山中御殿

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毛利輝元

毛利輝元(1553.2.4-1625.6.2)毛利隆元の子。元就の嫡孫。母は内藤興盛の娘。幸鶴丸・少輔太郎。右衛門尉・右馬頭・侍従・参議・権中納言。出家して幻庵宗瑞。父・隆元の急逝で毛利家を継ぎ、出雲の尼子氏・九州の大友氏・織田信長などと戦い、後に豊臣秀吉に属して五大老のひとりとなる。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将に担がれたため、戦後に敗戦の責めを負って防長二州に減封された。その後、長門萩に居城を構えて藩政の立て直しをはかった。

 毛利輝元は、祖父・元就が築いた広大な領土を関ヶ原の一朝にして失くした、凡庸な当主と思われがちです。果たしてその評価は正しいのでしょうか。

 輝元は、永禄6年(1563)、父・隆元が急死したことにより家督を継ぎます。
 このとき輝元はまだわずか11歳であったため、祖父・元就や叔父・吉川元春、小早川隆景の後見を受けました。「輝元」の名乗りは、将軍・足利義輝の偏諱を受けたものです。

 輝元は、永禄8年(1565)に尼子氏との戦いで出雲攻略戦に参加、初陣を果たした後、元亀元年(1570)には、尼子勝久討伐のため、輝元は毛利軍の総大将として再度出雲に出陣、布部山で尼子軍を破って出雲での主導権を取り戻しました。

 そして翌年、祖父・元就が死去すると、吉川元春、小早川隆景の二人の叔父の言葉によく耳を傾け、山陽側を東進して備前から播磨へ、北は但馬にまで達し、支配圏は中国地方全域に及びました。天下を望める京都は目前に迫ったのです。しかし、毛利氏が「勢力」という弓の弦を、最大限に引き絞ったのはここまででした。

 このとき既に「天下布武」を旗印とする織田信長が近畿を制圧しており、輝元は否応なく織田家と対立しすることになります。

 天正4年(1576)には大坂湾の木津川河口で織田軍と海戦を展開してこれを撃破し、さらに信長と対立していた大坂石山本願寺へ兵糧を援助するなど、瀬戸内海全域に影響力を持つ毛利水軍の強大さを見せつけたものの、やがて織田軍の反撃がはじまり、宇喜多氏(備前国)や南条氏(伯耆国)ら離反者が相次ぐなど、毛利氏の支配に陰りが見え始めます。

 そして天正9年(1581)には、山陰地方における毛利氏の拠点・鳥取城が秀吉軍に攻め落とされてしまいました。備中高松城攻防戦においては、秀吉は水攻め作戦を敢行、抜き差しならぬ状況になりました。

 しかし翌年六月二日、本能寺において信長が殺害されたことから状況は一変します。
 信長の死を知らされた秀吉は、同四日、毛利氏との講和を成立させて兵を引き揚げ、光秀討伐に向かいました。主君のあだ討ちをいち早く実行に移した秀吉が、天下を取ったのは周知の事実です。

 講和成立の直後、毛利氏側にも信長急死の報は伝えられました。
 吉川元春は追撃を強硬に主張しましたが、祖父に似ず律儀な性格であった輝元は、小早川隆景の進言を入れて元春の策を退けました。輝元のこの決断によって、豊臣政権下での毛利家の安泰が約束されたとも言えるのです。

 その後、輝元は積極的に秀吉に接近して豊臣政権下に組み込まれ、秀吉の天下統一に加担することになります。そして毛利氏は、百十二万石の領地を安堵されて西国の雄としての面目を保ちました。

 豊臣大名となった輝元には、財政再建が急務でした。
 領内では依然国人領主が半独立状態で割拠していたため、輝元は国人体制を解体するために、秀吉の検地を待たずして、率先して国人領内への検地を断行したのです。さらに、国人の土着性を削ぐために、転報を盛んに行いました。
 さらに、海運・交易を盛んにして、財政を見事に再建したのです。

 こうして有力大名に連なった輝元は、朝鮮出兵では大将として渡海、その後豊臣家の五大老の一人に列せられ、重きをなすようになります。

 秀吉の死後、幼い豊臣秀頼の養育を託された輝元は、その律儀な性格からこの遺言をよく守ります。
 しかし、この間に徳川家康が台頭、石田三成や大谷吉継らは家康打倒をはかり、ついに慶長5年(1600)には関ヶ原合戦が起こります。
 輝元は光成らに擁立されて総大将として挙兵、大坂城で秀頼の後見役として常駐しました。そして関ヶ原には毛利秀元を派遣しましたが、吉川元春の子・広家が家康に内通していた事により、不戦敗を喫しました。

 敗戦後、輝元は広家から本領安堵の確約を得ていたことを聞き安心しましたが、家康は昂然とその約束を反故にし、毛利家の断絶と輝元の切腹を命じ、広家には防長二州を与える旨を言い渡したのです。これに慌てた広家は家康に直談判し、防長二州を毛利家の所領とし、死一等を避けることができました。
 毛利家の存続はまさに広家の働きによるものでしたが、毛利家中からは広家は「裏切り者」としてみなされました。

 これをして「輝元は無能者」と言われます。しかし、輝元の手腕が真価を発揮したのは、むしろこの後でした。
 毛利家の領土は120万石から37万石に減封されたうえ、すでに徴収していた年貢などを毛利旧領に赴任した新領主たちから返納するようもとめられました。
 そこで輝元は「旧秩禄を五分にして、その一部をもって定額とする」として、家臣の家禄を五分の一に減らします。これに反対して毛利家を去っていった者も多く居ましたが、これによって財政を立て直すとともに、余剰人員を削減したのです。

 さらに嫡子・秀就を諸大名に先駆けて人質として江戸に送り、その居城もあえて不便な山陰側の萩の地に築き、徳川家からの疑いを払拭するよう努力しています。
 こうした輝元の努力によって、のちに毛利藩は実質100万石の収益があったといわれるほどの大藩に成長したのです。

 こうして萩毛利藩の基礎を築いた輝元は、寛永2年(1624)4月、73歳の生涯を閉じました。

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祖父に似ずってところが笑えましたw 輝元の関ヶ原の失態が印象深く、また大幅な減封もまた印象深いので、輝元は無能な印象しか持っていませんでした。これを読んで大分印象が変わりましたね。

2005/9/5(月) 午前 4:21 ヒロ

むしろ父・隆元に似たんでしょうね〜。ただ、若いころはかなり猪突猛進型の武将だったそうです。

2005/9/5(月) 午前 8:24 佐々木斉久

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輝元は関ヶ原の影響でかなり損をした部分がありますが、後に毛利家を守るために努力したことは、そのマイナスのイメージを払拭するに余りあるものであったと思います。この当時の「外様」の大名たちの苦闘ぶりの代表例と言えるのではないでしょうか。

2005/9/5(月) 午後 8:55 [ mannennetaro2005 ]

減封された諸大名たちは、みな苦労してますからね。幕末期、どの大名家も財政難で苦しんでいましたが、萩毛利藩は数少ない勝ち組でした。これも輝元が素地を作ったおかげでしょうね。

2005/9/5(月) 午後 10:35 佐々木斉久


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