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三沢為幸(1503-1540)三沢為忠の次男で、三沢為国の弟。備前守。鬼三沢と呼ばれた猛将。大内義興の上洛戦に参加し、京都において三好勢と激闘して功を上げた。尼子氏に従い、西条鏡山城攻めに従軍。兄・為国と対立、尼子経久により為国が暗殺されると、三沢氏の家督を継いだ。その後、晴久に従って吉田郡山城を攻めたさい戦死した。
三沢為幸は、為忠の子で為国の弟にあたります。 その居城・三沢城は三沢氏代々の居城で尼子十旗の二番目に位置づけられる要衝でした。父・為忠、その跡を継いだ為国とが横田荘支配のために藤ヶ瀬城に移って拠点としたため、為幸が三沢城に入ったのです。 この為幸は「鬼三沢」の異名をとるほどの剛の者でした。 永世4年(1507)、山口の大名・大内義興が流浪の前将軍・足利義稙を奉じて上洛しますが、このとき義興は中国地方各地の諸大名・諸国人を従えました。このとき為幸も、尼子経久ら出雲の武将たちとともに備後鞆の浦に勢ぞろいし、京都に上りました。 将軍・足利義澄は、その勢いにおどろき、戦わずして逃走したと言われています。こうして義稙は将軍に復し、義興は管領代となって幕政を取り仕切ることになったのです。 翌永正5年(1508)暮れ、近江の六角定頼と三好一党が足利義澄を立てて京都へ攻め上りました。 このとき為幸は堀川陣でこれを迎え撃ちます。このとき為幸は持ち前の剛勇を発揮して功をたて、将軍・義稙から感状を受け、さらに備前守に任じられました。 しかし、大内氏の不在の隙に勢力拡大を狙う尼子経久の思惑もあって、翌年には大内氏の陣を離れて帰郷します。経久自身は京に残り、永世8年(1511)の船岡山合戦でも功をあげたといわれていますが、定かではありません。 ともかく、帰国した為幸は経久に従って大内の領国へと攻め込んでいくことになり、大永2年(1522)の安芸鏡山城攻めなどに加わります。 しかし、こうして経久旗下として功をあげていった為幸は、三沢一族の独自性を保とうとする兄・為国と対立するようになったようです。 為国は経久の計略によって合戦に敗れたために一応尼子氏に従ってはいましたが、横田荘をはじめとする仁多郡を基盤に着々と力を蓄え、完全に服従したわけではなかったのです。そのため、経久に近い立場をとる弟・為幸の行動を許せなかったのでしょう。 こうした兄弟の対立関係を背景に、享禄4年(1531)、経久は為国の居城・藤ヶ瀬城を奇襲します。おそらく為幸の手引きもあったのでしょう。 この攻撃によって藤ケ瀬城はあっけなく落城、為国と弟・為隆は捕らわれて富田に幽閉され、その後殺害されてしまいました。 経久は為幸の所領を安堵し、あらためて三沢城主に任じて三沢氏の家督を許しました。 その後、経久から家督を継いだ尼子晴久は、毛利元就討伐を企てます。 天文9年(1540)、晴久は出雲・石見・隠岐・伯耆など十一州の将兵を従えて出陣、為幸もこれに従いました。 しかし、尼子の大軍を迎かえ撃つ毛利軍の戦意は旺盛で、大内氏の援軍を待って籠城策をとりました。尼子軍は攻撃を繰り返すものの小競り合いが続き戦果はあがりませんでした。 このため、晴久は主力を郡山城下に進めて決戦の構えをみせました。 これに対し毛利軍も勝敗を一気に決することを決意、兵を部署して尼子軍に対します。戦いは激戦となりましたが、さすがに地の利がある毛利軍が有利で、尼子軍は苦戦、総帥・晴久が包囲されてしまいます。 このとき、為幸は晴久を守って活躍し、進んで敵の首級をあげること十三級に及んだと言われています。為幸はそのまま進んで大将・毛利元就を討ち取ろうと迫りますが、元就の馬廻り衆から発せられる矢を七本まで身に受け、討死にしました。 享年・39歳と伝わっています。 為幸のおかげで九死に一生を得た晴久は、翌年ついに力尽きて兵をまとめ、出雲へ撤収しました。
この後、子の為清が跡を継ぎましたが、為清は尼子から大内、尼子、毛利と主を転々として家名を守り通しました。 |
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京都上洛中の活躍など、大変おもしろかったです!
なかなかの剛将だったのですね。
郡山合戦の時、晴久を守って討ち死にしたのですね。
しかし家は保ってよかったと思います。
ぽち★
2008/11/25(火) 午後 4:40 [ - ]
別館の方へ、いただきます。ポチッ
2008/12/7(日) 午後 0:16
>夢うさぎ塾さん
どうぞ〜
2008/12/7(日) 午後 1:28