山中御殿

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三沢下野守為清

三沢為清(1536-1588)三沢為幸の子。才童子丸・三郎右衛門。左京亮・下野守。出家して宗程を号す。大内義隆の出雲侵攻に寝返るが、旗色が悪くなると再び尼子方に復した。その後は尼子晴久に忠勤を尽くすが、義久の代になって毛利元就が出雲に侵攻するとこれに降った。以後、毛利の忠実な家臣となり、上月城の戦いなどに参加した。

 三沢為清の父・為幸は、天文9年(1540)、尼子晴久に従って毛利氏の吉田郡山城攻撃に加わりましたが、その最中に戦死しています。
 このため、三沢氏は為幸の遺児・為清が跡を継いだのですが、為清はこのときわずか四歳だったといわれています。

 その後の天文10年(1541)、毛利元就・大内義隆らが出雲へ進攻するとの報があり、三刀屋氏など尼子旗下の十三将は密かに連携して大内へ誼を通じました。
 この十三将のなかに為清の名もありますが、為清はいまだ幼少であったことから、家臣らに後見されての行動であったと思われます。

 翌年、大内義隆が出陣、三沢氏は大内に降礼をとりました。
 しかし、大内軍はなかなか戦果をあげられなかったため、三沢氏は対陣の最中に他の降将とともに大内を裏切り尼子に帰参、形勢一変して大内軍は敗走しました。
 これによって尼子晴久は勢力を盛り返し、ふたたび山陰を制覇したのです。

 尼子に帰参したとはいえ、三沢氏は完全に尼子に服したわけではありませんでした。
 天文13年(1544)には、尼子晴久が備後・美作への進攻を図り、国内の国人を動員しますが、三沢氏はこの動員令を拒否しています。

 このため晴久は、制裁として三沢氏の支配していた横田荘の代官職を取り上げ、これを尼子譜代の臣・森脇山城守に与えています。
 三沢氏はこれを不服として森脇転覆の機会を待ち、天文20年(1551)には森脇山城守を急襲して、森脇を横田に走らせることに成功します。

 しかし、翌21年(1552)に毛利元就が尼子晴久の属将・江田尾張守の居城である備後江田城を攻めた際には、尼子晴久の救援軍に従って出陣しています。
 さらにその翌年の作州高田城攻めにも尼子方について出陣し忠勤を励んでいるのです。

 この背景には、晴久が為清に対する懐柔策として、自分の娘を嫁がせたことにあると思われます。この時期ははっきりしませんが、ともかく以後、為幸は尼子の陣中で常に中堅の部将として働くようになるのです。

 その後の弘治4年(1558)には、毛利方の吉川元春が石州温湯城に進攻します。
 為清は尼子晴久にしたがって温湯城に援軍として出陣し、大森銀山城を猛攻撃のすえに落としすことに成功します。

 ところが永禄3年(1560)、尼子晴久が急死すると、為清はふたたび尼子に背を向けます。
 永禄5年(1562)には毛利元就が吉川元春とともに出雲へ軍を進めてきたため、赤名へ進軍してきた毛利軍に、三刀屋、赤穴らとともに降礼をとったのです。

 そして為清は、毛利軍に従って真木夕景城攻略に加わりました。
 このとき城主・真木久綱は富田城に在番して留守中でしたが、夕景城は要害堅固な上に弓矢の達人も多く、一丸となって防戦したため攻防戦は一進一退、三昼夜も続きます。
 しかし結局衆寡敵せず、城は落ちて城代の澁谷長平は潔く本丸に火を放って自刃しています。
 ついで、為清は三沢勢を率いて高尾城を攻め落とし、さらに弓幡城を猛攻撃の末、落としています。

 為清はこれ以後、吉川元春の陣に属します。
 そして永禄6年(1563)、白鹿城攻めに加わり、また一族を派して熊野城を攻め、城主・熊野和泉守を討ち取るなどの功をたてました。
 こうして為清は、永年の宿敵であった尼子氏を撃破、ついに永禄9年(1566)には尼子義久は富田城を明け渡すことになるのです。

 その後も為清は毛利に忠誠を尽くし、永禄12年(1569)には吉川元春に従って九州の大友氏を攻め、筑前立花城を攻撃しています。

 毛利軍の九州遠征の隙を狙って尼子勝久が出雲に侵攻してきますが、雲南地方に兵を進めた勝久に対し、為幸は急ぎ出雲に帰って日登で激戦を展開しています。
 そして元亀元年(1570)、尼子軍と布部山に戦って功をたて、さらに尼子軍を追って松江の羽倉城・真山城を攻めました。

 こうして勝久追い落としに貢献した為清は、そのまま尼子再興軍との戦いを続け、天正元年(1573)には鳥取城進攻に参陣しています。
 そして同6年(1578)に吉川元春軍に従って播磨へ進軍、上月城に立て籠る尼子勢を攻撃します。そして上月城攻略に功をたて、ついに宿敵・尼子氏を屠ったのです。

 その後、織田配下の羽柴秀吉が中国攻めを本格化します。
 天正7年(1579)、毛利領であった鳥取城が羽柴秀吉軍の攻撃を受け、同9年には完全に包囲されてしまいます。これが有名な「鳥取の干殺し」ですが、為清は子・為虎とともに毛利輝元に従ってこの包囲戦救援のために参陣しています。

 しかし、結局城は落ち、以後、羽柴勢の攻撃は激しさを増していきました。翌10年(1582)には、秀吉は備中高松城を攻撃します。為清はこのときも救援のために参陣していますが、「本能寺の変」がおこって織田信長が殺害されます。
 このため秀吉は毛利軍と和議を結ぶと播磨に撤兵、休む間もなく山崎の合戦で光秀を破り一躍天下人に躍り出ました。

 その後、毛利氏が豊臣大名となると為清は亀嵩城に隠居、天正16年(1588)に没しました。法号は文壮院殿忠峰義寛大居士です。

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たった4歳で跡目を継いだ幼子が、この戦乱の時代によく適応できたと思います。。あっちこっちに寝返ったとはいえ最後は仇敵尼子氏を滅ぼしたのですから世渡り上手だったんでしょうね。

2005/9/16(金) 午後 2:15 ゆーくんままま

そうですね〜。フシギなのは、尼子氏にはさんざん抵抗したのに、毛利氏にはきわめて従順だったこと。なぜかなぁ…?

2005/9/16(金) 午後 8:45 佐々木斉久

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毛利方で忠誠を尽くした三沢氏もいたのですね。

ぽち★

2008/11/27(木) 午後 5:11 [ - ]

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こちらも、別館の方へ

2008/12/7(日) 午後 0:15 タロ子別荘

>やまたろうさん
三沢氏は反尼子の急先鋒でしたからね…

2008/12/7(日) 午後 1:29 佐々木斉久

>夢うさぎ塾さん
ハイ、どうぞ!

2008/12/7(日) 午後 1:30 佐々木斉久


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