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小早川正平(1523-1543.5.9)
小早川興平の子。詮平。掃部頭・備後守・美作守。小早川家十五代当主。大内氏に属したが、尼子氏の勢力拡大により尼子氏に属した。しかし大内氏の攻撃を受けてふたたび大内方となり、大内義隆に従って月山富田城を攻撃したが失敗、退却戦の殿軍をつとめて戦死した。 小早川氏は相模国を本拠地とする桓武平氏の土肥氏の分枝といわれています。 源頼朝に仕えた土肥実平の子・遠平が土肥郷(神奈川県湯河原市)の北部、小早川を領して、在地名をとって小早川を称したのがはじまりです。 頼朝が全国に守護・地頭を置くと、遠平は旧平家領の安芸国沼田庄(ぬたしょう、現在の広島県三原市)の地頭職を与えられ、安芸に移住しました。この遠平は、のちに承久の乱で戦功をあげて同国竹原庄(竹原市)の地頭職を加えられています。 小早川氏はこの沼田を本領として竹原を分家に分与しましたが、戦国時代には竹原小早川氏の勢力伸張が大きく両小早川家は勢力で拮抗するに至っています。このため、両小早川氏はたびたび衝突、応仁の乱では東西にわかれて争っています。 小早川正平は、本家・沼田小早川家の小早川興平の子として生まれます。 しかしこのとき、小早川家は複雑な状況下にありました。 正平の父・興平は、その父・扶平の死によってわずか四歳で家督を継いでいます。 しかしこのとき、扶平が時の将軍・足利義稙に対立した細川氏に密着していた関係で、将軍義稙から所領の安堵を得られませんでした。 このため小早川氏の惣領職は分家の竹原小早川弘平に与えられるという事態になったのです。しかし弘平は興平の所領を没収せず、逆にこれを補佐して成長を待ちました。 こうして無事に沼田本家の当主として成長した興平ですが、大永6年(1526)にはわずか22歳の若さで亡くなってしまいまったのです。 このため、正平も父とおなじく、わずか4歳で家督を継承します。 おそらくこのときも、小早川弘平の庇護を受けながら成長していったものと推測されます。 当時の中国地方は、大内家と尼子家の勢力が入り乱れ、安芸国人領主たちは保身のために苦心、今日は大内、明日は尼子と離合集散を繰り返していました。 小早川家もそうした国人領主の一家で、父・興平の代には大内義興に従っていました。成長した正平もこの方針を受け継ぎ、大内氏に従いました。 ところが天文9年(1540)、尼子晴久が毛利氏の拠る郡山城を大挙して包囲します。正平はこれに危機感を覚え、大内方から尼子方に転じたのです。 しかし、これに反発した家中の大内派が高山城を占拠、大内氏から城番が派遣され、正平は大内氏の監視下に置かれるという事態になってしまいました。 こうして小早川家は大内家に完全に取り込まれてしまいます。 海沿いの要地を領し、瀬戸内海賊衆と深い関わりを持つ小早川家は、大内家にとっても重要な拠点であったのでしょう。 この後、尼子軍は大内・毛利軍に敗れて出雲に敗走し、正平は大内家の将としてたびたび出征することになります。 天文11年(1542)、大内義隆は出雲遠征のために出征します。 正平もこれに従い、赤穴瀬戸山城の攻撃を経て富田城を包囲しました。 ところが尼子軍の守りは堅く、難攻不落の富田城は落ちる気配はなく、大内軍は小競り合いによってたびたび敗れました。 この事態に、尼子から大内に寝返っていた武将たちが大挙してふたたび尼子方に転じてしまいました。 このため、大内義隆は戦闘継続が困難であるとして総退却を決定します。 天文12年(1543)5月9日、正平は退却する大内軍の殿軍を命じられ、鴟巣川にて尼子軍の追撃部隊を迎え撃ちました。 群がる尼子軍相手に奮戦した正平ですが、川に逃げ道を阻まれたため、いまはこれまでと尼子勢に突入、斬りこんで壮絶な討死を遂げたのです。いまだ21歳の若さでした。 法名は成就寺天秀祖祐。亡骸は正平が戦死した場所にほどちかい、現在の島根県出雲市美談町に葬られ、この地に墓所があります。正平が再建した小早川家の祈願寺である成就寺にも墓所があります。
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僕の父が小早川家の居城があった三原の出身で、しかも父の生まれ育った家は沼田にあるので、小早川家には大変興味があります。「今日は大内、明日は尼子」という日々を余儀なくされる中で、必死に我が家を守ろうとした正平の生き様には胸を打たれます。
2005/10/30(日) 午後 8:36 [ mannennetaro2005 ]
>寝太郎さん 三原城ですね〜。一度行ってみたいんですが、鉄道敷設によって城の遺構は破壊されてますよねぇ。残念です…。小早川正平の墓所は本文にあるように出雲市にあるんですが、看板が国道431号線沿いにでていて、昔からきになっいたんです。まだ行って見てはないんですが…今度行ってみようかな。
2005/10/30(日) 午後 9:52
小早川家のところはおもしろいですよね〜♪
鎌倉時代の地頭、承久の乱と絡ませると理解が早いので
好きです(関東とのつながりとか。。。)。
一説には正平は元就公に謀殺されたとも言われていますが、
それは後世からみた推理でしょうね。
ぽち★
2008/12/9(火) 午後 4:01 [ - ]
小早川氏が一枚岩であれば、大内に付け入る隙をあたえることはなかったでしょうけど……
こればかりは正平の器量だけではどうしようもなかったでしょうね。
2008/12/9(火) 午後 9:49