、自分には痛くないが本人には痛かったこと、そして、『赦せ赦せ』と言われても、そうできない!人それぞれの『傷の疼き』というものが、人間にはどうしようもないということを改めて思い巡らせる・・・。

やはり、この人間の苦しみを癒されるのは『神様』のみだと、私は改めて思う。だから、私たちの信仰を理解してくれない!などと悩むこと以上に、それぞれが、生き様の中で『言い表せない苦しさや葛藤』の中に必死で生き、神様はそんな我々を『救うべく愛しておられること』について、しっかりと胸に刻み、
この信仰に生きる喜びを、相手を傷つけないように配慮しながら、生きていかねばと思う。

やがて、いつの時にか「神様はどんなことをしてくれるのか?」と問われた時に、心から伝えられるように私は祈っていきたいと思う。

聖霊様の御導きに感謝をささげます!

頭というか心が混乱している・・・
私を産み育て、愛情を持ってこれまでかかわってきてくれた肉親。情という面においては世の誰よりも自分の事、自分の家族のこと、一番近い存在として『親身な存在』である。

しかし、信仰という面においては全く相いれない。正反対の価値観であるがゆえに、これまでもオブラートに包むように極力『宗教』の話はしない!という暗黙の了解の中で、数年をすごしてきた。

ことさら感情的な母親にとっては、娘がクリスチャンになったこと自体に相当の葛藤があったが、仕方がないということで、年月をかけて私の生活、子育てについて見守ってもTらう中で『教会』への不信感や
信仰生活への偏見はうすらぎ、時々メールでやり取りした中では、「初めは心配したけど今ではそう思わない。娘が真剣に追い求めているものを見ているだけです。」という返答をもらっていた。

ところが、10歳の息子の洗礼を知るにあたって、母親と妹が大反発をおこした。これは、成人しない年齢の子供に『自分の宗教』を選択する能力はない、その責任は重大である!というスタンスである。確信のある『宗教』をもたない彼らの困惑でもあろう・・・。
「お姉ちゃんは○○(息子)の人生を奪った!牧師になるしかない!」という叫びは、本当に愚かしいことではあるが、そのくらい『キリスト教への入信』が世の中で生きにくいこと、変わり者のレッテルを激しくもっていることが露見した。ふだん、接触の機会もなく、私にあまり自分の感情を表に出すことのない妹が、正面から激しく『私が我が子に伝え教えているキリスト教信仰の素晴らしさ』を否定したことは
私にとって少なからず痛みとなった。しかし、同じかそれ以上に心を痛めたのは妹自身だと思う。

なぜなら、彼女は本人の意識の中にはすでに無いくらい過去ではあるが、母親に軽い気持ちで教会学校に送られ(ミッションスクールに行っていた姉の私に幼い妹を託していた!)、毎週、真剣に聖書の話を教わり祈りを教わっていた時、正月に近所の神社に行き「偶像は拝まないよ」というその素直な表明に恐れ戸惑った母親によって、教会からイエスキリストから『断絶』をさせられた過去がある。

『日本人としての価値観、アイデンティティ、常識』をもつことに固執するあまり、心の奥底で求めようとする『真実』への扉を固く閉ざそうとする葛藤。

もはや、妹は両親との『家族』の生活を平穏に過ごそうとするだけに精一杯で、(無心で)時間を重ねていくであろう。「この家族の価値観を乱さないで!」とはっきりと表明され、私は『価値観の異なる
よそもん』であることをつきつけられた。

逆に息子への洗礼をどうあっても理解されず、責め立てられた時に私自身が発したのは「だって、私たちの家庭の日々の営みを知らないでしょ。私たち家族の歩みの中で、こうなっていったのだから。」と語ったはず。お互い様なのだ。

実家の人々とは世に或る肉親として、絆をもって支え合い愛し合ってきたつもりだし、そうある中に主の
証ができればと思っていたが、このことの上にもきっと何かわからないが、主の導きがあることだけを信じて、私は自分の中に与えられた信仰によって、万物の創造主、罪からの救い主、今や私の心に来て下さる聖霊なる神様により頼んで『自分の歩む道』をそばに置かれた家族の者たちと営んでいくことしかないと思う。決して、諦めたり、落胆したり、恨んだりすることが主の御こころでないことは明らか。
ただ、主に従い生きようと思う。

主のための迫害

洗礼を受け、純粋に信仰をはぐくみつつある息子に対して、身内からの激しい反対が勃発した。

それは突然にきた・・・。そもそも、『福音』を理解されない親族に対してはかえって混乱させることを

おもんぱかって、しかし、その理解を得たうえでの『洗礼』ということでは、息子の心におこされた

『まっすぐな信仰』に水をさすことになるという判断で、実は伝えていなかった。


案の定、『宗教』の価値観の異なる実家の者にとっては、子供の洗礼を「親の押しつけだ。」「将来の選

択を狭めた、人生を奪った。」とまで言われる・・・。あまりにもクリスチャンの姿を知らない、『恐

れ』の姿を見た。そして、黙ってその攻撃を聴いている私に「何を言ってもわかっていない。」「聞く耳

がない。」「(自分側の日本的な価値観を)まったく受け入れない様子がこわい。」などと、大変に狼狽

していた。


「もうそろそろ、日曜学校に行くのはやめて離れたほうがいい。」「子供には聖書の話をしないよう

に。」という言葉には、「それは、できないよ。」とはっきり答えていた。母は「なんでよ?!」と叫ん

でいた。「洗礼を受けたの?」なかば恫喝のような言われ方に、私は「怖くて答えられないよ。」と言っ

た。次の瞬間、大声で悲鳴のような声があがり、「子供の人生をつぶした!」とはきすてられる。「刺青

のようにもう一生消えないんでしょ?」すごく困惑していた。哀れなほどに混乱していた。


イエス様の福音を知らない、恐れて受け付けない、かたくなな心・・・それを『罪』というなどと

私の口は今決して言えない。どうか、聖霊様のお働き掛けによって、その心の内側の『かたくなの罪』を

溶かしてくださることを、まずは願い求めます・・・。


「自分の不徳の致すところでの苦しみではなく、主の御名のための苦しみを受ける時にこそ、主をあおぎ

呼ぼう。そこに大いなる主の慰め、救いがある!」と昨日の礼拝の説教だった。このことも、主の私への

御計らいと受け止め、感謝してゆだねて、また祈って「自分の感情によらず聖霊のはたらきにゆだねる」

ことに集中したい。

思いがけない現実

思いもよらない事態は、突然にくるものだ。

その事態に、どのように迅速にまた正しく対処できるのか、もし、瞬間に戸惑ったり鈍かったりしても

すぐに、なすべきことが与えられて、逃げずにひとつひとつを受け止めていくには、

なによりも『謙遜』『素直』ということが必要。


私自身も、『感情』『思い込み』に左右されやすい自己中心の罪人としての自覚をもち、

こんな時に、ただ感情で動いたら決して『正しい道』には歩めないことを(主によって)知っている!



だから、とにかく私の心は「主よ」と求めていただろう。だろう、というのは、自分自身が何か呪文や

儀式めいたことをしたということではなく、ただ心に必要なのは『主の導きと助け』であることを

知っていただけで、(それでも何度か手を組み、主に対して祈りを捧げたことだけだろうか・・・。

あまり意識的なことではない気がする。)この真意をすべてご存じの上で、求める者に『与えられる』

主が、イエス様のとりなしが必ずはたらいて、私を守ってくださると信じる。



私は、夫の職場での失態によって途方に暮れはしたが、しかし倒れないでいる。

このミスが、今後もたらす影響を、今ははかり知ることはできない。

今、私たち夫婦に最も必要なものは『謙遜』

単なる反省、謝罪ではない。もちろん、結果的に社会的に「謝罪」という形での表現になるのであって

心に『おごり』『慣れと怠慢』が生じたことを、正直に認めて受け入れなければならない。そういう

弱い者であることをしっかりと、見つめなければならない。

そして、私が妻として彼にかけた言葉は、そんな『弱さ』をかさにきて『情に訴える女々しいこと』は

しないでほしい、ということだった。これは、20年も連れ添ってきた者の『言い分』である。


昨夜私は、このままでは自分の感情に勝てないこと、相手を攻め立てるという最も『悪魔』の喜ぶ方法へ

誘導されそうな自分を恐れ、何とか『主の愛』にすがりたかった・・・。


自分の無意識に与えられた方向として、まず「自分の怒りの感情と戸惑い」を訴える主の姉妹が与えられた。

そして、姉妹からの(友人としての見解や助言)は私の気が付かない事や現実的な視点での心構えだった

ので、私は感謝をもって参考にすることができた。また、せまりくる『現実』というものに対する認識

は、専業主婦の私にはわからない社会人の助言だった。とてもありがたかった。私自身に、「必要」が与

えられた気がした。しかし、助言の中で私たちにそぐわないものもあったので、そこは自分なりの方法に

変換することもできた。


直接、話をするのは互いによくないという夫婦ならではの判断から、(べんりなツール)メールで、今の

自分の心境と今後についてを伝えた。

その中のキーワードは自分自身でも驚くもので・・・『私はあなたの味方でいたい。』という言葉。


ああ・・・主よ。私が抑えきれない『夫への苛立ちと攻撃』に支配されそうだった時、心の奥底で求めて

いた『アガペーの愛』(主の愛)をあなたは私の心に与えられました。祈りに応えて下さる主よ・・・


そして、夫はメールをうつのもおぼつかないためか、紙切れに「ありがとう。」と書いて私の枕元に

おいて行った。



私は今朝、夫と向かい合い、「今後どうなるかわからないけど、何よりも自分でなく職場に

『被害』のないことを願おう。そして、どんな処遇も素直に受け止めよう。もしも、お咎めだけで済めば

心から感謝して、あと残りの勤務を誠実にやってくれればそれだけでいいよ。」と言えた。


私は今回の件を通して、自分自身も『捨てなければならない』ものが一つ示されたので、それを素直に

『捨てよう』と思わされている。感謝して、そのことを『手放そう』としている。

神様が、見ていて下さって、従うものに『祝福』を『必要』を与えられるので。

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