山中御殿

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三沢摂津守為虎

三沢為虎(生没年不詳)三沢為清の子。少輔八郎。摂津守。尼子氏に仕えたが、父とともに毛利氏に降って尼子氏との諸戦で活躍した。後、輝元により出雲仁多から長門厚狭郡に移封される。豊臣秀吉の小田原の陣に参陣し、伊豆下田城攻略に功をあげた。関ヶ原の後は、長府毛利家の家老となった。

 三沢為虎は為清の子で、早くから父・為清に従って戦場で活躍しました。

 永禄5年(1562)、毛利元就が出雲への侵攻を開始すると、三沢氏はいち早くこれに降礼をとり、永年の宿敵とも言える尼子氏との戦いに入ります。

 翌年には、毛利軍は要衝・白鹿城を包囲し、為虎は父・為清とともに毛利軍の一員として活躍したといわれます。
 もっとも、一説によればこのとき父・為清はいまだ26歳の若さであり、為虎がいかに早く生まれていたとしても10歳に満たない子供であったと思われるので、参陣していたかどうかは分かりません。

 実際に為虎が戦で活躍するのは、早くとも永禄12年(1569)の九州大友攻め以降のことでしょう。この九州攻めに際しては、為清・為虎父子は吉川元春の手に属し、筑前立花城攻めに加わわりました。

 その隙を狙って尼子勝久が出雲に侵攻してくると、為清・為虎父子は日登で尼子軍と激突、翌年には毛利本軍に属して布部山合戦に功をたて、さらに羽倉城・真山城を攻めました。
 そしてそのまま因幡での諸戦を戦い、鳥取城を攻略、そして天正6年(1578)には、吉川元春に属して上月城にて尼子勢を破り、因縁の対決に勝利しています。

 天正7年(1579)以来、毛利方の鳥取城は羽柴秀吉軍の攻撃を受け、同9年には完全に包囲されます。有名な「鳥取の干殺し」ですが、為清・為虎父子はこのときも毛利輝元に従って参陣しました。そして翌10年には備中高松城の防衛戦にも参陣し、功をあげました。

 なお、この対秀吉戦では、為虎が秀吉に通じているという流言が流れました。
 吉川元春の長子・元長がこれを聞き、直ちに為虎の陣を訪ねて「卿秀吉に款を通ずと聞けり、信なるか、信ならば今吾が頭を切り、秀吉に送られよ」と迫りました。
 為虎は恐れ驚いて、「これは全く讒言者の言いふらしたところです」と言って、誓紙を元長に献じたと言われています。

 その後、本能寺で織田信長が明智光秀に殺害され、秀吉が山崎の合戦で光秀を破って一躍天下人に躍り出ました。毛利輝元は秀吉に降ってその大名となります。

 輝元は領内の整備・財政再建に苦慮しました。その一番の障害となったのが、三沢氏のような国人層の存在でした。
 国人は半独立領主的性格を持っていたため、大名といえどもなかなか領内への政治介入は出来なかったのですが、輝元はその禁を犯し、率先して国人領内の検地を進め、あわせて配置換えを行ったのです。
 当然反発も起こりましたが、そうした勢力は三刀屋氏のように改易されています。

 しかし三沢氏は、国人としてはかなり強力な勢力で、うかつなことはできませんでした。
 『長府三沢家文書』によると、当時の領地は雲州中郡、隠岐半国、伯耆二郡、さらに近江国坂田、犬上両郡に所領を持っていたというのです。

 そこで輝元は、天正17年(1589)、所用を言いつけて芸州に為虎を呼び出しました。為虎は手勢600人を引き連れて芸州に出向きましたが、輝元に謀られて幽閉されてしまいます。
 その後、さらに長州厚狭郡へ移されました。残った三沢の一族や家臣も全員長州へ移動し、二度と故郷の仁多には帰ることは許されませんでした。
 とはいえ、全くの左遷というわけでありませんでした。当時、名のある毛利家臣は2,115人といわれていますが、その第12位に列せられ、古帳一万石を給されて同地に居館を構えています。

 その後も毛利氏の部将として天正18年(1590)の小田原攻めに参陣、吉見広頼・益田元祥・山内広通らと共に、伊豆下田城を攻略しました。
 続く慶長2年(1597)の朝鮮出兵にも参加し、蔚山(ウルサン)城の攻略に手柄をたて、秀吉から感状も受けています。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いがおこると、毛利輝元・秀元の請いにより赤間関警護の大任につきましたが、合戦後、毛利氏は防長二州に削封されてしまいます。
 為虎は毛利氏の移封に従って長州に移り、長府毛利藩の付家老となって二千七百石を給されました。

 三沢氏はその後、代々長府藩の家老職を勤め、藩の執政役として藩主を補佐しました。
 幕末にいたって三沢東市之助が出て、官軍として長府藩の正規軍「報国隊」率いて活躍、河井継之助が守る長岡藩や会津若松城の攻略に功を挙げています。

閉じる コメント(9)

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御存知かも知れませんが、仙台藩伊達家62万石の4代藩主・伊達綱村の母、三沢初子は、この三沢為虎のひ孫に当たるのだそうです。また、鳥取藩池田家に仕えた者の中にも三沢一族がいたそうで、三沢氏の血は江戸期に入って各地に拡がっていった訳ですね。

2005/9/19(月) 午後 10:50 [ mannennetaro2005 ]

ええ、そのようですね〜。三沢初子は、伊達騒動(寛文事件)を扱った歌舞伎十八番「加羅先代萩」の「政岡」のモデルと言われていますね。初子の子は、宇和島伊達家にもつながっていますから、三沢一族の血はえらい広がりを見せたわけですねぇ…

2005/9/19(月) 午後 11:23 佐々木斉久

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輝元の策で長州に削封されて後も毛利に従った三沢氏の忠義あってにの長州藩だったんでしょうね。ところで報国隊を率いた三沢東市之助はその後どうなったのでしょうか?

2005/9/21(水) 午後 6:22 ゆーくんままま

えぇ〜っと…すみません、三沢東市之助についてはあまり詳しく分かりませんでした。ちょっと図書館にでも行って史料をあさってみましょう…

2005/9/22(木) 午後 6:10 佐々木斉久

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三沢為虎の妻が、大垣城主の氏家だったので、息子の三沢清長は、叔父の養子に入り大垣城主となったが、実子が生まれたため大垣を去った、初子は鳥取で生まれ、鳥取藩池田輝政の娘で伊達忠宗の正室となった振姫とともに仙台に移った三沢紀伊に養育されて綱宗の妻となった。 松尾芭蕉の奥の細道が、大垣を終点にしているのが面白い。

三沢宗直
三沢村為
三沢村清
三沢村保
三沢村延・・と。

2008/10/15(水) 午後 6:03 留守番タロ子

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>夢うさぎ塾さん
さすがによくご存知ですね〜!
勉強になります……

2008/10/22(水) 午前 1:50 佐々木斉久

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三沢氏の、毛利氏にまさるとも劣らない雄大な歴史を
堪能できました〜♪ サンキュゥ♪~(=^‥^)/

国人領主権力の処理など、戦国大名への脱皮を図る上で
輝元もなかなかやるな!と感動しました〜♪

元長もさすが豪傑ですね!
ぽち★

2008/11/28(金) 午後 4:58 [ - ]

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こんにちわ
「夢うさぎ塾」別館の方の「三沢初子」へ、改めて、転載をお願いします。

2008/12/7(日) 午後 0:13 タロ子別荘

>夢うさぎ塾さん
ハイ、ご随意に〜♪

2008/12/7(日) 午後 1:31 佐々木斉久


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