山中御殿

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吉川元春

イメージ 1吉川元春(1530-1586)

毛利元就の次男。母は吉川国経の娘(法名:妙玖)。松寿丸・少輔次郎。駿河守・治部少輔・侍従。吉川興経の養子となり、吉川家を継いだ。熊谷信直の娘を妻とする。生涯で76戦中64勝の戦績を残した猛将で、「鬼吉川」の異名をとった。父・元就の覇道を支え、その没後は甥・輝元を支えて毛利家の発展に尽くした。毛利家が豊臣秀吉と講和した後隠居したが、秀吉の島津討伐に従軍、陣没した。

 吉川元春は、享禄3年(1530)、毛利元就の次男として誕生しました。そして天文12年(1543)に元服、以後、父・元就の覇業を支えることになります。

 天文16年(1547)、元春は熊谷信直の娘を娶ります。
 熊谷氏といえば安芸分郡守護の武田氏に属した武将で、その関係から出雲の尼子氏の勢力下にあり、かつては毛利氏と敵対関係にありました。しかし、当主・光和との折り合いが悪くなったことから武田を離れ、毛利に近づいたものです。
 とはいえ、毛利に近づいたといっても臣従したというほどの関係ではなく、あくまで安芸国人の盟主として仰いでいただけで、熊谷氏そのものは大内氏の勢力に属していたのです。
 つまり、この婚姻は大内勢力から毛利の勢力へ熊谷氏を引き込むためのものであったといえます。

 ちなみに信直の娘は非常な醜女として知られていました。しかし元春は「信直の娘は醜いため、誰も娶ろうとはしないが、そのような娘を自分が妻にすれば、信直は喜び元春のため、ひいては毛利のために懸命に働くだろう」と言って結婚し、これに感じ入った信直は、忠実に元春に従ったといわれています。
 この話の真偽はさだかではありませんが(というより、父・元就の「演出」だと言われています)、夫婦仲はとても良かったようで、元春はこの後側室を持たず、信直の娘(新庄局)との間に四男二女を儲けています。

 天文16年(1547)、元春は安芸・石見国境付近に勢力を誇る吉川興経の養子となり、その跡を継いで吉川元春と名乗ることになります。

 吉川氏は、興経の曽祖父・経基の娘が尼子経久の妻となっていた関係上、尼子氏との連携をとっていました。毛利氏も一時期、吉川氏にならって尼子氏に属していましたが、やがて大内側に服属ます。
 こうして毛利・吉川両氏は敵対関係になりましたが、尼子晴久の郡山城毛利攻めが失敗した頃から大内方となり、それとともに毛利氏との連携を進めていました。

 ところが興経は大内氏の月山城攻撃中に再び尼子方に転じてしまったのです。このことが吉川家臣団の混乱を招いたため、吉川家の宿老たちは興経を隠居に追い込むことにしたのです。
 元春に白羽の矢がたったのは、元春の母が興経の祖父・国経の娘で、興経とは従弟の関係にあったことからでしょう。また、成長著しい毛利氏の勢力に入ることで、尼子氏の反撃や大内氏の介入を防ごうとしたということもあったと思われます。

 この話には続きがあり、天文19(1550)、元春の形式上の養父であり、布川に隠居していた興経は元就に急襲され、その子・千法師とともに殺害されています。元就は、いまだ壮年の興経と千法師の存在が将来の禍根になると判断したのでしょう。

 こうして吉川氏の当主となった元春は、その後は弟の小早川隆景と共に『毛利の両川』として山陰地方の政治・軍事を担当し、山陰の覇者・尼子氏との激戦を繰り広げることになります。

 元春の山陰遠征は、弘治2年(1556)ごろからはじまります。
 これは、大内義長・陶晴賢に反旗を翻した元就が、本国・安芸の手薄に乗じて尼子氏が南下してくるのを防ぐ意味合いがありました。
 元春は元就の期待以上の活躍を見せ、石見方面に進軍して同年5月には尼子氏の支配下にあった大森銀山を奪取しています。

 しかし、尼子氏も黙って見ていたわけではありません。
 尼子晴久は自ら猛将・本城常光らを率いて石見に進軍、忍原で毛利軍を破って永禄元年(1558)には大森銀山を奪い返しています。晴久は銀山山吹城に本城常光を配し、その鉄壁の守りに元春といえども容易に手をだすことは出来ませんでした。

 しかし、やがて晴久が没すると常光は尼子を去って毛利に属し、元春は毛利本軍とともに山陰方面に兵を進め、永禄9年(1566)には月山富田城を籠城戦の末に落として出雲を平定します。
 その後、尼子勝久ら尼子再興軍が出雲に侵攻してくると、九州戦線に出征していた元春は取って返してこれにあたり、元亀2年(1572)の父・元春の死に際しても、いまだ不穏な出雲を離れることなく尼子軍との戦いを継続しました。

 やがて織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国遠征軍が侵攻してくると、これを迎え撃ちます。
 尼子勝久らがこの秀吉に属して播磨上月城に拠ったため、天正6年(1578)にこれを破って勝利していますが、やがて羽柴軍の反撃がはじまると鳥取城、備中松山城などで毛利軍は敗退を続けます。

 天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が死去し、秀吉が備中から撤退を開始すると、元春は羽柴軍を追撃して殲滅し、天下を掌握するべきだと当主・毛利輝元に進言しましたが、弟・隆景が反対したため結局、輝元は隆景の策を容れ、元春をしりぞけています。

 この後、毛利氏は秀吉に接近して豊臣政権下の大名としての地位を築いていきますが、秀吉に仕えることを嫌った元春は、嫡男・元長に家督を譲って隠居しました。
 なお、元春の秀吉嫌いは徹底していて、結局死去するまで一度も秀吉と顔を合わせることがなかったといわれています。

 しかし、天下統一の事業を進める秀吉は元春の武名を欲したため、天正14年(1586)、元春は秀吉の強い要請を受けて九州征伐に参加します。
 しかしこのとき元春は、膿性炎症(癌とも言われている)に身体を蝕まれていました。元春は病を押して在陣しましたが、ついに豊前小倉城で死去しました。
 一説に、黒田如水が差し出した鮭料理を、病に悪いと知りながら食べてしまったため、病状が悪化して死去したとも言われています。
 法名は、随浪院殿駿州大守四品拾遺海翁正恵大居士と伝わっています。

 元春は戦国武将の中でも勇将として知られており、生涯に七十六度の戦に出て六十四度の勝ちをおさめて「鬼吉川」の異名をとりました。
 また、単なる武辺者ではなく、尼子氏討伐の陣中では『太平記』40巻を書写したと伝えられ、これを現在に『吉川本』として伝えています。
 曽祖父・吉川経基の智勇を見事に受け継いだ、まさに智勇兼備の名将といえるでしょう。

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勇猛な元春に智将タイプの小早川隆景と、全く異なるタイプであったからこそ、元就、隆元亡き後の毛利家も危機を乗り越えられたのでしょう。徹底した秀吉嫌いを生涯貫いたことにも、彼の人柄がよく表われていますね。

2005/10/2(日) 午前 10:42 [ mannennetaro2005 ]

その通りですよね。尼子氏の尼子国久や興久が、甥であり当主である晴久と対立したのに対し、毛利氏は元春、隆景両名とも甥で当主の輝元をよく補佐しました。このあたりが両家の盛衰の決定的な違いなんでしょう。

2005/10/2(日) 午前 10:53 佐々木斉久


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