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三沢為国(-1536)三沢為忠の子。左衛門尉。尼子氏と対立していたが、尼子経久に攻められて降伏した。以後は経久に仕えたが、間もなく経久に疑われ、幽閉ののち、殺害された。
三沢氏は出雲国内随一の国人領主で、ともすれば守護・京極氏の命令にも従わないことがたびたびあったといいます。そのため、京極氏は守護代・尼子氏に対し、三沢氏の動向に注意するよう書状を送っています。 三沢為国は表面上京極氏に従いながら、父・為忠とともに出雲における勢力を伸ばすべくつとめ、亀嵩玉峰城を築いて拠点としました。 そんなとき、文明16年(1484)に尼子経久が守護代を罷免されると、為国は父・為忠とともに、幕命を奉じて諸国人を統率、先頭に立って経久追放軍を率いたようです。 しかし、わずか2年後の文明18年(1468)、経久は富田城主に返り咲きます。 この富田城返り咲きは経久の下克上を示すものだとされていましたが、最近では京極氏の了解があってのことではないかと言われているようです。 ともかく、尼子経久は出雲の支配権を確立すべく、活動を再開します。当然、宿敵ともいえる三沢氏との衝突は避けられません。 しかし、三沢氏の軍事力は強大で、経久がいかに戦術に優れた人物であっても、正面から太刀打ちすることは難しい相手でした。そこで経久は、策を用いて三沢氏を討伐することにします。 まず、もともと死罪の予定であった者を重要な腹心にみせかけておき、これを腹心・山中満盛に斬らせました。そして、満盛はこの罪によって経久に叱責されたといって為国のもとへ逃げ込み、また経久も現実味を帯びさせる為にその妻子と老母を牢屋へと押しこめたのです。 為国は当初満盛を疑っていましたが、満盛が身を惜しまず忠勤を励み、またその老母が入牢されていることも察知して裏をとったので、すっかり信じ込んでしまいました。 そして延徳2年(1490)、満盛が経久への恨みを晴らすためと称して富田城攻略の策を献策すると、為国はすっかり信じ込んで兵の大半を重臣・野沢大学、梅津主殿などの七手組の大将に付与して富田城へと向かわせました。 ところが、野沢・梅津らが富田近辺に差し掛かり、満盛に「手引きするから待て」と言われて待機してると、やがて城中から一千の兵が押し寄せ、また退路から伏兵によって急襲され、甚大な被害を受けてしまったのです。 そして経久は為国の居城・亀嵩玉峰城に進軍し、背後の「桶ヶ峰」から奇襲して為国の本軍を破ります。こうして兵力を失った為国は、ついに経久の軍門に下ってしまったのです。 三沢氏が経久に降ると、三刀屋氏、赤穴氏ら出雲国内の国人領主たちは動揺し、次々と経久の軍団に降っていきました。こうして、出雲一国は尼子氏の支配するところとなったのです。 永正16年(1519)、父・為忠が死亡します。 為忠は横田庄支配のため横田藤ケ瀬城に住していましたが、為忠の死後、為国は父の跡を受けて藤ヶ瀬城に拠り、さらに次弟・為幸を三沢城に、亀嵩玉峰城にも一族を配して仁多郡一帯の支配を固めました。 為国は、徐々に三沢氏の勢力を盛り返していったのです。 しかし、このことが経久の疑いを招きました。 このため享禄4年(1531)、経久は横田藤ケ瀬城を奇襲します。城はあっけなく落ち、為国と三弟・為隆は捕らわれて富田城に幽閉されてしまったのです。 そして天文5年(1536)、為国は幽閉先の富田城で死去しました。法名は涼光院殿雲叟覚天大居士と伝わっています。 なお、この事件の背景には為国と次弟・為幸との間で確執があり、三沢氏の勢力拡張を恐れた経久がその対立を利用したのだと言われています。 事実、為国の幽閉後は為幸が三沢の家督を継ぎ、尼子に忠勤を尽くしています。 またこの事件は、塩冶興久の乱とも密接な関係があります。 興久は経久の子ですが、経久・晴久などの尼子宗家ならびに亀井氏などの重臣と対立関係にありました。そこで興久は、同様にこれら尼子氏の「主流」に反発する勢力を糾合した(あるいは担がれた)のです。この反主流派勢力のなかに、三沢為国もいたのです。 これを察知した経久は、事が重大になる前に各個撃破をはかり、為国を破ったものでしょう。興久は天文元年(1532)に謀反していますが、これはいわば追い詰められた結果の行動のように思われます。
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この記事はとくに白眉で、経久の知将ぶりを表すものとして
重要ですね〜♪ (*^v゚)v
経久からすれば操りやすい為幸を、傀儡として三沢の頭首にして
おくのがいいと感じたのかもしれませんね。
三沢氏の掌握が、尼子の領土支配の要だと
よくわかりました〜♪サンキュゥ♪~(=^‥^)/
ぽち★
2008/11/24(月) 午後 3:33 [ - ]