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大内義長(?-1557)大友義鑑の次男。母は大内義興の娘。塩乙丸・八郎・新介・大内介・晴英。周防介・左京大夫。大内氏最後の当主。大内義隆の猶子となるが、嗣子・義尊が誕生したため、離縁される。しかし義隆が陶晴賢に討たれると、晴賢に擁立されて大内家当主となった。その後、晴賢を厳島の戦いで破った毛利元就が侵攻してくると、かなわずに自害、大内家は滅亡した。
大内義長は、豊後大名・大友義鑑の次男として生まれます。義鎮(宗麟)の異母弟にあたり、母は大内義興の娘です。はじめ、将軍・足利義晴の偏諱をうけて晴英と名乗りました。 天文12年(1543)、山口の大内義隆が出雲の尼子晴久に敗れ、養嗣子であった晴持が退却戦の最中に溺死してしまいます。 晴持は、土佐一条家の出で、貴族嗜好の義隆はこの良血で凛々しい晴持をこよなく愛していたと言われます。 義隆は大内家に後継ぎがいない事を危惧し、自身の姉の子供である晴英を猶子として迎え、大内新介晴英と名乗らせました。 猶子とは嗣子とは違い、正式な跡取りではありません。実子が生まれない場合には跡継ぎとなる子のことで、条件付の跡取りだったのです。 そして結局、天文14年(1545)、義隆に嫡男・義尊が産まれてしまったので、晴英は離縁されて大友家へ戻される事になります。 天文19年(1550)、大友家では家督争い「大友二階崩れの変」が勃発し、父・義鎮と弟・塩市丸が殺害されます。 翌年、山口では陶隆房がクーデターをおこして大内義隆を殺害、大友氏に対して晴英を大内の当主擁立を求めて使者を送ってきます。 大友家を継いだ兄・義鎮は当初これに反対しましたが、晴英は「乱国の大将となるのは武門の面目である」として、応諾したといわれています。 こうして晴英は天文21年(1552)、山口に入って大内家を継ぎ、周防介、大内介を称します。陶隆房は晴英の諱字をうけて晴賢と改めました。 意気揚々と入国した晴英ですが、陶晴賢の完全なる傀儡当主として証判を与えるだけの存在であることを強いられました。 天文23年(1554)、晴英は将軍・足利義輝より諱字を賜わり、義長と改名します。 しかしこの年、大内義隆の姉婿にあたる吉見正頼が反逆、石見三本松城で挙兵します。義長は晴賢と共にこれを攻略するために出征しますが、この隙に突如として安芸の毛利元就が離反、安芸の大内方諸城を次々と攻略します。 石見から軍勢を反転させた陶晴賢は、弘治元(1555)年、元就の軍勢と厳島にて対峙、海上からの奇襲攻撃で敗走、自刃してしまいます。 こうして皮肉にも陶晴賢を失って実権を得た義長でしたが、待っていたのは内紛の嵐でした。 まず、晴賢の子・長房が若山城にて杉重政の子・七郎に殺害されるという事件が発生。翌2年、その報復として内藤隆世が杉七郎を襲い、この戦火によって山口は灰燼に帰してしまいます。 義長は内紛を慰撫することに腐心し、また毛利元就の襲撃に備えて高嶺に城を築くなど軍備を整え、さらに兄・大友義鎮に援助を請います。 しかし、あろうことか義鎮は「九州の大内領は切り取り次第」という毛利の提示した条件をのみ、義長を見捨ててしまうのです。 そして弘治3年(1557)、ついに毛利元就が防長二州を併呑せんと侵攻してきます。 義長は内藤隆世らを率いて長門勝山城に入りますが、破竹の勢いの毛利軍の攻撃に、義長率いる大内軍は劣勢にたたされます。 このとき毛利方より「内藤隆世の自刃と引きかえに義長を助命する」という条件を出されます。隆世はこれを受けて「義長さまが助かるのであれば」と、義長の制止も聞かずに自刃します。 義長がようやく得た忠臣は、わずか20歳そこそこの若さで散りました。 こうして義長は毛利軍に捕らえられて長福寺に入りますが、翌日になって自刃を求められます。 あまりにも理不尽なこの要求に、義長は「隆世と共に死ねなかったのが悔まれる」と言い残し、沐浴の上自刃して果てました。 「誘ふとて なにか恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」 これが、大内義長の辞世の句と言われています。 墓は長府功山寺にあります。 なお、毛利元就は義長の兄・宗麟に「義長の命を助けようか」と聞いてみたものの、宗麟は義長の命よりも茶器を要求した、という逸話が残っています。
戦国の世とはいえ、なんとも非常な話です。 |
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戦国時代は、謀叛や世継ぎ争いが日常茶飯事のような時代でもあったのですが、大内義長ほど人生の節目ごとにこれらの騒動に巻き込まれた人物というのも珍しいと思います。中国・九州を股にかけた覇権争いに翻弄される形で一生を終えたのが哀れですね。
2005/9/10(土) 午後 6:11 [ mannennetaro2005 ]
たしかにそうですね…けっして無能な人物ではなかったようですが、実家・大友家でも養家・大内家でも家臣には相手にされず、悔しい思いをしたことでしょう。挙句、元就に約束を反故されて自害。なんとも哀れです…
2005/9/10(土) 午後 6:35
この時代の人の考えに命の重みはどのくらいのものだったのでしょう? 交通事故は皆無として、病気も今よりは少ないし。寿命が短いにしても自刃が多くてなんだかぷん!
2005/9/11(日) 午後 2:43
ぷん!
2005/9/11(日) 午後 2:45
>almaさん カンタンに命がなくなってしまうからこそ、命の重さは、大事だったのでは…。裏切りが盛んに行われたのも、命を大事にするためだったんでしょう。ただし、大事なのは「自分の命」。そのためには他人を犠牲にしてでも生き延びる。それが戦国の世だったんでしょうね…
2005/9/11(日) 午後 4:22