山中御殿

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吉川経基

吉川経基(1428-1520)吉川之経の子。千若丸・元経。掃部介・駿河守。「鬼吉川」の異名をとる勇将にして、和歌発句にも造詣の深い文武両道の武将。応仁の乱では東軍に属して功を立て、さらに戦いが全国に波及すると備後、播磨などを転戦、功により石見・安芸に所領を得た。さらに出雲尼子氏はじめ周辺諸勢力と姻戚関係を結び、吉川氏の勢力を拡大した。

 吉川氏は本姓・藤原氏で、南家武智麻呂の四男・乙麿の後裔とされます。六代の子孫・藤原維幾が平将門の乱に活躍して東国に定着、その後、諸流として入江氏がわかれ、さらにその入江氏から入江経義が入江庄吉河村駿河に住し、はじめて吉香または吉河を名乗りました。
 はじめは「吉香」と書かれることが多かったようですが、南北朝時代から「吉川」と書かれるようになったようです。

 安芸吉川氏のはじまりは、吉香経光が承久の乱(1221)で活躍したことにより安芸国大朝本庄の地頭職に補任されたことによります。経光は駿河に住し安芸には代官を派遣していましたが、その子・経高が安芸に下向し、また弟・経茂が石見の地頭職も得て、経高が惣領として安芸・石見の国境にわたって勢力を拡大していきます。

 その後、経盛、経秋と続きましたが、この間の南北朝時代に吉川家は分裂して同族で争い、勢力を弱めます。経秋には男子がなかったため、石見吉川氏から経見(経茂の次男・経兼の子)が養子となって惣領
を継ぎ、さらに経信、之経と続きます、
 経信・之経父子は、足利将軍家に積極的に協力して吉川氏の勢力を徐々に回復していきました。

 このような状況の中で、経基は之経のあとを継ぎ、吉川家の惣領となりました。
 経基はその異名「鬼吉川」で知られるように、体格強健、勇猛胆略に富む武将でした。さらにそればかりでなく、文学を愛好し、和歌発句にも造詣が深かったといわれ、まさに文武両道の武将でした。

 寛正元年(1460)、管領家・畠山政長とその一族・畠山義就が対戦します。このとき経基は将軍・足利義政の命によって政長に組して戦い、翌年には山名是豊に従って出陣し、義就の軍と河内国で戦って功を立てました。

 ついで、応仁元年(1467)、応仁の乱が起こると、細川勝元率いる東軍に属して、西軍の山名宗全の軍と京都各地で戦います。9月には、一条高倉の合戦に出陣、10月には武者小路今出川合戦、北小路高倉合戦、鹿苑院口合戦などを連戦し、目覚しい活躍を見せました。

 同年8月、細川勝元に属して西軍の畠山義就と京都相国寺跡で交戦します。
 この戦いは西軍が優勢で、東軍からはあいついで逃亡者が出ましたが、経基は部下を鼓舞して陣を堅守、さらに義就に反撃を加えました。
 経基は、激しい戦闘により全身に傷を負いますがまったく意に介さず、部下の屍を超えて奮闘勇戦しました。この阿修羅のような戦いぶりに恐れをなした義就軍は、戦意を喪失してついに撤退しました。
 この経基の奮戦と勇武にひとびとは「鬼吉川」と呼び、またあまりの傷痕の多さから「まないた吉川」というすさまじい呼称をつけたといわれています。

 やがて、応仁の乱の影響は日本全国におよび各地で紛争が発生したため、守護大名らの多くは自らの領国に戻りました。
 備後守護・山名是豊もそのひとりでしたが、和智氏、宮氏、山内氏らの国人勢力が山名是豊を攻めたため、経基は将軍・義政の命により、是豊を援けて国人らを撃退します。
 この功により経基は、石見国佐磨村、安芸国の寺原郷・有馬名・北方村・河合名などの地を得、その領国を石見から安芸にかけて南方に大きく広げました。

 その後経基は、文明14年(1482)には幕府の命を奉じて河内に出陣、長享元年(1487)には播磨守護・赤松政則の要請により、播磨に出兵して坂本で奮戦しています。
 これらの功により、吉川氏旧領の播磨国福井庄を恩賞として還付され、あわせて地頭職に任じられました。

 こうして合戦で功を立てたほか、経基は長女を尼子経久の正室にいれたのをはじめ、石見・出雲の国人衆の多くと婚姻関係を結び、吉川氏の勢力が山陰に浸透する基礎を築きます。

 その後、家督を嫡男・国経に譲って隠退した経基ですが、90歳になるまで合戦に赴いたため、子供達や孫・曾孫達に「爺の合戦にたいする情熱は人間の物とは思えない」と愚痴まで言われてたと言われています。
 そして永正17年(1520)、93歳の天寿をまっとうして世を去りました。法名は玉台院瑞芳慶本です。

 経基はこのように勇猛果敢な武将であるとともに、文学を愛し、書道にも堪能でした。吉川家には経基自筆の『古今和歌集』『年中日発句』『拾遺和歌集』などの諸書がいまも伝えられています。
 経基はまた禅学にも通じ、東福寺の僧・虎関の編んだ『元亨釈書』を愛読し、五山の僧らとその内容に対してしばしば議論を交えたこともあったといわれています。

閉じる コメント(7)

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古今の武将の中で、「まないた」に例えられた武将はこの人物くらいでしょう。吉川家は後に「毛利両川体制」の一角となりますが、経基が子や孫に愚痴をこぼされるほど長寿を誇ったことがその伏線と考えるのは、穿ちすぎる見方でしょうね。

2005/9/14(水) 午前 0:25 [ mannennetaro2005 ]

たしかに「まないた吉川」とは、なんともすさまじい異名です。二代目「鬼吉川」の吉川元春は経基の曾孫にあたりますが、その血を脈々と受け継いだんでしょうね〜。

2005/9/14(水) 午前 7:55 佐々木斉久

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吉川氏はこの人から有能な将が多かったんですね〜! 戦では最強( 〃∇〃) 周辺諸国はこの苗字を聞いただけでびびったでしょうね!!

2005/9/14(水) 午後 3:44 ヒロ

私の中では「鬼吉川」といえばこの人なんです。元春もキライじゃないけど、やはり初代がイチバンですね!

2005/9/14(水) 午後 9:57 佐々木斉久

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鬼吉川は、毛利元就の『有田合戦』にも出陣したんですよね。かなりの老齢だったんでしょうが、たいしたもんです。

2005/9/16(金) 午後 2:41 ゆーくんままま

よくご存知ですね〜、さすがです! 「死ぬまで現役」な人だったんですね、経基は。そういえば、越前朝倉氏の朝倉宗的も文武両道・死ぬまで現役な人でしたね…

2005/9/16(金) 午後 8:54 佐々木斉久

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吉川家は駿河からだと思ってましたが、
さらに先があったのですね。

藤原系とか承久の乱での地頭職など
わからなかった部分が
段々つながっていき、大変勉強になります〜♪

「鬼吉川」の由来もわかりました〜♪
ぽち★

2008/11/26(水) 午後 4:18 [ - ]


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