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赤穴盛清(1528-1595)赤穴光清の三男。小法師・満五郎・久清。右京亮・美作守。父・光清や兄・詮清の戦死によって家督を相続し、祖父・久清の後見を受けた。後に名を祖父と同じ久清と改めた。父の奮戦の恩恵で尼子晴久に優遇されたが、尼子の没落に伴って毛利家に仕えた。
赤穴盛清は、父・赤穴光清の戦死にともなって家督を継いだ人物です。後に祖父とおなじく久清と名乗っていますが、区別するためにここでは盛清の名で記しておきます。 天文11年(1543)、赤穴氏の居城・瀬戸山城は大内義隆の大軍によって攻撃を受けます。 盛清の父・光清は奮戦して一度は大内軍を撃退しますが、大内の武将・陶隆房の部下が放った矢をのどもとに受け、手当ての甲斐なく死去します。 このため瀬戸山城は開城、赤穴氏は大内氏の指揮下に属すことになりました。 しかし、大内軍は翌年には、尼子晴久に敗れて出雲を退去します。 その後もしばらく、赤穴氏は大内氏に属し、盛清の長兄・詮清と二兄・定清は大内軍に加わって、九州筑前に下向しました。しかし天文13年(1545)、詮清は討死してしまいます。 また、尼子晴久は大内軍を撃退するとすぐに出雲国内を平定し山陰地方を掌握したため、瀬戸山城の赤穴氏もふたたびこれに服属することになります。しかしこのため、大内への人質となっていた次兄・定清は自害して果てました。 このため、赤穴氏は盛清が家督を継ぐことになり、祖父・久清の後見を受けます。尼子晴久は、光清の奮戦を称えて赤穴氏の旧領を安堵したうえ、数々の恩賞を与えました。 盛清はこれに応え、毛利・大内方面への押さえとして変わらぬ忠節を果たしました。 永禄五年(1562)、大内氏を滅ぼして山陽を掌握した毛利氏は、大挙して赤穴峠より出雲に侵入してきます。このとき尼子晴久はすでに亡く、嫡男・義久があとを継いでいました。 尼子氏衰退を前にした盛清は、三沢為清、三刀屋久扶らの薦めもあって、毛利の軍門に降ってしまいます。そして以後、終始毛利元就に仕えて尼子攻撃の先頭に立ちました。 ただし、一説には富田城へ篭城し、開城まで城中にあったとも言われています。 盛清が降伏を決意したとき、最後まで忠義を主張した森田左衛門と鳥田権兵衛は、瀬戸山を出て一揆を起し、毛利の軍を大いに悩ませました。その後、この両名は白鹿城の松田氏のもとに合流、抵抗を続けたといわれています。 盛清は旧臣の叛乱を叱責されますが、「名のために寝返った己にこそ非があり、彼等こそ誠の忠臣だ」と言い、これを聞いた元就はこれを聞いて、「盛清もまた義者、森田、鳥田もまた伯夷、叔斉に似たり」と賞したと伝えられています。 富田城開城の後、尼子勝久らが尼子再興を志して出雲へ侵攻してきますが、盛清は毛利への忠節を貫き通します。 その後、盛清は子供に恵まれなかったために弟・幸清に家督を譲りました。 幸清は天正15年(1587)、吉川広家が兄・吉川元長より家督を相続する際に、益田元祥・熊谷元直・古志重信・湯家綱らとともに起請文に連署しています。 幸清が死去するとその子・元寄が赤穴氏を継ぎ、天正18年(1590)に毛利輝元より遺領の相続が認められ、翌年の「天正の石直し」では、千六百六十八石の給地を毛利氏から与えられています。以後、赤穴氏は在地性を失っていきます。 その後、元寄は慶長の役に渡海して蔚山の戦いに参加し、慶長4年(1599)、姓を中川に改め、毛利氏の防長移封に従って長州へ移っていきました。
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赤穴氏の動静が詳細にわかり興味深かったです。
大内、尼子の二大勢力に翻弄されながらも生き抜いた
赤穴一族もすばらしいものがありますね。
ぽち★
2008/12/6(土) 午後 7:59 [ - ]