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吉川国経(1443-1531)吉川経基の嫡男。千若丸。伊豆守・治部少輔。経基の隠居に伴って66歳で家督を継いだ。大内義興に従って京・船岡山に戦い、のち尼子経久に組した。嫡男・元経が先立ったため、興経の後見を務めながら娘を毛利元就に嫁がせるなど父と同様に近隣諸国との血縁関係を結び、吉川家の土台を固めた。
吉川国経は、「鬼吉川」と呼ばれた吉川経基の嫡男です。 国経は経基の跡を継いで吉川氏の当主となりましたが、経基が老境に至ってもなかなか家督を譲ろうとしなかったため、国経が家督を継いだのは結局永世6年(1509)、66歳(一説に57歳)のときでした。 国経に家督を譲った後も父・経基は引退したわけではなく、合戦のたびに出陣、周囲の者が辟易するほどでした。しかしながら、以降吉川氏の舵取りは家督を継いだ国経がとったことには違いありません。 永世4年(1507)、大内義興は足利義稙を奉じて京へ向かいますが、国経は義弟にあたる尼子経久(経久の妻は国経の妹)ら中国地方の諸将とともに従軍、上洛しました。永正8年(1511)には、船岡山の合戦に子・元経とともに参加し、父子ともに奮戦して功を立てています。 しかし、この大内義興の上洛中、安芸分郡守護・武田元繁が安芸国内で自己の勢力拡大につとめるようになります。元繁は吉川氏・毛利氏など安芸国人の領土を侵犯したため、国経は元経とともに、この元繁と争いました。そして毛利元就の初陣として知られる有田合戦において、元繁を敗って敗死に追い込んでいます。 この元繁との戦いの前後、国経は元経に家督を譲って隠退したものと思われます。 国経は合戦で活躍するばかりではなく、父・経基と同様婚姻政策を積極的に進めました。 まず、国経は妻として石見有力の国人・高橋直信の娘を娶ります。そして自らの娘を石見の福屋隆兼、安芸の毛利元就に嫁がせました。元就の妻は法名の「妙玖」で知られ、隆元、元春、隆景らを生んでいます。なお、次男・元春が後に吉川氏を継ぐことになります。 やがて、出雲の尼子経久が山陰から山陽に勢力を拡大しはじめます。 吉川氏は大内義興の上洛時期に従って大内氏に属していましたが、地理的な位置や姻戚関係もあって、大内氏から尼子方に転じます。そして経久に大内方の動静を報告、毛利氏を尼子方に結び付けようとつとめました。 ところが、大永2年(1522)、嫡男・元経が国経に先だって死去してしまいます。このため国経は、元経の嫡子・興経に家督を継がせ、その後見役となりました。 大永5年(1525)、毛利元就が尼子氏と絶って大内に服属します。これによって吉川氏は舵取りが難しくなってきます。 しかし、国経は尼子氏との連携を崩すことなく、毛利氏と敵対関係を続けます。この背景には、国経の妻の里である高橋氏が、元就によって滅ぼされたことも関係があるかもしれません。 その後、尼子氏と毛利氏の対立は激化していきますが、その最中、国経は享禄4(1531)に89歳という長寿をもって死去しました。法名は正受院一株慶守と伝わっています。
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戦国時代に長寿を全うすることは大変なことでした。しかも嫡男・元経に先立たれても孫の後見役で政治の舵取りをしてしのいだり、婚姻政策を推し進めるなど、したたかな政治家だったと思います。
2005/9/26(月) 午後 2:43
元経もそのうちアップしますが、元経も短命というわけではないんですよねぇ。六十代まで生きてますし。経基・国経が当時としては異常に長生きなので、息子のほうが先に死んじゃったのですね。なんとも吉川氏は面白い家系です。
2005/9/26(月) 午後 6:38
鬼吉川も後継者は手堅く婚姻政策で乗り切ったのですね。
興経の時代に毛利氏の乗っ取りがあったのは、
世代交代のまずさがあったのかもしれません。
ぽち★
2008/12/3(水) 午後 4:15 [ - ]
>やまたろうさん
興経は一族間の争いに敗れたため、吉川元春にとってかわられてしまったんですよね。
吉川氏が一枚岩であれば、乗っ取りはなかったでしょう。
2008/12/3(水) 午後 8:22