山中御殿

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大内義隆

大内義隆(1507-1551)大内義興の嫡男。母は内藤弘矩の娘。亀童丸・大内介。左京大夫・周防介・筑前守・太宰大弐・左兵衛権佐・兵部権大輔・伊予介・侍従・兵部卿。父・義興の跡を受けて周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の六ヶ国の守護となった。大内氏の勢力拡大につとめ、北九州戦線では小弐資元を討つなど活躍、また博多を獲得して大陸貿易の拠点とするなど、大内氏の全盛期を築く。しかし、出雲の尼子晴久に敗れてからは極端に厭戦的になり、家臣団の分裂を誘って重臣・陶隆房に攻められ、自害した。

 大内義隆は、永正4年(1507)11月、大内義興の嫡男として生まれます。
 義隆は、大永2年(1522)ごろから父・義興に従って連年安芸方面に出陣し、尼子経久と激しく争いました。
 大内軍は当初、尼子氏に押されて安芸の大半を失ってしまいましたが、尼子氏から離反して大内氏に帰順した毛利元就の活躍もあって、しだいに尼子勢を押し返し、備後方面まで進出していきます。

 しかし1528年(長禄元)、義興が死んでしまったために、大内軍はいったん備後から兵を退くことになります。
 義隆は父の跡をうけて家督を相続すると、安芸・備後方面は毛利元就にまかせ、1530年代には主に九州に出兵していきました。太宰大弐の官途を得た義隆は、北九州情勢を有利に展開して松浦氏を取り組み、天文5年(1536)には少弐資元を討つことに成功します。そして豊前、肥前を攻略、大陸貿易の拠点である博多を獲得するなどして、北九州経略を完成させました。

 こうして義隆は中国地方から北九州に及ぶ広大な領土を得、また山口に壮大な都市を出現させました。
 山口は、戦乱の京から逃れてきた公家たちが多数住まい、また天文20年(1551)にはカトリックの宣教師、フランシスコ・ザビエルが訪れるなど、荒廃した京都にかわって一大文化拠点となりました。

 天文9年(1540年)、尼子詮久が大挙して安芸に侵攻、毛利氏の居城・吉田郡山城を囲みます。義隆は陶隆房を派遣してこれを救援、天文10年(1541)正月にこれを撃破します。ついで毛利氏と共に尼子の勢力化にあった武田・友田両氏を滅ぼし、安芸を完全に勢力下に置きました。

 勢いに乗った義隆は、この機会に一気に尼子氏を打ち滅ぼさんと企み、天文11年(1542)、大挙して出雲に侵攻します。
 ところが、緒戦の出雲境の赤穴瀬戸山城攻めで苦戦、翌天文12年(1543)に富田城を包囲したものの、尼子晴久が遊撃隊を出して補給路を断ったために、大内軍の士気は極限まで低下しました。
 結局、義隆は何も得るところなく総退却を開始します。尼子晴久は猛追撃を開始し、殿軍の小早川正平が討死、義隆の養嗣子・晴持が船が転覆して水死するなど、相当な痛手を負ってしまう結果となりました。

 実は大内氏の内部では、武断派と文治派に分かれて権力闘争が繰り広げられていました。武断派の筆頭は陶隆房であり、文治派の筆頭は相良武任でした。
 両者の勢力は拮抗していましたが、出雲での惨敗から義隆は極端に厭戦的になり、陶隆房は遠ざけられて文治派が勢力を拡大しました。
 大内氏の政治は家臣団で構成した「評定衆」が取り仕切りましたが、義隆が文治派を重く用いた為、相良武任が独断的行動を起こし、更に武断派と文治派の対立を招く事に繋がってしまいました。

 その後、陶隆房が山口を去って地元に引きこもったため、家臣たちは謀反を起こすのではと疑いましたが、義隆は「隆房が謀反を起こすはずがない」と、とりあいませんでした。
 しかし天文20年(1551)、陶隆房を筆頭とする武断派が蜂起、三千の軍勢はどんどん膨れ上がり、反対に義隆のもとに参じた家臣はごくわずかだったと言われています。
 追い詰められた義隆は重臣の内藤興盛に和睦の使者を送りますが、「自害しか道は無い」との返事が返って来て義隆は完全に失望してしまいます。
 そして九月一日、ついに義隆は大寧寺にて自害して果てました。法名は龍福寺殿端雲珠天大居士と伝わっています。

 その後、大内氏は隆房が大友氏から義隆の甥・義長を迎え、存続します。
 しかし数年後、毛利元就が陶打倒の兵を挙げて西進、厳島で陶軍二万をわずか三千で撃破し、大内領は瞬く間に毛利領となって行きます。
 陶軍を失った義長には抗する術もなく、大内氏は滅亡してしまったのです。

閉じる コメント(7)

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義隆は武将としてはひ弱過ぎた印象があります。今川義元の息子の今川氏真とよく似ているように思うのですが、どう思われますか。

2005/9/8(木) 午後 10:16 [ mannennetaro2005 ]

氏真と一緒にされたのでは義隆もかわいそうですよ^^; 九州戦線では軍略の冴えも見せ、少弐氏を討ったときは「太宰大弐」の官位を得て政治的に優位に立つなどしていますし、なんといっても大内氏最大の版図を築いたのは義隆ですから。もうちょっと評価してもいいのでは…

2005/9/8(木) 午後 10:38 佐々木斉久

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これは軽率な発言でした。その通りですよね。実力はあったが家臣団の意思統一に失敗して重臣に滅ぼされたというのは、まさに「下剋上」の典型ですね。桑田忠親氏の本を読むと、かなり古い思想や体質の持ち主だったらしいとのことで、それもまた謀叛を起こされる一因になったのかとも考えます。

2005/9/8(木) 午後 11:40 [ mannennetaro2005 ]

あ、おっしゃる意味合いが分かりました。「有能・無能」ではなくて、その「性格」的なことだったんですね。義隆はたしかに苦労が少なく、そのあたりで家臣団の対立を止められなかったのかもしれません。

2005/9/9(金) 午後 0:55 佐々木斉久

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陶隆房にさえ裏切られなければ、大内氏はもっと存続できたのではないかと思います。でも義隆の相良武任偏重ぶりは酷かったようですから、家臣団がそっぽむいちゃうのも仕方なかったのかもしれませんね。

2005/9/9(金) 午後 5:01 ゆーくんままま

一説に、義隆は晴賢と修道の関係にあったそうです。なので、晴賢がとは「極めて仲がいい」。そのこともあって、裏切るとは考えられなかったのかもしれませんね。

2005/9/9(金) 午後 9:54 佐々木斉久

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義隆かぁ・・やっぱり信長と同じで対人がダメだったんですかね〜? 戦国武将ってそういう人多すぎ><

2005/9/12(月) 午前 7:00 ヒロ


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