|
赤穴久清(1471-1553)赤穴幸清の子。加賀法師・善太郎・善高・安連・郡連。左京亮・駿河守。尼子経久、晴久の重臣として数々の合戦に参戦した。嫡男・光清に家督を譲って引退するが、大内義隆の出雲侵攻により光清が戦死すると、孫・盛清を補佐した。
赤穴氏は、もともと石見佐波氏の一族です。 佐波氏は三善清行の後裔で、清行から数えて五代目の義連が石見国に下り、佐波庄を領して佐波氏を称したことが始まりとされています。 赤穴氏はその庶子家で、佐波常連が出雲飯石郡赤穴荘の地頭になって赤穴を称しました。 この赤穴荘は、もともと荘官である紀氏が領していましたが、南北朝時代初期に紀氏の一族内で後継者争いがおこったため、これに乗じて佐波氏一族が進出、赤穴荘の地頭職となって支配権を確立しました。 以降、赤穴氏は惣領である佐波氏に従いながら出雲守護・京極氏の指示を受け、応永6年(1399)に大内義弘が反乱を起こした「応永の乱」や、応永18年(1411)に飛騨国司・姉小路氏の幕府への反乱「飛騨合戦」などに従軍しています。 その後、応仁の乱が始まると、出雲・石見・備後の三国の国境に位置した赤穴荘は重要な意味をもって周辺諸勢力の攻防の中心となっていきます。 この頃の赤穴氏の当主は久清の父・幸清で、周辺諸国人と争い、文明2年(1470)には神西氏の神西城を攻撃しています。 この応仁の乱を通じて権力を強化したのが京極氏の守護代であった尼子氏で、尼子清定は出雲東部地方の支配権を確立しました。先の神西城の攻撃も、赤穴氏が尼子氏と連携して行ったものであるとされています。 その子・経久は一時富田城を追放されましたが、やがて復権すると雲南地方の仁多郡に勢力をほこった出雲最大の国人・三沢氏を降します。これによって尼子氏は出雲最大の勢力となったため、三刀屋氏などの諸国人は次々と尼子氏に降礼をとりました。 赤穴氏は久清が当主となっていましたが、表面尼子氏に恭順しながら、しばらくは惣領・佐波氏に従って半ば独立を保っていました。 しかし尼子氏は備後・伯耆などに積極的に外征に出、出雲国人たちにも圧迫を強めます。このため永正15年(1518)、久清・光清父子はついに佐波氏と断って尼子氏に降ります。久清の「久」は、このとき経久からもらったものでしょう。 なお、これに先立って、永世12年(1515)、久清は嫡男・光清に家督を譲っていますが、以降も発言権は保っていたようです。 こうして尼子氏の家臣となった久清は経久から優遇され、その居城・赤穴瀬戸山城は重要拠点として尼子十旗の四番目に位置づけられます。 久清もその厚遇にこたえて尼子勢の一翼を担って活躍、大永7年(1527)には光清とともに備後の毛利攻撃などに参加しています。 天文九年(1541)には、経久の跡を継いだ晴久が吉田郡山城を攻撃しますが、このとき久清は、備後・石見方面の備えとして赤穴城に残留していました。 この合戦は尼子方の大敗北におわっていますが、その結果、尼子の麾下にあった福屋隆兼、三沢為清、三刀屋久扶、本城経光、宍道正隆、古志吉信らは大内義隆に通じます。 そして天文11年(1543)、福屋・三沢らの要求にこたえる形で大内義隆は大軍を率いて山口を発し、安芸・石見などの豪族を加えて、出雲に入り赤名瀬戸山城を包囲しました。 この瀬戸山城合戦では、晴久の命により富田城から田中三郎左衛門ら一千騎の援軍が参じ、大内軍の来攻に備えていました。 久清・光清父子は要害の瀬戸山城に拠り、押し寄せる、大内の大軍に対してよく戦いました。しかしながら、光清が大内方の陶隆房の家臣に喉咽を射られて討死したため戦闘継続が困難となったため、城兵の助命を条件に降伏・開城しました。 その後、久清はいったん大内氏に属しますが、天文12年(1544)から晴久が再び攻勢に出たため出雲国内は尼子氏に平定され、久清も尼子氏に復帰します。 晴久は光清の奮闘をたたえて旧領を安堵した上、領地の加増を行いましたが、大内氏に従っていた光清嫡男の詮清は九州戦線で戦死、次男の定清も大内の人質となっていたため義隆によって殺害されてしまいます。 このため久清は三男・盛清(のちに久清と改名)に家督を継がせ、自らは後見として赤穴氏を率い、尼子氏への忠節を尽くしました。
そして天文22年(1553)、久清は息を引き取ったのです。 |
全体表示
[ リスト ]







赤穴氏の動静について細かく調べられてあり、
大変おもしろかったです。 (@_@) おどろき
この辺りは一国人としてしか把握してなかったため、
知識が増えありがたかったです!<m(_)m> ありがと
国人領主の生き様がよくわかりました!
ぽち★
2008/12/2(火) 午後 5:00 [ - ]