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三刀屋久扶(?-1591)三刀屋頼扶の子。新四郎・弾正忠・久祐。尼子十旗のひとつ、三刀屋城を守った。吉田郡山合戦の敗戦後大内氏に寝返り、大内義隆が出雲侵略に失敗すると再び尼子氏に帰順する。その後、毛利元就の侵攻に際して毛利に帰順、以後は毛利家に忠勤を励むが、晩年には毛利輝元に疑われ、追放された。
三刀屋氏は諏訪部氏ともいい、清和源氏満快流の信濃源氏の一族とされています。 初代は諏訪部幸扶で、その子孫が出雲国飯石郡の三刀屋郷の地頭職を得て出雲に下向し、地名によって三刀屋を称したのが三刀屋氏の始まりです。 三刀屋氏は出雲に入ると、塩冶氏、山名氏、ついで京極氏に従い、被官化していきました。京都で応仁の乱が勃発すると、出雲守護・京極持清に従って三刀屋氏も奮戦しています。 文明16年、幕府より尼子経久討伐の命が発せられます。三刀屋氏は三沢・朝山・古志などの各氏とともに富田城を攻撃して経久を追放しますが、やがて経久は富田城に帰り咲き、三刀屋氏も経久の力量を痛感して経久に帰服しました。 以降、三刀屋氏は尼子家臣として活躍することになります。 享禄元年(1528)、父・頼扶より家督を継いだ久扶は、天文9年(1540)、尼子晴久に従って毛利元就の拠る吉田郡山城攻撃に参加します。篭城する毛利軍に対し尼子軍は苦戦しますが、そんな中にあって久扶は土取場の合戦に活躍します。 しかし戦況は思わしくなく、翌年に来援した陶隆房率いる大内軍に敗れた尼子勢は出雲に逃げ帰ることになります。 これにより晴久の器量に危ういものを感じた久扶は、三沢氏など他の国人たちとともに大内氏に通じ、大内義隆の出雲侵攻を招きます。しかし、天文12年(1543)、富田城を攻めあぐねる義隆に失望した久扶は、再び尼子方に復帰しました。 その後、尼子晴久は国人たちの統制に腐心します。その一環として遍諱(名前の一字を授ける)を与えるということをさかんにし、弘治3(1557)、久扶も晴久から遍諱を受けています(久扶の「久」はこのとき授かったもの)。 しかし、久扶にとっては領地が増えるわけではなく、少なからず不満が残ったようです。 ともかく、久扶は以後しばらくは尼子氏に服属しました。 永禄元年(1558)、毛利元就が石見の攻略に取りかかると、晴久みずからが兵を率いて出陣、久扶もこれに参加して大森銀山をめぐる戦いが行われます。 尼子勢は善戦して毛利勢を撃退しますが、永禄三年(1560)、尼子晴久が死去して嫡男の義久が尼子氏の当主となると、国人たちは若い当主の器量を不安視し、一気に動揺します。 そして永禄5年(1562)、石見銀山を守る本庄常光が毛利元就に寝返ると、久扶も三沢為清らとともに毛利に帰順しました。その後、常光は元就によって誅殺されましたが、そのまま毛利に対して忠勤をはげみます。 久扶の拠る三刀屋城は、毛利軍の出雲攻めにおいて重要な兵站基地となりました。 このため三刀屋城は尼子方の熊野入道西阿や立原久綱らの攻撃を受けますが、久扶はよく守り、同年12月には八畦峠で熊野西阿を、翌永禄6年(1563)には地王峠にて立原久綱を破ります。 久扶助は続いて白鹿城攻撃でも軍功を立て、富田城包囲戦にも参加、三沢為清・米原綱寛らとともに小早川隆景の陣に属して、菅谷口の先陣をつとめました。 そして永禄9年(1566)、ついに富田城は陥落して尼子氏は滅亡に至ったのです。 永禄12年(1569)に尼子勝久が入国した際にも、依然として毛利方に忠勤をはげみました。もっとも、勝久入国の際にはこれに帰順する動きをみせたものの、尼子旧臣たちからその忠誠ぶりを疑われ、拒絶されたために毛利側にとどまったとも言われています。 尼子再興軍はいったん出雲から敗退したものの、天正2年(1574)から3年にかけて、因幡の各所において毛利氏との戦闘を行いました。久扶は吉川元春に従って、私部城に籠る尼子氏と戦っています。 なお、このとき平田に出頭して毛利輝元への忠誠を誓約する起誓文を提出していますが、毛利氏からの軍事動員を忌避することもあり、なお自律的性格を保っていたようです。 また久扶は天正元年(1573)に天台座主補任問題に尽力し、正親町天皇より毛氈鞍覆弓袋などの使用を許可されています。 私部城を落された尼子軍は羽柴秀吉の旗下に属し、天正6年(1578)には上月城に入って毛利氏と対峙します。この上月城攻めにも久扶は参加しますが、秀吉の撤収によって孤立した上月城は落城、かつての主・尼子氏はまったく滅亡しました。 その後、毛利氏は秀吉に帰服し、天正14年(1586)には久扶も秀吉の命を受けて九州に出陣、毛利氏に従って小倉城の戦いに参加、肥後で国衆一揆が起こると、久扶は子の孝扶らとともに、一揆鎮圧に働いています。 天正16年(1588)、毛利輝元、吉川広家、小早川隆景が上洛した際、久扶もこれに同行し徳川家康と面会したといわれています。そしてこの家康との面会を輝元に疑われ、ついに三刀屋郷を没収、追放されてしまいました。 しかし、実は久扶が京都に上ったという史料はなく、さらに家康に拝謁したとする記録もありません。現在では、外様である三刀屋氏は毛利氏にとって邪魔な存在になっており、加えて三刀屋城の戦略価値の高さなどから、毛利氏は機会をみつけて三刀屋氏を追放しようと考えていた、とする説が有力です。 ともかく久扶は父祖代々の地を失い、天正18年(1590)、三刀屋を退去しました。
その後、久扶は京に上りましたが、この久扶を徳川家康が八千石をもって仕官を誘ったといわれています。しかし、久扶はこれを断わり、四日市村で静かに亡くなったと伝えられています。 |
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三刀屋城の戦略価値、兵站基地として確かに重要ですね。
毛利方が早く入手、独占したいと考えても
おかしくはありませんね。
三刀屋は重要な場所でうまく生き抜いて、毛利に忠勤を励んでも
最後は切られるのですね。
頼の字に清和源氏の流れを感じます。
毛利に信濃源氏の井上党もいますしね。
ぽち★
2008/11/21(金) 午後 5:46 [ - ]