山中御殿

基本、携帯で投稿・閲覧してますので、一部機能が認識できませんです。

全体表示

[ リスト ]

毛利元就

毛利元就(1497-1571)毛利弘元の次男。母は福原広俊の娘。松寿丸。治部少輔・右馬頭・陸奥守。妻は吉川国経の娘(法名・妙玖)。兄・興元の没後、その子・幸松丸の後見となり、幸松丸の没後家督相続。北の尼子、西の大内の二大勢力に挟まれ巧みに両者の間を行き来しながら勢力を拡大、陶晴賢が大内氏に謀反するとこれを打倒し、ついで周防・長門二国を平定。続いて尼子義久を降伏させて中国地方10カ国をほぼ平定した。

 毛利氏は、大江広元の末裔といわれ、広元の子・季光が相模国毛利荘に住して毛利氏を称したのがはじまりです。その後、時親のときに将軍・足利尊氏より安芸国吉田荘の地頭職に任じられて安芸に下り、以降安芸の国人として勢力を伸張していきました。

 明応9年(1500)、父・弘元は嫡男・興元に家督を譲って多治比猿掛城に隠居します。弘元は当時まだ33歳、当主となった興元もいまだ8歳でした。
 元就は父母と共に猿掛城に暮らしますが、文亀元年(1501)に母が亡くなり、続いて父・弘元も永正三年(1506)に死去してしまいます。
 さらに永正4年(1507)、兄・興元は足利義稙を奉じた大内義興に従って上洛、元就は孤独の身となります。
 これをいいことに家臣・井上元盛が猿掛城を横領、永正8年(1511年)に元盛が急死するまでの間、元就は城を追われてしまいます。

 永正12年(1515)、兄・興元が大内氏に謀反した武田元繁討伐のために帰還しますが、翌永正13年、24歳の若さで死亡してしまいます。
 毛利家は興元の子・幸松丸が2歳の若さで継ぐことになります。元就は、この幼い当主・幸松丸の後見人となりました。

 永正14年(1517)、武田元繁が元就の居城・猿掛城近辺まで進撃します。元就勢はこれを迎撃、武田勢の熊谷元直を打ち破りました。これに対し武田信繁は自ら軍勢を率いて反撃に出ましたが、深追いした元繁は元就勢の放った矢にあたって落馬、討ち取られてしまいます。当主の戦死で武田勢は総崩れになり、この戦いで毛利元就の名は広く知れ渡りました。

 その後、元就は吉川国経の次女と結婚します。武家社会の通例で名は伝わっていませんが、後年、元就自身は書状において法名の「妙玖」で呼んでいます。

 長男隆元が生まれた大永3年、大内氏の属城・鏡山城(東広島市鏡山)が、尼子経久の攻撃を受けます。
 吉川氏は、国経の姉妹が経久の妻であった関係上、尼子側につき、毛利氏もまた吉川氏のつながりから尼子氏に従いました。
 経久は9歳になった幸松丸に対して先鋒を要求し、後見役の元就は吉川国経らとともに鏡山城攻撃に加わり、調略をもってこれを陥落させました。

 ところが、同年、毛利当主・幸松丸が鏡山城攻めでの心身の疲労が原因で病死してしまいます。そのため、元就は宗家の当主として郡山城に入城します。
 元就の相続はすんなり運んだかに見えましたが、元就の異母弟・相合元綱を当主に据えようとする陰謀が発覚しました。
 これは重臣・坂広秀と渡辺勝一派のたくらみでしたが、元就暗殺は未然に阻止され、元綱ならびに坂広秀、渡辺勝も断罪されました。

 大永5年(1525)、元就は尼子から離反し、大内側に帰属します。

 天文2(1533)年、元就は宿敵であった五竜城主・宍戸元源と和解して娘を元源の嫡子・隆家の妻とし、さらに尼子方武田氏の傘下にあった三入高松城主・熊谷信直を配下に置いて、その娘を次男・元春の妻とするなど、戦略上重要地点にある両氏を、巧みに陣営に組み込んでいきました。
 その後、備後に影響力を多賀山氏の蔀山城などを攻略、大内氏の勢力を利用しながら備後、安芸両国に影響力を及ぼすまで成長していきます。

 とはいえ、毛利氏はいまだ大内・尼子両大国に対抗するほどの力はなかったため、離反した尼子氏に対しても年頭あいさつの使者を交換したり、享禄4(1531)年には尼子晴久と兄弟の契りを結ぶなどしています。

 尼子晴久はそんな元就の曖昧な態度を許さず、天文9年(1540)、ついに晴久は大挙して元就の本拠・吉田郡山城を包囲します。しかし、陶隆房(後の晴賢)に率いられた大内軍が来援、尼子軍は大敗北を喫し出雲に逃げ帰りました。

 天文12年(1543)、勢いを失った尼子氏を一気に滅ぼそうと、大内義隆が尼子氏の居城・月山富田城(島根県安来市広瀬町)を攻撃し、元就もこれに従いました。
 しかし、大内軍は堅城・富田城を攻めあぐね、愛想を尽かした吉川興経らが尼子氏に寝返ってしまいます。このため大内軍は攻略をあきらめて総退却し、追撃してきた尼子軍と戦って大敗北を喫してしまいます。
 元就も尼子勢の執拗な追撃にあいましたが、異母弟・相合元綱に加担して断罪された渡辺勝の子・渡辺通が元就の装束を身にまとって囮となり、そのおかげで無事郡山城へ帰還できたといわれています。渡辺通は討死し、元就はその遺族を手厚く遇しました。

 その後、小早川家の分家、竹原小早川家の当主・小早川興景が病死し、天文13(1544)年、元就の三男・隆景が後継者として木村城に入ります。
 この前年、小早川宗家の高山城主・小早川正平が大内氏について尼子氏攻めに参加して討ち死にし、嫡男・繁平が宗家を継ぎました。
 ところが、元就は「繁平は盲目で当主は務まらない」として強引に繁平を隠居に追い込み、隆景を繁平の妹と結婚させて両家を合体させます。これは言いがかりであったとされていますが、ともかく天文20年、隆景は繁平に代わって高山城に入城し、両小早川氏を統一しました。

 天文14年(1545)、毛利元就の愛妻・妙玖が亡くなります。この翌年、五十歳になった元就は家督を長男・隆元に譲りました。
 家督相続後も元就は依然として実権を持ち続けました。ただし、二人は役割分担をしており、隆元は領国内の行政、元就は外交・合戦などの対外戦略を指揮しました。

 元就は毛利宗家に害を為す者を徹底排除しようとします。天文19年(1550)の井上一族の粛清などがそれです。
 その後、元就は大内の援軍を得て尼子勢力の強かった備後国制圧に従事、天文18年(1549)ごろにはほぼ備後を平定します。

 天文19年(1550)、二男・元春が、妙玖の実家・吉川氏の養嗣子となって小倉山城(山県郡大朝町)に入ります。
 吉川氏の当主・興経は寝返りを繰り返したため、興経の叔父・経世らがその器量に不安を感じ、元就に元春との養子縁組を持ちかけたものです。
 興経は毛利氏領内の布川(広島市安佐北区上深川町)に幽閉の形で隠居、その後、幽閉先で元就の刺客の襲撃を受け、殺害されます。
 以後、吉川元春は毛利両川の一翼として、主に山陰の軍事を担当することになります。

 天文20年(1551)、大内義隆・義尊父子が陶隆房に殺害され、翌年、義隆の姉の子で、豊後の大友義鎮(宗麟)の異母弟・晴英が大内家を継承しますだった。隆房は名を「晴賢」と改めます。

 この間、元就は安芸国内の大内勢力一掃を狙い、頭崎城、鳥篭山城などの諸城を次々に攻略、さらに備後の山内氏や多賀山氏なども勢力圏に入れて尼子氏への備えとし、芸備のほぼ全域を掌握しました。

 天文22年(1553)大内義隆の姉婿にあたる津和野三本松城主・吉見正頼が、義弟の復しゅう戦に立ち上がります。
 吉見正頼、陶晴賢の双方が毛利氏へ支援を要請してきます。当初元就は、晴賢への義理立てを主張しましたが、当主・隆元は強行に打倒晴賢を主張し、結局隆元の意見が通ります。
 翌年、元就は晴賢に反旗をひるがえし、大内氏の支配下にあった銀山、己斐、草津、桜尾の四城を攻略。さらに、厳島に兵を入れます。

 弘治元年(1555)年、元就は厳島東側の要害山に宮尾城を建設、陶軍はこれを知り厳島に大軍を送り込みます。両軍は、わずか700m離れて対しました。
 合戦がはじまり全力で宮尾城を攻める陶軍を、元就は海上からの奇襲で挟み撃ちにします。
 このとき元就は、小早川隆景の尽力で兵員輸送の要として瀬戸内に勢力を誇る村上水軍の来援を得、勝利を得ました。村上水軍はギリギリまで態度を明らかにしなかったため、この作戦は元就にとって賭けでもありました。
 結局、水軍が元就に味方したことで陶晴賢は敗れ、自害して果てました。

 晴賢を屠った元就は、周防、長門二国へ一気に侵攻、追い詰められた大内義長(晴英)は自害して果てます。義長の兄・大友義鎮は、元就の「九州の大内領は切り取り次第」 との言葉で義長を見捨て、援軍は送りませんでした。

 こうして大内氏を滅ぼした元就は、尼子氏へと矛先を向けます。
 永禄5年(1562)、石見の国人衆を支配下に収めた元就は、尼子氏攻撃の矢を向けます。これに対し、気脈を通じた尼子氏と九州豊後国の大友氏が連携し、大友氏は、毛利氏領域の豊前国に進撃、刈田松山城を攻めます。
 元就は、防長西端と出雲地方の二手に分かれて合戦を強いられました。

 そこで元就は、将軍・足利義輝から勧告を受けていた和睦交渉を利用し、永禄6年(1563)、大友氏の和睦を成立させます。
 こうして元就は尼子氏殲滅に乗り出しますが、元就本軍に合流するはずだった隆元が、備後南天山城主・和智誠春の供応を受けた後、急死してしまいます。死因は食あたりとも、毒殺ともいわれています。

 元就は弔い合戦とばかりに尼子の要衝・白鹿城への総攻撃をしかけ、これを落とします。
 元就は、新たに当主となった隆元の子・輝元の後見となり、永禄8年(1565)、十三歳で元服した輝元が出雲攻略戦に参加します。

 白鹿城を落とした元就は、尼子氏が命綱としている海、陸からの兵糧搬入路を断ち切るために伯耆、因幡の属城を次々に落とし、さらに月山周辺の穀倉地で稲や麦を薙取り、収穫できないようにして富田城を兵糧攻めにします。
 孤立無縁の尼子勢はゲリラ戦で突破口を開こうとしましたが、もはや毛利軍の完全な包囲網を崩す戦力はなく、永禄9年(1566)、ついに全面降伏して富田城は開城されました。

 宿敵・尼子氏を撃破した元就は、永禄10年(1567)、吉田郡山城に凱旋します。
 しかし、その後も戦の火種は尽きず、道後湯月城主・河野氏応援のための伊予に出陣、大友義鎮との筑前立花城をめぐる争奪戦、それに、大内、尼子両氏の残党ほう起など戦局は拡大していきます。
 そのため、永禄12年(1569)、元就は老体にむち打って大友氏と対決するため、輝元とともに長府に赴きます。しかし、翌年、輝元を残して元就は吉田に帰還し、その後病の床に伏します。

 そしてついに元亀2年(1571)、尼子勝久・山中幸盛らの尼子再興軍の殲滅にめどが立ったころ、元就は本拠・郡山城亡くなります。享年・七十五歳でした。
 法名は日頼同春大居士と伝わっています。

この記事に

閉じる コメント(8)

顔アイコン

戦国武将の西国の雄、登場!毛利が勢力を飛躍的に拡大できたのも、元就の政治手腕の賜物。権謀術に優れ戦上手。村上水軍との連携で信長のお膝元、堺にも影響力があったらしい。戦国時代の巨魁の一人ですね!

2005/8/29(月) 午後 5:48 ゆーくんままま 返信する

あい〜、あまりマニアックな尼子武将をアップしても、「誰やねん?」といわれそうなんで、ロクさんのリクエストもあったことだし、ビッグネームを出してみました。

2005/8/29(月) 午後 10:51 佐々木斉久 返信する

顔アイコン

いきなり大物の登場ですね。元就の生涯を見ていると、徳川家康によく似ているように思うのですが、ササキさんは如何お考えでしょうか?

2005/8/30(火) 午後 8:51 [ mannennetaro2005 ] 返信する

>mannennetaroさん そうですねぇ、家康と元就ですか。正直、考えても見なかったなぁ…元就は大内強に服従しながら、陶晴賢の乱を期に「主君の仇討ち」の名目で一躍勢力を拡大していますよね。そう考えると、出世の仕方は秀吉に近いなぁと私は考えたりしました。

2005/8/30(火) 午後 9:38 佐々木斉久 返信する

顔アイコン

元就コワ!! 元就の後継者があれじゃなかったら、天下を取れてた”かも”しれませんね。信長にも負けて、家康にも負けた・・。2回チャンスはあったんですからね。。まあ所詮”かも”どまりですけどね。確信はまったくなしw

2005/8/31(水) 午前 5:14 ヒロ 返信する

>ロクさん いやぁ、輝元は、あれはあれでそれなりの人物だったとは思いますが…ただ、天下の器ではないことは確かでしょうね。元就とちがって人が良すぎましたから。

2005/8/31(水) 午前 8:40 佐々木斉久 返信する

すごいこれを書くのは大変だったでしょうね。

自分もいつかは毛利元就公の専門ブログを立ち上げたいですね!
それまではこちらで尼子氏を勉強させていただきます〜(笑)♪

あまり知られてない所なのでブログにするのは
有意義だと思いますよ〜♪

毛利元就公ですら知られていませんから。。。

ぽち☆

2008/7/31(木) 午後 8:37 [ - ] 返信する

顔アイコン

>やまたろうさん
こんなふるい記事まで見つけてくださってありがとうございます〜
元就ブログ、出来るのを楽しみにひてますよ♪

2008/8/2(土) 午後 6:19 佐々木斉久 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事