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三沢為忠(?-1519.4.22)三沢信濃守為清の子。妻は亀嵩弾正小弼の娘。仙頭御所の院宣をうけて横田庄を地頭請所として支配、横田藤ケ瀬城を築いて割拠した。尼子氏と対立し、経久の富田城追放の際も、その中心的役割を果たした。
三沢氏は、一説によると木曽義仲の孫・為仲を祖とすると言われています。また、長府毛利藩の三沢家に伝わる史料などによれば、信州源経基の末子・満快の流れで、信濃国伊那郡飯島本郷に居館を構えた土豪・飯島氏がその祖とされています。 どちらにせよ清和源氏の系統であることには違いないようで、承久の乱に幕府方として出陣、乱後の論功行賞で出雲国三沢郷を賜り、三沢郷に下向したものと思われます。 そして嘉元3年(1305)ごろ三沢為長が三沢鴨倉城を築いて現在の雲南市仁多町・木次町湯村を領します。以後、農産と鉄資源を基盤に勢力を強め、仁多郡を中心に勢力を拡大していきました。 その後、三沢氏は出雲を支配した山名氏、そしてその後は京極氏に従いましたが、足利幕府からも有力国人と認められていたほどで、完全に服属したわけではなかったようです。 応仁の乱では、信濃守為清が京極氏に従って奮戦していますが、その従弟対馬守為信は国人一揆を束ねて京極氏やその守護代・尼子氏に対抗するなど、かなりの実力を有していたのです。 文明7年(1475)、為忠の父・為清は京極政経にしたがって六角高頼と戦いましたが、近江国弓削の戦いで戦死してしまいます。 為忠はこのあとを受けて三沢氏の家督を継いだものと思われます。 この頃、出雲国では守護代・尼子氏の力が強くなっていました。 しかし尼子氏は、打ち続く戦乱や一揆によって軍費が増大したことにより、京極氏や幕府より課せられた公用銭や諸賦役を滞納・懈怠するようになったのです。 このため文明16(1484)、幕府は守護代・尼子経久の罷免を決定し、出雲諸国人に出動命令が出されます。 為忠は、先の対馬守為信が起こした一揆を尼子氏に鎮圧されたという確執もあったため、率先して尼子氏追放のために軍勢を率い、三刀屋、朝山、桜井、塩冶、古志などの国人各氏を率いて月山富田城を包囲、尼子経久はなす術もなく城を追われました。 しかし尼子経久は、2年後の文明18年(1486)、早くも富田城に返り咲きます。 富田城を取り戻した経久は、出雲平定のためにその最大の障害・三沢氏の攻略にとりかかることになります。 三沢氏は強力な力を有していたため、経久は正面からの戦いを避け、家臣・山中満盛を偽って追放して三沢方に忍びこませまると、それから約2年の間、満盛は三沢氏に忠勤を励み、為忠の子・為国に気に入られた満盛は、経久打倒の策を為国に進言します。 これを承諾した為国は尼子の伏兵にかかって軍勢を壊滅させてしまい、やがて押し寄せた経久の軍に、為忠は為す術もなく降ったといわれています。 ただし、この話は『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』などの軍記物にしかないため、事実かどうかはわかりません。しかしながら、為忠・為国父子が経久に敗れ、その軍門に降ったことは確かなようです。 その後為忠は、永正6年(1509)、仙頭御所の院宣をうけて横田庄を地頭請所として支配し、横田藤ケ瀬城を築いてそこに移りました。 この横田庄は12世紀初頭から岩清水八幡宮の荘園とされ、14世紀には仙洞御所の御料所となりましたが、戦乱によって治安が悪くなったために、三沢氏を地頭請所として招くことになったものです。 このように三沢氏は、尼子氏に降ったあともかなりの力を有し、完全服従したわけではなかったようです。 そして永世16年(1519)4月22日、為忠は死去し、その子・為国が跡を継ぎました。法名は萬号院殿普叟覚永大居士と伝わっています。
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なるほど三沢氏も親戚系(清和源氏)だったのですね〜♪
「為国に気に入られた満盛は、経久打倒の策を為国に進言します。」
この辺りの謀略の部分を、大河ドラマでは利用(尼子経久の策
として)したのでしょうね。!(=^‥^=)b なるほどニャ
ぽち☆
2008/11/23(日) 午後 4:43 [ - ]