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吉川元経(1459-1522)吉川国経の嫡男。母は高橋直信の娘。治部少輔・伊予守。毛利弘元の娘を妻とした。有田合戦などで毛利氏とともに武田元繁を破るなど活躍。尼子氏が勢力を拡大するとこれと結んで大内氏と戦ったが、父・国経に先立って死去した。
吉川元経は、家督を相続して間もなく父・国経がに先立って死去しているため、どうしても「短命」なイメージがあります。 しかし、元経が家督を相続したのは50代後半から60代だったと思われ、程なく死亡していますが63歳まで生きており、長命とはいえないものの当時としてはけっして短命ではありません。 祖父・基経、父・国経があまりに長命であったために、比較すると短命に思えてしまうのです。 この元経は、永正8年(1511)8月、父・国経とともに船岡山の合戦に参加して功をあげています。船岡山合戦は室町幕府の実権をめぐって細川澄元と細川高国・大内義興らが争った戦いですが、大内義興はこのとき、中国・九州の勢力を動員して戦いに赴きました。この中に吉川氏や毛利氏、尼子氏などもいたのです。 このときに上洛していた勢力に、厳島神主家もありました。しかし、当主が病死したことで家督相続の内紛がおこり、安芸国は不穏な情勢となってしまいます。 そこで大内義興は、傘下にあった安芸分郡守護・武田元繁を帰国させ、安芸の争乱を鎮圧させようとしました。 ところが、帰国した元繁は自己の勢力拡大につとめるようになたっため、元経は毛利興元らとともにいそぎ安芸に帰国します。 元経が家督を継いだのはこの頃だと思われます。 永正12年(1515)、武田元繁は有田城を攻撃を開始しました。元経は毛利興元の援兵を得て有田城を救援、元繁の軍を撃退しています。戦後、有田城は元経に与えられたため、元経は小田刑部を城将としてこれを守備させました。 その後、毛利興元が死去して幼い幸松丸が毛利氏の家督を継承すると、永正14年(1517)、これに乗じた武田元繁が反撃を試みます。山県郡に侵攻してきた武田軍は、再び有田城を攻撃したのです。 このときも元経は毛利氏と協力して武田軍を迎え撃ちました。 数に勝る武田軍は手ごわく、元繁自身も猛将であったために吉川・毛利軍は苦戦しますが、武田家臣・熊谷元直を討ち、ついで突出した武田元繁を討ちとって大勝利を得ました。 これが毛利元就の初陣として知られる「有田合戦」です。 このころになると、出雲の尼子経久が山陰から山陽に勢力を拡大していきます。 元経は、叔母が経久の妻であるという関係もあって大内氏から尼子方に転じ、尼子氏に大内方の動静を報告する役割を果たします。そして、同じく姻戚関係にあった毛利氏を尼子方に結び付けようとつとめました。 そして大永2年(1522)、尼子経久の本格的安芸侵攻を前にして、元経は父・国経に先だって死去してます。
嫡男・興経はいまだ幼少であったため、その後吉川氏は国経が興経を後見していくことになります。 |
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吉川氏は長命な一族だったのですね!
中国地方も中央室町政権への影響力が大きい
重要な場所ですね。
この点関東は離れていますね(足利氏はいますが)。
元経が生きていたら毛利氏の乗っ取りは
行われていたか、おもしろいところです。
ぽち★
2008/12/5(金) 午後 7:43 [ - ]