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大内義興(1477-1528)大内政弘の子。亀童丸、六郎。周防権介、大内介、左京大夫。大内氏三十代当主で、周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・山城の各国守護を兼ねた。流浪の将軍・足利義稙を擁して大挙上洛、将軍・義澄を追って復位させ、自らは管領代として中央政治に参画した。山城・船岡山にて細川氏と激戦を繰り広げ勝利をおさめる。その後、出雲の尼子氏が安芸・石見に侵入、これと攻防を繰り返した。また朝鮮、明との貿易に力を入れた。
大内氏は、百済の聖明王の子・琳聖太子を祖とすると言われており、早くから周防国に勢力を持っていました。室町時代には西国六ヶ国の守護を兼ねる大勢力になりました。その後、応永の乱で一時勢力を失ったものの、義興の父・政弘の代には、主将・山名宗全にも匹敵する西軍の有力武将として戦うなど、再び強盛を誇っていました。 明応元年(1492)、16歳の義興は父・政弘に命じられ、六角氏追討のために近江に出陣しています。そしてその2年後の明応3年(1494)、父から家督を譲られました。父・政弘は翌年、死去します。 大勢力の当主となった義興ですが、大内氏の内部は必ずしも安定したものではありませんでした。若い義興の器量を疑う家臣たちが、反義興の姿勢を見せていたのです。そのため明応4年(1495)、義興は長門の守護代・内藤弘矩・弘和父子を誅伐しました。 さらに明応8年(1499)には、重臣・杉武明らが義興の排除を企て、義興の弟・大護院尊光を(隆弘)を擁立しようとします。しかしこの陰謀は事前に露見、武明は自害し、尊光は豊後の大友氏のもとに逃れました。 このように、義興は内紛に苦しみながら、外征にも力を入れ、北九州に出兵して少弐氏、大友氏などと争います。 その後、明応8年(1499)には京を追われて山口に下向してきた前将軍・足利義稙を保護します。永正4年(1507)、細川政元が暗殺されると、その養子・高国と連絡を取りながら義稙を奉じて上洛、義稙を将軍職に復職させます。そして自らは管領代・山城守護として幕府の実権を握り、細川高国と連合政権を形成して約10年間在京します。この間の永世8年(1511)には反対勢力・細川澄元と山城・船岡山で戦ってこれを撃破します。 しかし、義興が本国・周防を留守にしている間に、出雲の尼子経久が蠢動をはじめます。経久は安芸分国守護・武田元繁と連絡をとりながら義興の領国・安芸、石見などに侵入を繰り返します。武田元繁は安芸国人・毛利元就の活躍により戦死しますが、予断を許さない状況になりました。 このため、義興は永世15年(1518)、ついに帰国を決意します。経久は毛利氏を取り込むなどして安芸攻略を有利に進めましたが、大永5年(1525)に毛利元就が大内側に寝返ると形勢は逆転します。義興は勢いを得て反撃、安芸、石見における所領を回復しました。 その前々年、大永三年(1523)には明国の寧波で対明貿易の利権をめぐって、細川氏とも激しく対立しています。 そして大永7年(1527)、大内軍は備後に展開し尼子氏に対して大攻勢をかけ、翌享禄元年(1528)には義興自らふたたび安芸に出陣します。
義興は一気に尼子氏を出雲に押し返す勢いを見せましたが、急病を発して山口に帰還、療養の間もなく死去しました。 法名は凌雲寺殿傑叟義秀と伝わっています。 |
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中国地方の戦国時代は、尼子・大内の2大勢力の時代となってから本格的に動き出したように思います。大内家は結局義隆の時に陶晴賢に代わられ、その晴賢も毛利元就に滅ぼされていく訳で、尼子同様に元就の引き立て役になってしまったことが、いかにも乱世らしいと思います。
2005/9/7(水) 午後 10:29 [ mannennetaro2005 ]
たしかにそうかもしれません。尼子氏の台頭前は、細川氏や山名氏などの勢力がいまだ強く、大内氏は中央でも地方でも細川勢力と対立していました。このときの地方戦は中央での争いの余波だったようですが、尼子氏の台頭以後は、真に地方での戦いですからね。。。
2005/9/9(金) 午後 0:52
大内義興の内紛の部分の記述は興味深いです。
ただ譲り受けただけの世襲ではないところが
いいですね!
6ヶ国の守護しかも山城の国まで!義興の代が大内氏の
ピークアウトだったのでしょうね!
それにしても佐々木さんの正体が知りたいですね。
ここまでいろいろお詳しいとは。。。
学者顔負け(ひょっとして歴史学者?)ですね!
さばけたご性格は、ご先祖様の佐々木道誉公にも
似ている部分もありますね〜♪
ぽち★
2008/12/16(火) 午後 4:48 [ - ]