山中御殿

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吉川広家

イメージ 1吉川広家(1561.12.7-1625.10.22)

吉川元春の三男。母は熊谷信直の娘。才寿丸・経言。民部少輔・蔵人頭・侍従。豊臣秀吉の養女(実父は宇喜多直家)を妻とした。兄・元長が死去したため吉川家を継ぎ、月山冨田城主として出雲東部・伯耆西部に14万国を領した。朝鮮出兵などで武名をあげたのち、関ヶ原では徳川家康に内通、戦後は主家・毛利家の取り潰し回避に奔走した。毛利家は防長二州で存続、そのうち岩国3万6千石を与えられて岩国藩主となった。

「鬼吉川」の子

 吉川広家は「鬼吉川」の異名を持つ吉川元春の子で、はじめは経信と名乗りました。毛利元就の孫に当たり、主家・毛利輝元は従兄弟にあたります。
 広家は、元亀元年(1570)、父・元春に従って尼子勝久の討伐戦で初陣を飾って以後、父とともに山陰方面を中心に転戦しました。

 その後、天正11年(1583)には織田信長死後に天下人となった羽柴秀吉への人質として差し出されています。
 吉川家の家督は、元春の嫡子で、広家の兄にあたる元長が継いでいました。ところが天正15年(1587)、元長は九州攻めの戦陣で病死してしまいます。
 このため広家は吉川家に戻って家督を継ぎ、吉川家当主となりました。「広家」という名乗りは、このころから使い始めたようです。
 広家はそのまま九州戦線での指揮をとり、秀吉の命で豊前・肥後の一揆を鎮圧して父、兄の名に恥じない武名を鳴らします。

 秀吉に大いに気に入られた広家は、毛利氏を支えるその手腕を高く評価され、翌年には秀吉養女の宇喜多秀家の姉を正室に迎えました。
 そして天正19(1591)には出雲月山富田城主となり、出雲東部・伯耆西部に所領14万国を与えられています。

 朝鮮出兵がはじまると、文禄・慶長の役ともに渡海して戦い、碧蹄館(ペクチェグァン)の戦いなどに奮戦して明の大軍を寡兵で打ち破り、見事な戦術でその武名を上げました。

主家のために奔走

 この朝鮮戦役中、広家は加藤清正、福島正則、黒田長政らの武断派と懇意になり、石田三成ら文吏派とは対立感情を抱くようになったといわれています。
 そのためもあってか、三成と親しかった毛利主家の外交僧・安国寺恵瓊とは犬猿の仲でした。

 慶長5年(1600)、関ヶ原合戦がおこります。
 広家は徳川家康の東軍に味方するよう進言しますが、石田光成との友誼を大事にした毛利輝元は西軍の総大将にかつぎ上げられてしまいます。
 石田光成に反発していた広家は西軍に勝ち目なしと信じ、ひそかに黒田長政を通じて徳川家康に通じました。毛利家120万石の安堵を条件に不戦の約束をしたのです。

 こうして関ヶ原合戦に出陣した広家は、約束どおりに南宮山に陣取ったまま動かず、毛利秀元らの西軍加勢を阻止、東軍の勝利に貢献しました。
 ところが戦後の論功行賞では、家康は平然と毛利家領国安堵の約束を反故にし、毛利家取りつぶしを決定します。かわりに吉川家を周防・長門両国36万9千石に封じると通知してきたのです。

 あわてた広家はこの申し出を辞退し、周防・長門両国を毛利主家の領土とすることを願い出ました。広家の奔走の甲斐あって、周防に毛利本城を置かないことを条件にこれが認められ、毛利主家は改易から免れたのです。

 広家はこの中から周防岩国3万6千石を領し、その初代領主となりました。
 しかし、広家は毛利家では裏切り者として扱われ、岩国藩は徳川幕府からは「藩」としての格付けを約束されたにもかかわらず、毛利本家からは独立した藩とは認められませんでした。
 岩国藩は広家以来13代の藩主を数えますが、吉川家が大名家と認められるのは、なんと関ヶ原合戦から268年後の明治元年になってからのことでした。

 こうした扱いを見てのことでしょう、慶長18(1614)年の大坂冬の陣では、広家は豊臣秀頼の招きを受けました。しかし広家はこれを拒否し、逆に兵2000を率いて大坂に参陣しました。

 その後広家は岩国藩の基礎をかため、寛永2年(1625)9月、玖珂郡の通津で病没しました。法名は全光院殿中厳如兼大居士と伝わります。

広家の人物

 広家は、勇将として知られた父・元春、兄・元長とおなじく武勇・戦術に長けたことで知られました。しかしそればかりでなく、同時に祖父・元就や叔父・小早川隆景のように戦略面にも通じ、その手腕は秀吉にも高く評価されています。
 これは関ヶ原での暗躍とその後の家康との折衝をみても分かります。もっとも、関ヶ原で毛利本軍が西軍に助力していたら、東軍が勝利したかどうかは分かりませんが。

 また、広家は普請上手でもあったようです。
 月山冨田城主として雲伯を領したとき、山手の月山富田城では不便であるとして米子に築城、壮麗な天守閣を持つ米子城を作り上げました。
 また、岩国時代には横山に築城を開始、7年後に完成しますが、この岩国城は後の一国一城令により破却されています。

閉じる コメント(8)

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結果を見たら毛利がいれば・・・本当にわからなかったですよね。もちろん家康の本軍のことや真田と戦ってたアレのことを考えると・・・というのはありますが。 彼のミスは大毛利が所領安堵されると思っていたところでしょうかね>< 褒美のこと考えたら安堵されるわけないのに・・@

2005/10/28(金) 午後 5:49 ヒロ

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吉川広家は私も好きな武将の1人です。毛利が奇跡的に明治まで生き残れたのは彼の戦略に多く因ると思います。しかも、もしこの時徳川が毛利を改易してたら、明治維新はあったかどうか?!歴史の醍醐味ですね〜!

2005/10/28(金) 午後 6:00 ゆーくんままま

>ロクさん 毛利がどこまで本気で戦うか…でもちがいますしねぇ。毛利が優勢に戦っていたら、小早川秀秋も寝返らなかったかもしれないし、そうなるとまったく分かりません。でも、歴史に「もしも」はないですからねぇ。

2005/10/28(金) 午後 6:41 佐々木斉久

>KOROKOROさん たしかに、広家がそのまま防長の太守におさまってたら、明治維新はどうなったか?? これも想像すると面白いですが、やはり歴史に「もしも」は許されませんからねぇ^^;

2005/10/28(金) 午後 6:42 佐々木斉久

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毛利家が関ヶ原合戦の後も存続出来たのは、広家の存在があればこそであったと思います。家中から「裏切り者」として扱われたことについて、それが毛利家のためとあえてその汚名を受け入れたのか、それとも鬱屈した思いを抱えながら後半生を送ったのか、その辺りの広家の心理状態が気になりますね。

2005/10/28(金) 午後 7:24 [ mannennetaro2005 ]

>寝太郎さん 私も広家が居たからこそ毛利家が存続したのだと思います。「毛利家のためとあえてその汚名を受け入れたのか、それとも鬱屈した思いを抱えながら後半生を送ったのか」ということですが、両方なんじゃないでしょうか? あえて汚名を受けたものの、笑ってそれを受ける、という心境にはなかなか至らないでしょう…

2005/10/28(金) 午後 9:43 佐々木斉久

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そうなんですよねぇ・・ああ・・馬鹿な用で優秀な結果を残した小早川秀秋もいましたね〜・・彼の軍に殺されたんでしたっけ?大谷吉継は・・・><

2005/10/29(土) 午前 6:46 ヒロ

>ロクさん 小早川秀秋、たしかに軽率な若者ですが、岡山での治績を見る限りかならずしもバカなだけとは言えない気がするんですよねぇ。大谷刑部、お気に入りですか?^^

2005/10/29(土) 午後 9:35 佐々木斉久


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