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毛利隆元(1523-1563.8.22)毛利元就の長男。母は吉川国経の娘。備中守、大膳大夫。15歳のときに大内義隆のもとへ人質として赴き、やがて父の隠居に伴って家督を相続。尼子氏との戦いや厳島合戦に活躍するが、出雲遠征の途上、和智誠春の饗応を受けた後に急死した。毒殺説もある。
毛利隆元は、毛利元就の長男として生まれます。 隆元は父・元就とちがっていたって穏やかな性格であったといわれ、弘治3年(1557)に元就がすべての権限を隆元に委譲して引退することを告げると、この父親の突然の引退宣言に驚き、ろうばいした隆元は猛反対しています。 元春、隆景に書き送った書状には、「父が引退を思いとどまらないなら、自分も幸鶴丸(長男・輝元)に家督を譲って引退する。いっそ自分が死んでしまえば父は蟄居もできなくなる」(毛利家文書)と、当主の表現とは思えない気弱な面をのぞかせているのです。 しかしながら、これが隆元の無能さを示すものではありません。 隆元が元就から家督を譲り受けたのは母・吉川国経女(法名の「妙玖」で呼ばれることが多い)が死没した翌年の天文15年(1546)ですが、この時から隆元は領国内の治安維持や役人の任命、財政面などの権限を持ち、とかく戦略・外征に重点を置きすぎだった父に内政充実を諭しています。 後に隆元は急死しますが、その後、隆元が担当していた内政や家中引き締めを他の重臣が担当したところ、うまくいかなかったといわれています。 この隆元の内政手腕は、15歳のときから三年余りにわたって山口の大名・大内義隆のもとへ人質として預けられた経験から培われたものでしょう。当時、大内氏は西国随一の大名で、その内政統治は完成の域にありました。また、山口は西の京都といわるほどの文化大都市でした。 この大内氏の完成された内政・行政を吸収し、とかく国人頼みであった領国統治を改めることが国力充実の鍵であると悟っていたのでしょう。 また隆元は、人質生活において優雅な公家文化に浸り、書画修業にも励んでいます。滞在中には「鷹図」をはじめ、サギや自画像を描いた三点の日本画を残しています。いずれも、雪舟を師に仰ぐ雲谷派の力強い筆運びが見られ、隆元の画学修業の一端とその性格をうかがわせる貴重な資料です。 そしてこの時期、天文9年(1540)に出雲の尼子氏が毛利氏の本拠・吉田郡山城を包囲していますが、隆元は義隆に援軍を要請、結果として翌年正月には陶隆房率いる救援軍が出動して尼子軍を蹴散らしています。 そして天文10年(1541)、隆元は大内氏の家臣・内藤興盛(長門守護代)の娘と結婚します。なお、内藤興盛の娘は義隆の養女とされています。 天文15年(1546)に元就から家督を譲られたのち、天文20年(1551)に、大内義隆が陶晴賢(当時は隆房)により自害に追い込まれるという事件が起こります。このとき毛利氏は、陶氏の蜂起を黙認して恭順姿勢をとりました。これは父・元就の方針でしたが、隆元はこれに強硬に反対したと言われています。 やがて打倒晴賢を表明した津和野三本松城の吉見正頼(義隆の姉婿)が挙兵すると、毛利氏は正頼から支援を要請され、また同時に晴賢にも正頼打倒の加勢を求められました。 晴賢と敵対するかどうか、毛利氏の軍議が四カ月も続きましたが、父・元就は一貫して晴賢への義理立てを主張しました。 しかし、義隆を義父にもつ隆元は、家臣にあてた書面で「晴賢は主君を討った天罰を受ける。元就自身が晴賢応援に出向いても、生きて帰さない悪心を起こすはず」(毛利家文書)と、晴賢への憎悪をあらわにし、晴賢殲滅を訴えました。結局この隆元の主張に従う形で陶氏との対決が決定されたのです。 こうして毛利・陶両軍は弘治元年(1555)、厳島にて激突します(厳島合戦)。毛利軍は周到な準備を整えて陶軍を破り、陶晴賢は自害して果てました。 陶軍を破った毛利軍は、余勢をかって一気に山口を蹂躙、大内氏最後の当主・大内義長を自害に追い込んで大内旧領を併呑した毛利氏は、一躍西国の大大名へと成長しました。 隆元はこの九州戦線で大友軍と戦う一方、将軍・足利義輝から勧告を受けていた和睦交渉を利用し、講和に持ち込むことに成功しました。 永禄6年(1563)、出雲の尼子氏攻撃に集中するため、隆元は九州戦線の兵を率いて出雲へ北上を開始します。 この途上、隆元は備後国人・和智誠春から饗応を受けますが、その直後、にわかに急死してしまいました。死因は不詳ですが、元就は後に和智誠春、新三郎、湯谷又八郎久豊、湯谷実義らを討伐しています。 やはり、暗殺を疑ったのでしょう。 元就は隆元の死に衝撃を受け、愕然としたといわれていますが、同時に「ふがいない人物である」として、家督を抹消しています。
このため、毛利家の記録では隆元は毛利当主としては認められず、元就の次の当主は嫡孫・輝元となっっています。隆元が再び当主として認められるのは、江戸時代も中期に至ってからのことでした。 |
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なるほど〜!! 隆元は優秀だったんだ〜><b たしかに大内氏は政治面の腕前抜群でしたもんね。 そういうからくりだったわけね。納得( 〃∇〃)
2005/9/4(日) 午前 8:26
そうですね、とかく元就の偉大さの影に隠れてしまいがちですが、隆元も十分優秀だったんですよね。
2005/9/4(日) 午前 11:12
若死にしたこともあって、弟の吉川元春や小早川隆景に比べると、確かに影が薄いですね。隆元が健在であったなら、毛利と尼子との攻防も別の形になっていたことが十分に考えられるし、当然中国地方の戦国史もまったく違う形として残っていたことでしょう。
2005/9/5(月) 午後 8:43 [ mannennetaro2005 ]
その通りですよねぇ。尼子経久の長男・政久も早死にしていて、同じく文武に通じた良将だったようです。メインになった息子も政久含めて三人だし。なんだか毛利家と似てますよね〜。
2005/9/5(月) 午後 10:19
隆元毒殺説があり、初めは、元就は、自分が任命した付家老の赤川元保を疑って蟄居切腹させ、どうも違ったようだと思えば饗応した和智、湯谷兄弟を疑って誅殺している。大友宗麟と豊後で戦った疲労が重なって体調を崩していたのではないかと思う。元就も結構オッチョコチョイな面があって、誅殺された和智兄弟一族こそいい面の皮だよねえ〜。名門一族だったのに。。。
2011/11/3(木) 午後 9:58 [ 惣介 ]
>惣介さん
まあ、おそらく当時は「疑わしきは罰する」というカンジだったんでしょうからね…
死んだタイミングが悪すぎた、ということですよね〜。
2011/11/21(月) 午前 9:07
返信コメントどうもありがとうございました。
元就にも無実の兄弟、湯谷実義や実義の叔父で光清城主児玉将元をも
城攻めで誅殺してますが、一族の祟りが怖くて祠を建立して丁重に弔ってるんですよ。元就も、オッチョコチョイの上に、案外ビビリだったんですね。(笑)佐々木さんは、湯谷久豊の妻女、実義の母親は誰の娘かご存じないですか?前述の児玉将元が母方の叔父までしか判らないのです。判ってたら教えてくれませんか?
2011/11/21(月) 午後 6:51 [ 惣介 ]